同窓会 -Episode 0- (Pixiv Fanbox)
Content
『同級生』の前日譚。七年前に、美羽と順也に起こった始まりのお話を書きました。これを読んで頂くと、さらに『同級生』の内容がわかっていただけるのではないかと思います。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1.
空は朝から暗くて、昼過ぎにはとうとう雨が降り出した。
五時間目の授業中、窓ガラスに当たる雨の音を聞きながら、僕は黒瀬さんの背中を見ていた。
僕の席は、教室の一番後ろの窓際で、黒瀬さんは真ん中あたりの席に座っている。
彼女の髪は長くて、少し茶色い。授業中、彼女がふいに髪を後ろにかき上げると、そこだけ教室の空気が明るくなるような気がした。
黒瀬美羽――彼女はこの学年で、一番目立つ女の子だった。
顔が可愛いし、家はお金持ちだし、誰にでも優しい。先生たちも彼女のことをすごく気に入っている。
それに比べて、僕は誰の記憶にも残らない、ただそこにいるだけの人間。自分のことを「モブ」だと思っている。そう言うと少し悲しいけれど、実際そうなのだから仕方ない。
チャイムが鳴って、帰りの会が終わった。
みんなが騒がしく帰る準備を始める。僕はわざとゆっくり動いて、教室の人数が減るのを待つ。みんなと一緒にゾロゾロと帰るのは、なんだか気まずい。
「美羽、今日この後、駅前のカフェ行かない?」
「ごめん、今日はちょっと、このあと用事があるの」
友達に囲まれた黒瀬さんが、申し訳なさそうに手を合わせて断っている。
「えー、残念。じゃあまた明日ね」
「うん、また明日ね」
彼女は笑顔で手を振って、教室を出て行った。
僕はそれを見送ってから、自分のカバンを持って席を立った。
外に出ると、さっきより雨が強くなっていた。校舎の軒下には、大勢の生徒がいて、みんな傘を広げていく。
「最悪だ……」僕は小さく呟いた。
僕は傘を持っていなかった。カバンを頭の上に乗せて、走って駅まで行くしかない。覚悟を決めて足を踏み出そうとした。その時、
「傘、ないの?」
振り返ると、黒瀬さんが立っていた。
「え……あ、うん。忘れちゃって」
鼓動が急に速くなる。黒瀬さんと話すなんて、同じクラスだけど滅多にないことだった。緊張して、手汗がにじむ。
「これ、使って」
黒瀬さんは、自分のカバンから折りたたみの傘を取り出して、僕に差し出した。
「え? でも、黒瀬さんは?」
「私はこっちがあるから」
彼女は手に持っていたピンク色の傘を広げた。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
僕は戸惑いながらも、その折りたたみ傘を受け取った。
「じゃあね、一ノ瀬くん」
黒瀬さんは笑顔で手を振ると、傘をさして雨の中を歩いて行った。
しばらく、彼女の後ろ姿を見送ったあと、受け取った傘を広げてみる。少し使い古された、地味な紺色の折りたたみ傘だった。
「……本当に、優しいな」
黒瀬さんは、誰にでも優しい。僕が傘を忘れて困っていたから、たまたま貸してくれただけだ。そこに特別な意味なんてない。そんなことは、自分が一番よくわかっている。
けれど、たったそれだけのことが、僕には思いがけない幸せだった。
*****
「順也! なんでこんなに遅いの! 連絡もしないで!」
家に着いてドアを開けると、すぐに母親の怒鳴り声が響いてきた。
「……ごめん。雨が降ってて……、少し雨宿りしてた」
「雨宿り? 傘持っていきなさいって、あれほど言ったのに! その傘、誰の?」
母親は僕が持っていた紺色の傘をひったくった。
「……クラスの、友達に借りたんだ」
「友達? あんたに友達なんていたの?」
母親は鼻で笑う。
「どうせ、その辺に落ちてたのを拾ったんでしょ! 汚らわしい!」
母親は傘を玄関の三和土に投げつけた。
「……何するんだよ」
僕は叩きつけられた傘を拾う。
僕の母親は、父親のDVが原因で離婚している。そのせいで心が不安定だ。男の人が怖いのだ。僕が成長して、身体が大きくなるにつれて、父親に似ていくのが怖くて仕方ないらしい。
「順也、あんたは私を置いていかないわよね? 私の言うことを聞いてくれるわよね?」
さっきまで怒鳴っていた母親が、急に座り込んで泣き出した。
「……うん。置いていかないよ」
僕はため息を押し殺し、母親の背中をトントンと叩いた。
黒瀬さんに優しくされて、少しだけ温かくなっていた気持ちが汚されてしまった。
僕は自分の部屋に入って、鍵を閉めた。投げつけられた傘を丁寧に拭く。
「……なんで僕だけ、こんな目に遭うんだよ」
僕はベッドに横になって、天井を見つめた。
人生は不公平だ。黒瀬さんはお金持ちで、みんなに愛されて、光り輝く世界にいる。それなのに、僕はこんな狭くて暗い部屋で、毎日怯えながら生きている。
彼女は僕と話したことを、明日には忘れているだろう。傘を貸したことも、覚えていないかもしれない。
