千田レジデンスの妻たち・後編 (Pixiv Fanbox)
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目を覚ました香澄は、見知らぬ男・白石透の身体になっていた。しかも透の勤務先は、かつて憧れた電宣ホールディングス。一方、自分の身体には「妻として夫を支える生活」を望んでいた透がいる。望まなかった人生を与えられた香澄が、最後に選ぶものとは――。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
5.電宣ホールディングス
目を覚ましたとき、香澄は見覚えのない白い天井をしばらくぼんやりと眺めていた。
頭の奥が重く、昨夜の記憶もすぐには思い出せなかった。
ただ、ここがいつもの寝室ではないことだけは分かる。壁の色も、カーテンも、ベッド脇の照明も、全部違っていた。
身体を起こそうとして、香澄は妙な感覚に気づいた。
いつもより身体が重い。腕を布団から出すと、見慣れた自分の手より明らかに大きく、指も長い。
「……なに、これ」
驚いて漏らした声も、聞き慣れないほど低くて、眠気が一気に吹き飛んだ。
慌てて布団を払いのけると、あるはずの胸の膨らみがない。代わりに見えたのは平らな胸板と、太く骨張った腕だった。
昨夜、管理組合の事務室で会った奈緒の姿が頭をよぎる。
男の身体で現れ、自分を早川奈緒だと名乗った男。
香澄はベッドから立ち上がった。急に高くなった視線に驚きながら、洗面所に向かう。
鏡には、三十歳前後の知らない男が映っていた。
短く整えられた黒髪に、すっきりとした輪郭。派手な顔立ちではないものの、清潔感があり、スーツを着れば仕事のできる会社員に見えるだろう。
「……誰?」
香澄が頬へ手を当てると、鏡の中の男もまったく同じ動きをした。
その時、昨夜の最後の記憶が一気に蘇る。
事務室を出て、エレベーターの前で、悠真へのRAINを打ち込んでいたところまでは憶えていた。
「……やられた」
部屋に戻り、辺りを見回す。
独身男性の一人暮らしにしては、ずいぶんと整った部屋だった。テーブルの上にも床にも余計なものはなく、本棚の本は大きさごとにきれいに揃えられ、キッチンも使っているらしいのに、きちんと片づいていた。
しかも、どこからかほのかに落ち着いた香りが漂っていた。
視線を向けると、テレビ台の端に小さなアロマディフューザーが置かれている。
「……私より、ちゃんとしてない?」
こんな状況なのに、思わずそんな感想が浮かんだ。
「あれ……?」
部屋のあちこちに、小さな付箋が貼られている。
冷蔵庫には、
『作り置きは日付を書いて冷凍庫に入れてあります。冷凍ご飯は一番下です』
洗面台の棚には、
『コンタクトの予備は下の棚です』
洗濯機の脇には、
『洗剤は右、柔軟剤は左です。シャツは乾燥機に入れないほうがいいです』
玄関には、
『燃えるゴミは火曜・金曜。朝8時まで』
と、細かな字で書かれていた。
「……私のため?」
この部屋の住人は、香澄がここへ来ることを知っていたらしい。
ダイニングテーブルの上には、財布とスマートフォン、その隣に社員証がきちんと並べて置かれていた。
香澄は社員証を手に取った。
『白石透』
知らない名前だった。
しかし、その下に記された勤務先を見た瞬間、香澄の手が止まる。
『電宣ホールディングス』
「……電宣?」
何度見ても間違いなかった。
電宣は、新卒の就職活動で第一志望にしていた会社だった。結局採用されず、グループ会社のアド・ビジョンへ入社したものの、悠真にも何度か、「もし電宣に入れてたらどうなってたかな」と冗談めかして話したことがある。
奈緒が医療の仕事に戻りたがっていたから、理学療法士の長谷川誠と入れ替えたのだと、高見は言っていた。
そして自分は――。
「だからって……」
社員証をテーブルへ戻した。
「こんなの、頼んでない」
自分が欲しかった会社だから何だというのだ。電宣に入れるなら、知らない男になっても構わないなどと思ったことは一度もない。
そのとき、テーブルに置かれていたスマートフォンが震えた。
表示された名前は、――高見観。