「……もし、僕が黒瀬さんだったら」
そんな、絶対に叶うはずのないことを考えて、彼女の笑顔を思い浮かべた。その時だった。
目の前の景色が、デジタルノイズのように一瞬だけ乱れた。
「うわっ……」
突然、空中に人影が現れ、僕は思わずベッドから飛び起きた。
「黒瀬……さん……?」
目の前には、さっき学校で見送った黒瀬美羽が立っていた。
制服も、髪型も、そのまま。けれど、表情は全くない。
「黒瀬美羽……? あなたには、私がその人物に見えるのですね。興味深いサンプリング結果です」
声は確かに黒瀬さんの声だった。けれど、感情が一切入っていない。まるで機械が喋っているみたいな声。
「な、何を言ってるの……黒瀬さん、なんで僕の部屋に……」
「私たちは『観察者』です」
黒瀬さんの形をした「それ」は、淡々と告げた。
「この世界は、私たちが構築し、運用している一種のシミュレーションに過ぎません。人格、身体、欲望、記憶……それらすべては情報的に記述可能なパラメータであり、上書きや再配置が可能なものです」
「シミュレーション……? 何それ、意味がわからないよ」
言っていることの半分も理解できなかった。だが、彼女が空中に指を滑らせると、そこにタブレットのような画面が浮かび上がる。
「限界のようですね。この世界の因果律(ルール)では、あなたのログは近々途絶える可能性があるようです」
彼女は画面を見つめながら、感情のない声で話した。
「あなたのログに、新たな分岐案を提示します。この管理ツールを使えば、あなたの『魂』の情報を、別の『器』へ再配置(リロケート)できます」
画面には、信じられない文字が並んでいた。
【容姿】【性格】【嗜好】【能力】【記憶】【立場】
まるでゲームのキャラメイク画面だった。けれど、それがこの世界の「現実」を書き換えるためのアプリのようなもので、彼らは管理者権限をもっているのだと、観察者は無表情に説明した。
「つまり、誰かを入れ替われる……ってこと?」
「その通りです」
僕の頭の中に、黒瀬さんの姿が浮かんだ。みんなに囲まれた幸せそうな姿。それに比べて、僕は――。
(もう、こんなモブの人生は嫌だ)
「僕を……僕を変えて……。別の人にしてくれ」
「了解しました。では、新しい『器』を選んでください」
彼女が指差した画面には、クラスメイトの名前と写真が、ずらりと並んでいた。
僕は迷わなかった。画面の一番上にある写真を選ぶ。
「黒瀬……黒瀬美羽」
声が震えた。
「僕を、黒瀬さんの中に入れてくれ」
僕の言葉を聞いたとき、黒瀬さんの顔をした「観察者」は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「わかりました。対象個体の特定を完了。これより、人格情報の再配置を実行します」
彼女の細い指が、画面上の【実行】と書かれたボタンをタップした。
「ああ……ああ、あああああああ!」
僕の視界は、真っ白な光と、激しいデジタルノイズで埋め尽くされた。そして、そのまま、すべての感覚が消失した。
次に目を開けたとき、世界はすっかり変わっていた。
(……初期マッピング適合率78パーセントを確認。あなたのアカウント内に構築されていた、対象個体『黒瀬美羽』の外面模倣データのサンプリング精度が、オリジナル個体のフレーム構成とシステム上で完全に一致しました。認証成功。人格情報の再配置を完了します)
頭の中に「観察者」の冷静な声が響く。
(ただし、現時点での適合率はあくまで理論値に過ぎません。再配置個体間での激しい情動の交換により、適合率を最大値まで引き上げることが可能となります。さらに、適合率が95%を超えると、記憶の恒久的な書き換え処理へ移行します。なお……)
「大丈夫? 美羽ちゃん」
声をかけられて、僕は我に返った。
目の前の車椅子に乗っているおばあさんが、心配そうに僕を見上げている。
気が付けば、僕は車椅子のハンドルを握っていた。
「顔色が悪いわよ。急に立ち止まって、どうしたの?」
「え……あ、ううん。何でもないです」
自分の口から出た声を聞いて、僕は心臓が止まりそうになった。
高くて鈴が鳴るような声。それは女の声そのものだった。ハンドルを握る指も、いつもの自分の指ではなく、白くて細くて、爪の先まで綺麗に手入れされている。それに、僕はセーラー服を着ていた。
「本当に大丈夫? 美羽ちゃんは、いつも無理しちゃうから」
おばあさんは優しく微笑んで、僕の手の甲をトントンと叩いた。美羽ちゃん、と彼女は確かに僕を呼んだ。
(本当に、入れ替わってしまった……)
そこは、老人ホームのようだった。
(黒瀬さんが言っていた「用事」って、ここでのボランティア活動のことだったんだ)
僕は今、あの憧れの黒瀬美羽の身体の中にいる。湧きあがる興奮に、僕の身体は車椅子のハンドルを握ったまま、ガタガタと震え出した。
2.
「美羽ちゃん、いつもありがとうねえ」
車いすのおばあさんが振り返り、しわだらけの手で僕の手を握った。
その感触に、身体がびくりと震える。反射的に手を振り払いそうになったけれど、近くに職員もいたので、僕はどうにかこらえて笑顔を作った。
「ううん。気にしないでください」
自分でも驚くほど優しい声が出た。
けれど、本音を言えば、ここは最悪だった。
消毒液と老人たちの生活臭が混じった空気が漂い、息をするだけで気分が沈んでいく。廊下も薄暗く、聞こえてくるのは咳や弱々しい話し声ばかりだった。
「美羽ちゃんが来ると、ここも明るくなるわ。将来は立派な福祉のお仕事ができるわね」
「えっ……」
思わず声が漏れた。
福祉の仕事。美羽は、そんなものを目指していたらしい。
僕が知っていた美羽は、いつも友達に囲まれ、誰からも好かれている、クラスで一番輝いている女の子だった。こんな場所に通って、ババアの車いすを押しているなんて、考えたこともなかった。
(冗談じゃない。せっかく美羽になったのに、なんでこんなことをしなきゃいけないんだ)
僕が欲しかったのは、美羽のキラキラした人生だ。
もっと大勢の人に見られたい。可愛いと褒められて、羨ましがられて、チヤホヤされたい。
こんな暗くて臭い場所で、老人に感謝されたかったわけじゃない。
*****
老人ホームを出てから、美羽のスマホは何度も震えた。
着信を知らせるメッセージには、見覚えのある自分の名前が表示されている。
『一ノ瀬順也』中身はきっと、僕の身体に入った黒瀬さんだ。
最初に届いたRAINには、短い言葉が並んでいた。
『一ノ瀬くん?』
『これ、どうなってるの?』
『私、今、一ノ瀬くんの身体になってるの』
それからも、着信やメッセージが何度も続いた。けれど、僕は一度も返事を返さなかった。
何と答えればいいのか分からなかったからではない。黒瀬さんに元へ戻ろうと言われるのが嫌だった。せっかく手に入れたこの身体を返すつもりはない。
駅前まで来たところで、僕はビルのガラスに映った自分の姿を見つめた。
大きな目に、さらさらの髪。白くて小さな顔に、すらりと伸びた脚。
(本当に可愛いな……)
ガラスに映る美羽が少し笑う。それだけで、今までの僕とはまるで違う人間になったような気がする。
(この顔と身体があれば、何だってできる)
僕は、以前後をつけて行ったことのある美羽の家へ帰った。
大きな家に入ると、美羽の母親が当然のように「おかえり」と迎えてくれる。僕は美羽のふりをして彼女の部屋に入った。
ピンクと白でまとめられた、広くて明るい部屋だった。僕が暮らしていた狭くて暗い部屋とは何もかも違う。
ベッドに腰を下ろすと、またスマホが震える。
『お願い。返事をして』
僕はしばらく画面を眺めてから、ようやくRAINを開いた。
『どうしたの?』
すぐに既読がつき、返事が届く。
『一ノ瀬くんだよね?』
『私、黒瀬美羽』
『気がついたら一ノ瀬くんの家にいたの』
『鏡を見たら、一ノ瀬くんになってた』
僕は少し間を置いてから、文字を打った。
『僕も、気がついたら黒瀬さんになってた』
『何が起きたのか、全然わからない』
本当は、すべて知っていた。僕が観察者に頼み、美羽を選んだのだ。けれど、そんなことを正直に話すつもりはなかった。
『元に戻る方法、あるのかな?』
僕は美羽の部屋を見回した。大きなベッドも、並んだ化粧品も、綺麗な服が詰まったクローゼットも、今はすべて僕のものだ。手放す気などなかった。
『分からない』
『こんなことを誰かに言っても、信じてもらえないと思う』
『下手に騒いだら、頭がおかしくなったと思われるかもしれない』
少し考えてから、さらに続ける。
『戻る方法が見つかるまでは、お互いのふりをして生活するしかないんじゃないかな』
『僕もできるだけ黒瀬さんらしくするから、黒瀬さんも僕のふりをしてほしい』
しばらくして、短いメッセージが届く。
『……分かった』
『でも、絶対に元に戻る方法を探そうね』
僕はその言葉を見つめながら、小さく笑った。