香澄は迷わず通話を押した。
『はい、高見です』
「戻してください」
挨拶をする気にもならなかった。
向こうは、香澄の低い声を聞いても特に驚いた様子を見せなかった。
『宮瀬さんですね』
「今すぐ戻して。私、こんなことしていいなんて一度も言ってない」
『承知しています』
「だったら戻してよ」
『申し訳ありませんが、それはできません。今回の再配置はすでに完了しています』
あまりにも平然と言われ、香澄はスマートフォンを握る手に力を込めた。
この男にはこちらの言葉が通じていないわけではない。本人の意思を無視していることも、それが普通なら許されないことも、全部理解したうえで、それでも自分たちの判断を優先している。
「……悠真は?」
『ご主人は何か?』
「これ、知ってたんですか」
高見は少しもためらわなかった。
『はい。ご主人の同意をいただいたうえで行っています』
予想していた。エレベーターの前でも、それを確かめようと思っていた。それでも、実際に言葉にされると胸が重くなる。
「私が誰になるかも?」
『いいえ。交換先の個人情報については、ご主人にもお伝えしていません』
「……それでもいいって言ったんですか」
高見は答えなかった。けれど、その沈黙だけで十分だった。
「……最低」
小さく漏らした言葉が、低い声で静かな部屋に響いた。
『宮瀬さん』
「もういいです」
香澄は通話を切った。
どうしてそんなことをしたのか、悠真本人の口から聞きたかった。
だが、悠真の番号を入力しかけたところで、指が止まった。
白石透という男の電話から、この声で「香澄」と名乗られたら、悠真はどんな反応をするのだろう。想像すると急に怖くなり、香澄は入力しかけた番号を消した。
代わりに、自分自身のスマートフォンへ電話をかける。
呼び出し音が三度ほど鳴り、やがて聞き慣れた声がした。
『もしもし』
香澄は息を呑んだ。
昨日まで毎日使っていた、自分の声だった。
「……白石さん?」
短い沈黙のあと、相手が答えた。
『はい、そうです』
香澄は眉を寄せた。
声は間違いなく自分のものなのに、話し方が違った。柔らかく、どこか女性らしい。
「私の身体返して」
『……ごめんなさい』
「謝ってほしいんじゃないの。返してって言ってるの」
『私には戻す方法が分からないんです』
「だったら高見さんに言えばいいでしょう。あなたも戻りたいって」
透は黙った。
ほんの数秒だったが、それだけで香澄には分かってしまった。
「……戻りたくないんだ」
『……はい』
あまりにも素直な返事に、香澄はしばらく何も言えなかった。
「私の身体なの」
『分かってます』
透の声が少し小さくなる。
『本当に申し訳ないと思ってます。でも……私、この生活をずっと望んでたんです。女性として家庭に入って、誰かを支えるような生活をしたかったんです』
「理由があれば、他人の身体を使ってもいいの?」
『そういう意味じゃありません』
透はすぐに否定した。
『香澄さんに申し訳ないと思ってるのは本当です。でも、戻れるとしても……私は戻りたくないです』
透の声には開き直ったところも、香澄を言いくるめようとする感じもなかった。ただ、身体を奪ったことを申し訳なく思いながらも、ようやく手に入れた、望んでいた人生を手放したくないのだ。
香澄は部屋を見回した。
「……この付箋、あなたがしたの?」
『あ、はい』
急に話題が変わったことに、透が少し戸惑う。
「部屋中に貼ってあるんだけど」
『いきなり知らない部屋で暮らすことになるから、分からないと困るかなと思って。どこに何があるかくらいは、すぐ分かったほうがいいでしょう?』
その言い方には、まるで当然のことをしただけという響きがあった。
香澄は洗濯機の横に貼られていた付箋を思い出す。
洗剤の位置どころか、シャツを乾燥機に入れないことまで書いてある。
「……そこまで準備してたの?」
『はい。あと、パソコンも見てください』
「パソコン?」
香澄はリビングのデスクへ目を向けた。
『デスクトップに「引き継ぎ」というフォルダがあります。今やってる仕事のこととか、会社の人、家族、友達のことをまとめてあります』