『うん。もちろん』
そう返して、美羽のスマホをベッドの上に放り出した。
もちろん、元に戻る方法など探すつもりはなかった。
*****
それから、僕は少しずつ美羽の見た目を自分好みに変え始めた。
制服のスカートを少し短くし、帰り道に買った明るい色のリップを塗る。最初はそれだけだったが、すぐに髪型やメイクにも興味を持つようになった。
街を歩けば、すれ違う男たちが僕を見る。駅前では、何度かスカウトにも声をかけられた。SNSに写真を載せると、すぐに何百という「いいね」がついた。
可愛い。モデルみたい。学校にこんな子がいたら絶対に好きになる。
(……気持ちいい)
画面に並ぶ言葉を眺めていると、胸の奥が何かで満たされていく。老人ホームで何度感謝されても、こんな気持ちにはならなかった。
(福祉なんてどうでもいい。僕は、もっと華やかな世界に行くんだ)
それから一週間ほど経った日の夜。
「おかえり、美羽……って、あなた、そのスカートどうしたの?」
母親が僕の姿を見て、目を丸くした。
「少し短くしただけだよ。みんな、これくらいだし」
僕は気にせずダイニングの席に座り、カバンから一枚の名刺を取り出した。
「ねえ、聞いて。今日、また芸能事務所の人に声をかけられたの。今度、雑誌のオーディションを受けてみないかって」
父親と母親が顔を見合わせる。僕が期待していたような、嬉しそうな反応ではなかった。
「そうなの。最近、よく声をかけられるみたいね」
母親は穏やかに答えたが、どこか戸惑っているように見えた。
「すごいでしょ。私、本格的にモデルとかタレントをやってみようかな」
「美羽が本当にやりたいなら、反対するつもりはないよ」
父親はそう言ってから、少し考えるように言葉を続けた。
「ただ、驚いているんだ。これまで、そういうことにはあまり興味を示さなかっただろう?」
「興味を持っちゃ駄目なの?」
「そんなことは言っていないよ」
父親は困ったように眉を下げた。
「お前はずっと、人の役に立つ仕事がしたいと言っていたからな。老人ホームのボランティアにも、一生懸命通っていた。それを誇らしく思っていたんだ」
「だから何?」
思ったより強い声が出た。
両親が驚いたように僕を見る。
「前に言ってたことと違ったらいけないの? 将来やりたいことなんて、変わることくらいあるでしょ」
「もちろん、変わってもいいのよ」
母親が慌てて口を挟んだ。
「お母さんたちは、美羽に福祉の仕事をしてほしいと押しつけたいわけじゃないの。ただ、最近のあなたが、少し変わったように見えるから……」
「私が何をしたっていうの?」
「そういう意味じゃなくてね」
「スカートを短くして、化粧して、芸能界に興味を持っただけでしょ。別に誰にも迷惑かけてないじゃん」
胸の奥から、苛立ちが次々と湧いてくる。
せっかく黒瀬美羽になったのに、どうして好きにさせてくれないのだろう。美羽の顔も身体も、今は僕のものだ。どう使おうが僕の自由のはずだ。
「ボランティアはどうするつもりなの?」
母親が遠慮がちに尋ねた。
「もう行かない」
「でも、施設の皆さんも、美羽が来るのを楽しみにしているでしょう?」
「あんなところ、私には合わないよ」
僕は吐き捨てるように言った。
「暗いし、臭いし、年寄りの相手をしても何も楽しくない。せっかくこんな見た目なのに、あんなところで車いすを押してるなんて、もったいないでしょ」
母親の表情が固まった。父親も、しばらく何も言わなかった。
「美羽。進路を変えることも、芸能活動に興味を持つことも悪いとは思わない。お前の人生だから、最後はお前が決めればいい」
責めるような口調ではなかった。
それがかえって、僕を苛立たせた。
「ただ、お前がこれまで大切にしてきた人たちを、そんなふうに言うのは悲しいよ」
「はあ? 勝手に悲しめば?」
口にした瞬間、部屋の空気が凍りついた。母親は傷ついたように目を伏せ、父親も黙って僕を見つめている。
それでも、謝ろうとは思わなかった。
(何なの、この人たち。美羽がいい子じゃないと、そんなに困るわけ?)
両親が好きだったのは、美羽の顔や身体ではない。誰にでも優しく、人のために動ける心優しい娘だった。けれど、今ここにいるのは美羽ではない。ずっと誰にも見向きもされず、暗い場所で息を潜めてきた僕だ。
「もういい。ごちそうさま」
僕はほとんど残ったままの食事を置き、席を立った。
「美羽、待ちなさい」
父親に呼び止められたが、振り返らなかった。
部屋に戻ってスマホを開くと、投稿した写真には新しい「いいね」と褒め言葉がいくつも届いていた。
可愛い。綺麗。モデルになれる。もっと写真を載せて。
画面を見ているうちに、さっきまでの苛立ちは消えていった。
(ほら。僕のことを分かってくれる人は、こんなにいる)
両親に理解してもらえなくても構わない。美羽の優しさを求める家族より、今の僕を褒めてくれる大勢の他人のほうが、ずっと大切だった。
*****
一ノ瀬くんの家に来てから、何日かが過ぎた。
最初のうちは、何をするにも緊張した。狭い部屋も、古い家具も、黒瀬家とは何もかも違う。それ以上に戸惑ったのは、一ノ瀬くんのお母さんだった。
「順也、今日は遅くならないわよね?」
朝、玄関で靴を履いていると、背後から不安そうな声が飛んでくる。
「うん。今日はまっすぐ帰るよ」
私が振り返って笑うと、お母さんは少し安心したような顔をした。
「そう。ならいいの。最近の男の子は、何を考えてるか分からないから」
その言葉に、私は何も返せなかった。
一ノ瀬くんのお父さんは、お母さんに暴力を振るっていたらしい。詳しいことは聞いていないけれど、家の中に残る傷や、お母さんの怯え方を見れば、どれほど苦しんできたのかは分かった。
そして今、お母さんは成長した息子の中に、別れた夫の姿を見つけるたびに怖くなってしまうみたいだった。
一ノ瀬くんは背も伸び、声も低くなっている。怒った顔をすれば、きっと父親によく似て見える。
だから、お母さんは少し帰りが遅いだけで不安になり、返事が短いだけで怒り出す。
その日の夕方、私は学校から帰ると、すぐに台所へ向かった。
「お母さん、何か手伝おうか?」
夕食の支度をしていたお母さんが、驚いたように振り返る。
「順也が?」
「うん。野菜を切るくらいならできるよ」
「いいわよ。包丁なんて危ないし」
「……じゃあ、お皿を並べるね」
返事を待たずに食器棚を開けると、お母さんはしばらく黙って私を見ていた。
「……最近、変ね」
「変?」
「前は、そんなこと言わなかったじゃない」
「ああ……」
一瞬、言葉に詰まった。
「少しくらい、手伝ったほうがいいかなって思って」
私がそう答えると、お母さんは小さく笑った。本当に、ほんの少しだけだった。でも、私はこの家に来てから初めて、お母さんの穏やかな顔を見た気がした。
夕食のあと、二人でテレビを見ていると、お母さんが不意に話しかけてきた。
「順也」
「なに?」
「最近のあなた、少し雰囲気が変わったわね」
疑われたのかと思い、心臓がドクンと跳ねる。
けれど、お母さんの顔に警戒する様子はなかった。
「前より、優しくなった気がする」
「そうかな」
「ええ。声も話し方も、なんだか柔らかくなった」
私は一ノ瀬くんの低い声で、できるだけ優しく答えた。
「お母さんが怖がるようなことはしないよ」
その瞬間、お母さんの表情が固まった。
まずいことを言ったのかと思ったけれど、次の瞬間には、その目に涙が浮かんでいた。
「ごめんね……」
「どうして謝るの?」
「私、ずっと怖かったの。あなたがお父さんみたいになるんじゃないかって」
お母さんは両手を握りしめ、俯いた。
「そんなことあるわけないって分かっているのに、声が低くなって、身体が大きくなっていくのを見ると、どうしても思い出してしまって……」
私は少し迷ってから、お母さんの隣へ座り直した。そして、震えている手にそっと自分の手を重ねた。
「大丈夫だよ」
「順也……」
「私は……僕は、お母さんに怖い思いなんてさせないから」
危うく言い間違えそうになり、慌てて言い直す。
けれど、お母さんは気づかなかった。
「怒鳴ったりしないし、手を上げたりもしない。だから、そんなに怯えなくていいよ」
お母さんは、しばらく何も言わなかった。やがて、私の手を両手で包み込む。
「ありがとう」
声が震えていた。
「順也が、そんなふうに言ってくれるなんて思わなかった」
私は返事の代わりに、そっと手を握り返した。
本当の一ノ瀬くんが、これまでお母さんにどう接していたのかは分からない。きっと、彼も彼なりに傷ついていたのだと思う。怒鳴られて、疑われて、それでも母親を見捨てられずにいた。
私も、こんなにも怯えている人を放っておけなかった。
それから、お母さんは少しずつ変わっていった。私の帰りが少し遅れても、いきなり怒鳴ることはなくなった。何か気になることがあれば、まず理由を聞いてくれるようになった。食事のときに笑うことも増えた。
「順也、これ好きだったわよね」
そう言って料理を差し出す顔は、以前よりずっと穏やかだった。
私も、できるだけ話をするようにした。
学校であったことや、授業のこと。ほんの小さな出来事でも、お母さんは嬉しそうに聞いてくれた。
この家は狭くて、黒瀬家のように綺麗でもない。それでも、お母さんと二人で食卓を囲んでいると、不思議と息苦しさは感じなかった。
3.