香澄は思わず黙った。
『仕事は、案件ごとに今どこまで進んでるか書いてあります。上司や同僚も、よく関わる人は写真と名前を入れておきました。家族は両親と妹、それから親しい友達とか。急に連絡が来ても、誰か分からないと困ると思ったので』
「そんなところまで……」
『全部覚えなくて大丈夫です。分からなくなったら見てもらえれば。スマホからも開けるようにしてあります』
透は少し間を置いてから、遠慮がちに続けた。
『それでも分からないことがあったら、何でも聞いてください。仕事のことでも家族のことでも、私に分かることなら全部答えますから』
香澄は目の前のパソコンを見つめた。
自分の身体を奪った男――なのに、香澄がその後の生活で困らないよう、付箋を貼り、資料を作り、知らない人間関係に放り込まれても困らないように準備してくれている。
「……何でそこまでするの」
『何でって……』
透は少し困ったようだった。
『だって、香澄さんは私の生活をすることになるんです。だったら、少しでも困らないほうがいいでしょ』
「だったら最初から交換なんてしなければいいでしょ」
『……それは、本当にすみません。香澄さんの人生を奪った側が、こんなこと言っても仕方ないと思います。でも、せめて私にできることくらいはしたかったんです』
香澄は返事ができなかった。
もっと身勝手な男だったら、どれほど楽だっただろう。こちらのことなど気にもかけない人間だったなら、何の迷いもなく憎めたはずだ。
「……あなた、今、嬉しいんでしょう」
透は少し黙ったあと、正直に答えた。
『はい』
「私の身体になって?」
『……はい』
また腹が立つ。
しかし、透は慌てて続けた。
『香澄さんが綺麗な方だったから……えっと、そのことも、すごくありがたいと思ってます。こんなこと本人に言うのもどうかと思うんですけど』
「確かに、よく本人にそんなこと言えるわね。それに、その喋り方、何?」
『え?』
「女のマネしてるの?」
電話の向こうで、透が戸惑うのが分かる。
『マネ……ですか?』
「その声で、そういう喋り方してると気持ち悪い」
『すみません』
あまりにも素直に謝られ、香澄はそれ以上言う気を失った。
少なくとも、本人には女の真似をしているという意識はないらしい。
「もう切るから」
『はい』
「……本当に分からないことがあったら聞いていいの?」
思わず確認してしまった自分に、香澄はすぐ後悔した。
けれど透は、少し嬉しそうな声で答えた。
『もちろんです。いつでも聞いてください』
香澄は何も返さず、通話を切った。
パソコンの電源を入れると、透の言った通り、デスクトップには「引き継ぎ」と書かれたフォルダがあった。
中にはさらに、「仕事」「会社の人」「家族」「友人」「生活」「予定」と細かく分けられたフォルダが並んでいる。
香澄は呆れながら「会社の人」を開いた。
一番上に、直属の上司らしい男性の写真があった。
『佐伯和彦 営業局第三部・部長。直属の上司。仕事には厳しいですが、困ったときはかなり助けてくれます。朝は機嫌が悪いことが多いので、急ぎでなければ十時以降に話したほうがいいです』
その下には同僚や後輩の名前が続いている。
単なる所属や役職だけではなく、「話しやすい」「この人には先に共有したほうがいい」「コーヒーをよく奢ってくれる」など、細かな情報まで添えられていた。
「……本当に細かいな」
独り言を漏らしながら、「家族」のフォルダも開いてみる。
父、母、妹。
それぞれ写真があり、簡単な性格や現在の生活が書いてある。母とは月に一、二度電話をし、妹は結婚して本宿で暮らしているらしい。
最後には、
『母と妹には、急に雰囲気が変わったと思われるかもしれません。困ったら仕事が忙しかったからと言えば、たぶん深く追及しないと思います。父はあまりこちらから連絡しないので問題ないと思います』
と書かれていた。
香澄はしばらく画面を見つめていた。
部屋のあちこちに貼られた付箋といい、この細かな引き継ぎ資料といい、会ったこともない白石透という男の人柄が、少しずつ見えてくる。几帳面で、細かなところによく気がつき、自分がいなくなったあとの生活まで想像して、香澄が困らないよう一つずつ準備していたのだろう。