入れ替わりから数週間が過ぎた。
僕は黒瀬美羽の身体で過ごす毎日に、すっかり慣れていた。
朝、教室に入れば、すぐに何人ものクラスメイトが声をかけてくる。休み時間になれば、僕の机の周りには自然と人が集まった。
「美羽、今日の髪めっちゃ可愛い」
「でしょ。ちょっと巻いてみたんだ」
僕が笑うと、周りの女の子たちも楽しそうに笑った。
以前の僕なら、誰かの会話を遠くから聞いているだけだった。自分から声をかけることもできず、たまに話しかけられても、何と答えればいいのか分からなかった。
けれど、今は違う。多少変なことを言っても、みんなが好意的に受け取ってくれる。先生からも頼りにされ、男子たちは僕が少し笑いかけるだけで、分かりやすく嬉しそうな顔をした。
同じ教室にいるのに、見える景色がまるで違う。
(やっぱり、人間は中身なんかじゃない)
黒瀬美羽という外見と立場を手に入れただけで、僕の価値は何倍にもなった。
五時間目が終わった後の休み時間、僕は席を立った。
「ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」
女子トイレへ入ることにも、もう抵抗はなかった。
鏡の前では、何人かの女子が髪を直したり、リップを塗り直したりしている。僕も隣に立ち、前髪を指先で整えた。
鏡の中の美羽は、今日も可愛かった。
その顔を眺めながら、自然と口元が緩む。
やがて他の女子たちが出ていき、トイレの中が静かになった。
その瞬間、鏡に映った僕の顔がデジタルノイズのように乱れた。
「えっ……」
僕が驚いて目を見開いているのに、鏡の中の美羽は、表情のない顔、感情の入っていない目でまっすぐこちらを見つめている。
(観察者……)
「何なの、急に出てきて。もう用はないでしょ」
「適合率が上昇しています」
美羽の声なのに、話し方は機械のように平坦だった。
「適合率の上昇?」
鏡の中の観察者が、僕をじっと見つめる。
「一人称、口調、身体認識、社会的立場への自己同一化が進行しています」
僕は肩をすくめた。
「最初は変な感じだったけど、今はこっちが普通かな。黒瀬美羽は私で、一ノ瀬順也も私だった。私が二人いるなんて、なんか変だけど」
口にしてから、少しだけ引っかかった。
以前なら、黒瀬美羽は僕が奪った身体で、一ノ瀬順也こそが本当の自分だと思っていたはずだ。
それなのに今は、どちらも自分のように感じる。
観察者は、わずかに目を細めた。
「やはり適合が進んでいるようですね。しかし、記憶の書き換えには至っていません」
「記憶の書き換えって、前にも言ってたよね」
「再配置個体間での激しい情動の交換により、適合率を最大値まで引き上げることが可能です。適合率が規定値を超えた場合、記憶の恒久的な書き換え処理へ移行します」
「だから、それってどういうこと?」
僕は鏡へ一歩近づいた。
「記憶が書き換わったら、私はどうなるの?」
「黒瀬美羽として矛盾のない自己認識が構築されます」
「一ノ瀬順也だったことを忘れるってこと?」
「記憶そのものが消えるわけではありません。その記憶が、誰のものなのかという認識が修正されます」
「どういうこと?」
「あなたが一ノ瀬順也として過ごした記憶は、自分自身の過去ではなく、一ノ瀬順也という他人について知っている記憶へと変わります。一方、黒瀬美羽がこれまで経験してきた記憶は、あなた自身の過去として定着します」
「じゃあ、私は最初から黒瀬美羽だったって思うようになるの?」
「はい。もう一方の個体も同様に、一ノ瀬順也として矛盾のない記憶と自己認識を獲得します」
一瞬、意味が分からなかった。けれど、理解した途端に背筋が寒くなる。
「じゃあ、最初から私が美羽だったことになるの?」
「あなたの認識上は、そのようになります」
「そんなの……」
怖いと思うはずだった。一ノ瀬順也だった自分が、完全に消えてしまうのだから。それなのに、胸の奥に浮かんだのは、恐怖だけではなかった。
もし本当にそうなれば、僕はもう偽物ではなくなる。美羽の両親に疑われることもない。昔の自分を思い出して、惨めな気持ちになることもない。最初からずっと、みんなに愛される黒瀬美羽だったことになる。
「激しい情動の交換って、何をすればいいの?」
僕が尋ねると、観察者は答えなかった。
鏡の表面に再びノイズが走る。
「対象個体との接触時に、自然に理解するでしょう」
「ちょっと待って。まだ聞きたいことが――」
最後まで言い終わらないうちに、鏡は元に戻った。
そこには、戸惑った顔をした美羽だけが映っていた。
*****
その日の放課後、僕は一ノ瀬順也にRAINを送った。
『話したいことがある』
返事はすぐに来た。
『分かった。どこに行けばいい?』
『体育倉庫。みんなが帰ったあとに来て』
放課後の体育倉庫は薄暗く、空気には古いマットや土の匂いが染みついていた。
しばらく待っていると、扉が静かに開いた。
一ノ瀬順也の身体になった美羽が、不安そうな顔で入ってくる。
「話って何?」
その声を聞いた瞬間、妙な苛立ちが湧いた。
僕の声だった。けれど、以前の僕より落ち着いていて、優しく聞こえる。
「最近、楽しそうだね」
「え?」
「僕の家で。母さんとも上手くやってるみたいじゃん」
「どうして、それを……」
「母さんの投稿を見たんだよ。久しぶりに順也と穏やかに食事ができたって書いてた」
美羽は少し困ったように目を伏せた。
「別に、あなたの居場所を奪うつもりはないよ。ただ、お母さんが苦しそうだったから」
「僕のときは、いつも怒鳴ってた」
「一ノ瀬くんも、ずっと苦しかったんだと思う」
「分かったようなこと言わないでよ」
思った以上に強い声が出た。
美羽の身体になって、僕は何もかも手に入れたはずだった。それなのに、元の家まで美羽に救われていることが、なぜか許せなかった。
「僕の身体で、僕より上手く生きないでよ」
「そんな言い方……」
「君はいいよね。どこに行っても好かれて。美羽でも、順也でも、結局みんなに大切にされる」
「違うよ」
美羽が一歩近づく。
「私だって怖いよ。急に男の子の身体になって、家族も友達も全部なくなったの。それでも、今の生活を壊さないように必死にやってるだけ」
「じゃあ、戻りたい?」
「もちろん」
「……あのさ、戻る方法わかったんだ」
僕は、なるべく優しい声で言った。
「え……ほんと?」
僕の顔をした美羽の表情が明るくなる。
(こんな嘘、信じちゃうんだ……ちょろいな)
「でも……ちょっと特別なことをしなきゃいけないみたい」
「特別なこと、って……?」
「お互いの身体に強い刺激を与え合うんだって。そうすれば、元の身体に戻るらしい」
僕はゆっくりと彼女に近づいた。
「強い刺激……?」
美羽はまだ、僕の言葉の意味がわかっていないようだった。僕は何も答えず、彼女の腕を掴んで、そのまま強引にマットの上へ押し倒した。
「な、何するの?」
「静かにして。元の身体に戻りたいんでしょ?」
戸惑う美羽を見下ろしながら、僕は彼女のズボンのベルトに手をかけた。カチャリと小さな音が鳴る。
「だ、だめだよ。こんなこと……」
そこでようやく僕のやろうとしていることに気づいたのか、美羽は顔を真っ赤にして身体をよじった。
「暴れないで。戻るためなんだから」
僕は抵抗する手を冷たく払いのけ、彼女のズボンと下着を強引に下まで引き下ろした。
「嫌だ……見ないで……」
美羽はひどく怯えた声で呟き、両手で自分の顔を覆った。
僕は、彼女から生えている見慣れたアレを、細くて白い指でそっと包み込む。
「あっ……」
彼女の喉から、低くて太い声が漏れた。
「ほら、一ノ瀬くんの身体、すごく熱くなってる」
「ちが……違うの……」
彼女は泣きながら首を横に振った。
「頭では嫌がってても、身体は正直だね」
僕は彼女のアレに顔を近づけ、柔らかい唇でゆっくりと口に含んだ。
「ああっ……だめ……」
彼女の身体が大きく跳ねる。
僕はわざと音を立てながら、その身体をゆっくりと刺激した。十代の男の身体が、ずっと憧れていた黒瀬美羽の唇に直接触れられているのだ。彼女の心がどれだけ拒絶しても関係ない。男の身体から湧き上がる快感が、彼女の理性をあっという間に奪っていく。
「やめて……お願いだから……頭が、おかしくなりそう……」
彼女の抵抗する声が、少しずつ小さくなっていく。代わりに、僕の頭を掴む手に強い力がこもり始めた。僕を突き飛ばそうとしていたその手は、いつの間にか、もっと強い快感をねだるように僕を引き寄せている。
「あぁ……だめ……なのに……」
彼女を見ているうちに、僕の中にも、これまでにない強い熱が湧きあがる。
それは、美羽の身体の疼きなのか、それとも順也の欲情の名残なのか。ただ、もっと、この身体同士を完全に繋ぎ合わせたかった。
僕はゆっくりとアレから口を離し、自分のスカートを捲り上げると、そのまま彼女の上に跨った。
「え……? まって……」
涙目で僕を見上げる順也の顔。僕は構わず、熱を持ったアレを自分の股に押し当てた。
「だめっ、そんなことしたら……」
「いいんだよ。これで、全部……」
僕はそのまま、一気に腰を下ろす。
「ああっ……」
「うああっ……」
お互いの口から、悲鳴のような声が漏れた。
元の自分の身体に、今の自分の身体が貫かれている。そんな奇妙な状況も、押し寄せる圧倒的な快感の前ではどうでもよくなっていた。
「気持ちいい……すごい……」
僕は我を忘れて腰を動かした。彼女も、さっきまでの戸惑いが嘘のように、僕の腰を強く掴み、下から激しく突き上げてくる。
「ああぁ、イク、イク、イク……」
「僕も……イキそう……」
お互いの感情と快感が、限界値(オーガズム)に達したその瞬間、視界が真っ白になり、すべての感覚が消えていく。
(……限界値の突破を確認)
(神経回路の完全同期、完了)
(これより、記憶の恒久的な書き換え処理へ移行します)
頭の奥で、観察者の無機質な声が響いた。
*****
気がつくと、私は体育倉庫の冷たい床に座り込んでいた。制服は乱れ、下着は床に転がっている。身体の奥には、まだ熱い痛みが残っていた。
目の前には、同じように制服を乱し、顔を真っ青にして震えている一ノ瀬順也がいた。
(……私、一ノ瀬くんに襲われたんだ)
頭の中に、そういう記憶がはっきりとあった。