もちろん、それで彼のしたことが許されるわけではない。それでも、これが香澄に対する彼なりの罪滅ぼしなのだろうとは思えた。
「……変な人」
そう呟いて、今度は「仕事」のフォルダを開いた。
現在担当している案件は五つほどあり、クライアント名からこれまでの経緯、現在の進捗、次にやるべきことまで、どれもひと目で分かるよう簡潔に整理されていた。
資料を読み始めて数分経ったところで、香澄は別のことにも気づいた。
初めて目にするはずの社内用語も、資料の読み方も、使われているシステムの意味も、不思議なほどすんなり頭に入ってくる。案件の内容についても、何を目的に動いているのか、次に何をすべきなのかまで理解することができた。
奈緒が言っていたことを思い出す。本人の個人的な記憶はなくても、知識や身体が覚えていることは残っているのだ。
透が昨日誰と何を話したのかという個人的な記憶は何もない一方で、透にしか分からないはずの社内用語やシステムは理解できる。
「……本当なんだ」
香澄は画面を見つめたまま、小さく呟いた。
ひと通り資料を確認したあと、香澄は「予定」と書かれたファイルを開いた。
週明けの月曜日には、午前十時からクライアントとの定例打ち合わせ、午後二時から社内の企画会議が入っていた。
月曜日になれば、白石透として電宣へ出社することになる。
香澄はしばらく予定表を眺めていた。
入れ替えられたことには、今でも腹が立っている。それでも、電宣はかつて自分が入りたかった会社であり、さっき目を通した案件は、どれも広告の仕事として純粋に興味を惹かれるものばかりだった。
実際の電宣はどんなところなのか。自分が落ちた会社で、白石透はどんな仕事をしていたのか。
そう考えると、行ってみたいという気持ちは思ったより自然に湧いてきた。
月曜日の朝、香澄はクローゼットを開けた。
左側には仕事用のスーツやジャケットがきちんと並び、右側には普段着がまとめられている。そこにも小さな付箋があり、
『左側ならどれでも大丈夫ですが、紺のスーツが一番無難です』
と書かれていた。
「……分かったって」
誰もいないのに思わず返事をしてしまい、香澄は小さく苦笑いを浮かべた。
シャツを着て、ネクタイを締める。自分でネクタイを締めたことはなかったけれど、鏡の前に立つと、迷わず手が動いた。
玄関を出る前に、香澄はスマートフォンで透の引き継ぎメモを確認した。最寄りのTR玉池駅までは徒歩十三分。そこから清橋までは二駅で、電車に乗っている時間はわずか五分ほどだった。
ちょうどホームに入ってきた電車にそのまま乗れたこともあり、清橋まではあっという間だった。駅を出ると、透のメモに従って地下道を進む。外へ出ることなく五分ほど歩いたところで、電宣ホールディングス本社へ着いた。
香澄はそこで時計を見て、思わず目を疑った。家を出てから、まだ三十分も経っていない。
「……近っ」
これまで、会社に着くまで一時間半近くかかっていたことを思えば、二十分そこそこで職場まで来られる距離は、ほとんど別世界だった。
しかも、普段の通勤だけでも十分近いのに、仕事が夜遅くなったときや荷物が多いときには、タクシーを使えば柴浜のマンションまで、ものの十分ほどで帰れるらしい。千田から本宿まで通っていた頃との違いを思うと、香澄は改めて呆れるしかなかった。
目の前にそびえる電宣ホールディングス本社の大きなビル。
就職活動をしていた頃、ここで働く自分を何度も思い描いた。会社説明会にも足を運び、この建物の中へ毎朝通う生活を想像したこともある。
けれど、まさか白石透という男になって、その願いが叶うことになるとは思ってもみなかった。
「……こんな形で来たかったわけじゃないんだけど」
香澄は小さく呟き、もう一度ビルを見上げた。
「白石さん、おはようございます」
「……おはようございます」
エントランスホールですれ違った女性が軽く頭を下げた。もちろん相手には、香澄は白石透にしか見えていない。
エレベーターで上階へ上がり、指定されたフロアへ入ると、今度は同年代くらいの男性が声をかけてきた。
「白石さん、おはようございます。先方からの戻し、見ました?」
香澄は一瞬答えに詰まりかけたが、週末に読んだ引き継ぎ資料で、その男性の顔には見覚えがあり、話の内容もだいたい見当がついた。
「おはようございます。まだ全部は見てないので、席着いたら確認します」
「了解です。十時の定例、たぶんそこがメインになると思うんで」
スムーズに会話が終わった。透の資料がなければ、今の男が誰なのかすら分からなかったはずだ。
パソコンを開くと、ログインの手順や社内システムの使い方は、不思議なほど自然に分かった。資料を開き、修正箇所を確認していくうちに、香澄の意識は少しずつ仕事の方へ向いていく。
案件そのものは、これまで広告会社で働いてきた香澄にとってまったく未知のものではない。むしろ資料を読み進めるほど、どこを直すべきか、どう提案を組み立てるべきかが見えてきて、いつの間にか入れ替わったことへの苛立ちよりも、目の前の仕事に集中していた。
午前十時からの会議では、最初こそ周囲の顔と透の資料を頭の中で照合することに神経を使ったが、企画の話になれば意外なほど普通に参加できた。
「この案ならテレビ単体で終わらせるより、最初から配信まで含めたほうがいいと思います。放送後に切り抜きを回せる形にしておけば、若い層にも届きますし」
香澄がそう言うと、向かいの社員が頷いた。
「白石さん、前回も同じこと言ってませんでしたか」
「……そうでしたっけ」
香澄は笑ってごまかした。
前回の透が何を話していたのかは分からない。それでも、同じ資料を読んで同じ方向の提案をしていることが、なんとも妙だった。
仕事をしている間は、自分が男になったことも、ここが透の職場だということも、少し意識から遠のいた。広告について考え、クライアントの課題を整理し、企画を組み立てる。それは昨日までの自分と大きく変わらない。
ただ、扱う仕事の規模は明らかに違っていた。アド・ビジョンでは一部分を任されることが多かった案件でも、ここではテレビやWeb、交通広告、イベントまで含めて一つの企画として動かしている。
昼休みになった頃、香澄は、自分でも驚くほど仕事に集中していたことに気づいた。椅子にもたれ、思わず小さく息を吐く。
「……何やってるんだろ、私」
白石透の身体で、白石透の名前を使い、かつてあれほど入りたかった電宣で働いている。こんな形で望みが叶うなんて到底納得できないのに、目の前の仕事そのものには、確かに面白さを感じていた。
そのことが、香澄には少し悔しかった。
それから二か月が過ぎた。
白石透としての生活には、嫌でも慣れていった。電宣の仕事は思っていた以上に面白く、以前より大きな案件にも関われる。清橋までの通勤も驚くほど楽で、夜遅くまで仕事をしても、柴浜のマンションにはすぐ帰ることができた。
快適だった。
それを実感するたびに、香澄は腹が立った。
高見たちに勝手に決められた人生なのに、仕事も住む場所も、自分に合っている。そこを認めてしまえば、まるで「あの人たちの判断は正しかった」と認めるような気がした。
もちろん、そんなはずはない。
どれだけ仕事が面白くても、どれだけ通勤が楽でも、自分はこの人生を選んでいないのだから。
6.千田マリナーズ
六月に入ると、苦しんでいた悠真にも少しずつ結果が出始めた。そのことを香澄が改めて実感したのは、ある日の昼休み、社内のモニターに流れていたワイドショーだった。
『続いては、昨夜のプロ野球からこちらのプレーです。泥沼の七連敗中だった千田マリナーズを救った、宮瀬悠真選手のレーザービームが話題になっています』
画面が試合映像に切り替わる。
九回裏、二死二塁。マリナーズが一点をリードしている場面。相手打者の打球が右翼前へ落ち、二塁走者は迷わず三塁を回り、同点のホームを狙う。
『さあ、ホームへ帰れば同点です。ところが――』
右翼で打球を拾った悠真が、ほとんど助走をつけることなく本塁へ投げる。低い軌道で伸びたボールを捕手が受け、そのまま走者へタッチした。
判定はアウトで、その瞬間ゲームセットとなった。
『これでマリナーズ、七連敗でストップ! いやあ、すごい送球でしたねえ』