放課後に「話がある」と呼び出されて、鍵をかけられ、無理やり押し倒されて、乱暴された。
私は黒瀬美羽で、彼はクラスで一番地味で存在感のない男子。
(……でも、なんかおかしい)
襲われたのなら、心に深い傷を負って、彼をひどく怖がって、泣き崩れているはずなのに。私の中にあるのは、そんな感情じゃなかった。
目の前でガタガタと震えている一ノ瀬順也を見下ろして、ひどく冷たい、見下すような気持ちが湧きあがる。
私はゆっくりと立ち上がり、下着を拾って身に着けた。
「あ……黒瀬さん……ちがう、僕……」
一ノ瀬順也は、自分が何をしたのか信じられない、というような顔でひどく混乱しているようだった。
「黙っておくから、もう私に関わらないで」
私は彼に向かって、冷たく言い放つ。
「え……」
「先生にも、親にも言わない。今日のことは、なかったことにしてあげる。だから、学校でも二度と話しかけないで」
彼は絶望したような顔で私を見上げた。
「ごめん……なさい……」
泣きそうな声で謝る彼を残して、私は体育倉庫の扉を開けた。
私は確かに「黒瀬美羽」だった。老人ホームでお年寄りの手を握り、心から相手の幸せを願っていた、あの温かくて優しい思い出。
でも、今の自分の心には、あの記憶の中にあるような純粋な優しさなんて、どこを探しても見当たらない。あるのは、一ノ瀬くんを冷たく突き放したときの、あのゾクゾクするような優越感と、もっと多くの人に見られたい、特別でありたいという強い気持ちだけ。
(……なんか、変なの)
記憶の中の大人しくて優しかった自分と、今の自分の間にある、奇妙なズレ。
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ、誰に対してもいい子ぶっていたあの頃よりも、欲しいものに正直で、周りを冷たく見下している今の自分の方が、ずっと自分らしいと思えた。
4.
【シミュレーション管理記録:観察者レポート】
ログ参照番号: 773-B-Relocation
対象エリア: 極東セクター・シミュレーション環境 J-04
対象個体:
個体A: 旧・一ノ瀬順也(現在・黒瀬美羽のフレームにて稼働中)
個体B: 旧・黒瀬美羽(現在・一ノ瀬順也のフレームにて稼働中)
事象概要:
再配置(リロケート)個体間における神経回路の完全同期、および記憶の恒久的な書き換え処理の完了報告。
1. 経緯のサマリー
対象個体Aは、自身に割り当てられていた社会的パラメータ(いわゆる「モブ」に類する設定)への強い不満を契機とし、管理ツールを用いた再配置を要求した。当システムはこれを受理し、対象個体Bとの間での人格情報の入れ替え処理を実行した。
再配置フェーズの初期において、個体Aは獲得した新たな「器」の外面(容姿、周囲からの評価)に強い執着を示した。しかしその一方で、個体Bが本来行っていた利他的なタスク(ボランティア活動等)に対しては強い拒絶反応を示すなど、設定のミスマッチが継続していた。
その後、個体Aはシステム定着(エラーによる強制送還の回避)を果たすため、個体Bを体育倉庫へ誘導した。元の身体に戻るという虚偽の情報を与えた上で肉体的な接触を図り、極限の情動交差(性的興奮と快感の最大化)を実行。
生体信号が限界値を突破したことを確認し、当システムは規定通り「記憶の恒久的な書き換え処理」を自動実行した。
2. 処理結果とアノマリー(適合不全)の観測
現在、両個体の自己認識は現在の「器」と完全に結合している。
個体Aは「自分は最初から黒瀬美羽である」と認識し、個体Bは「自分は最初から一ノ瀬順也であり、同級生を強姦した」という事実を、自己の記憶として完全に受容している。
しかしながら、両個体の「精神構造(深層の自我)」において、以下の通り不一致(アノマリー)が観測されている。
個体A(現・黒瀬美羽)におけるアノマリー:
記憶の書き換えは完了しているが、精神の根底には「強い自己顕示欲」や「他者を見下す優越感」が残留している。過去の純粋な記憶と現在の自身の感情との間にズレを認知しているが、個体Aは現在の自分の方を「自分らしい」と肯定的に受容しており、矛盾を内包したまま適応している。
個体B(現・一ノ瀬順也)におけるアノマリー:
暴力的で陰惨な行動をとったという加害者としての記憶を植え付けられたにもかかわらず、精神の根底には旧個体の善良さが残っているため、自らの(偽の)行為に対する激しい罪悪感に苛まれている。植え付けられた加害者記憶と本質的な倫理観の乖離が大きく、自我の摩耗が進行している。
3. 結論および今後の運用方針
当シミュレーションにおいて、社会的立場と記憶のパラメータを強制的に上書きしたとしても、個体が本質的に持つ「自我の性質(エゴイズムの形状)」までは完全に統合・改変できない可能性があることが示唆された。
両個体は人格パラメータの不一致(アノマリー)を内包した状態で、引き続き各シミュレーション環境における稼働を継続する。
引き続き、本ケースの監視・記録モードを継続する。
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