スタジオへ画面が戻ると、司会者が隣に座る元プロ野球選手へ顔を向けた。
『でも、野球に詳しくない人からすると、「普通に外野からホームに投げただけ」に見えるんですが、これ、何がそんなにすごいんですか?』
『いや、かなりすごいですよ』
元選手は笑いながら、もう一度流れ始めた映像を指した。
『まず、これだけ深い位置からホームまでバウンドなしで届かせるには、肩の強さが必要です。それだけじゃなくて、宮瀬選手は捕手がタッチしやすい高さへ、ほとんどズレずに投げてるんです』
『ただ強く投げればいいわけじゃない?』
『全然違います。高く浮いたら、その間に走者がホームへ入りますし、左右に逸れたら捕手が捕ってからタッチするまで時間がかかります。この送球は、ちょうど走者が来るくらいの所へ投げてるんですよ』
『へぇ~』
司会者だけでなく、周囲の出演者からも感心したような声が上がった。
『しかもこれ、抜かれてたら同点ですよね?』
『そうです。それも九回裏の二死ですから、セーフなら試合は続いていた。七連敗中のチームを、一投で勝たせたプレーです』
『そう聞くと、全然見え方が違いますね』
再び映像が流れ、ベンチから飛び出してきた選手たちが悠真を囲む。頭や肩を次々と叩かれながら、悠真は少し照れくさそうに笑っていた。
『宮瀬選手は今季、横浦ベイアローズから移籍した三十歳。開幕直後は苦しみましたが、ここ最近は打撃でも結果を残していて、今や千田マリナーズの救世主として注目されています』
「宮瀬って最近よく見るよな」
近くにいた同僚が、モニターを見ながらそんなことを呟いたが、香澄は何も言わず、画面の中の悠真を見つめていた。
家庭が変わったから調子が上がった――そんな単純な話ではないだろう。野球の調子には波があるし、何より悠真自身が必死に練習を続けてきたことを、香澄は誰より知っている。
それでも、自分がいなくなった時期と重なっていることだけは否定できなかった。
透とは、最初に電話して以来、ほとんど連絡を取っていない。
一度だけ、
『悠真さん、最近少し調子が上がってきました』
とRAINが届いたことがあったが、香澄は返信しなかった。
自分の顔、自分の声で、透が当たり前のように「悠真さん」と呼んでいる。それだけで、胸の奥にまだざらつくものが残っていた。
*****
七月に入り、オールスター休みが近づいた頃、午後の打ち合わせを終えて自席へ戻った香澄は、佐伯に呼び止められた。
「白石、ちょっといいか」
「はい」
会議室へ入ると、テーブルの上に新しい企画書が置かれていた。
「オールスター明けから、これに入ってもらう」
香澄が資料を手に取った表紙には見慣れた球団のロゴと、
『千田マリナーズ 後半戦プロモーション企画』
という文字が大きく印刷されていた。
一瞬、指が止まった。
「最近、移籍組が何人か当たってるだろ。チーム自体も七連敗で止まってから上向きだし、後半戦は盛り上げたいらしい。テレビとのタイアップも絡めて、選手個人の企画も何本か作る」
佐伯は香澄の反応には気づかず、そのまま説明を続ける。
「白石には全体の進行とテレビ側との調整も担当してもらう。球団広報とも何度か現場で詰めてもらうことになると思う」
「分かりました」
香澄はページをめくった。
後半戦のキービジュアル、球場イベント、Web動画、交通広告。扱う範囲は広く、企画としては純粋に面白そうだった。
そして、テレビとのタイアップ企画のページを開いたところで、見慣れた顔が現れた。
宮瀬悠真。
大きく掲載された写真の横には、
『崖っぷちからの復活――宮瀬悠真を変えたもの』
という仮タイトルが記されている。
「宮瀬は使いたいって向こうから話が来てる。三十歳でトレード、開幕直後は苦戦、そのあと復調。打撃もそうだけど、七連敗を阻止したあの強肩が結構話題になってるからな」
佐伯が資料を指で叩く。
「それに、本人のキャラクターも悪くないらしい。テレビ側は野球だけじゃなくて、プライベートも少し掘りたいみたいだ」
「プライベート?」
「奥さんとか」
香澄は顔を上げた。
「お前知ってたか? うちの関連会社で働いてたらしいぞ」
「そうなんですね」
「ああ、それが移籍を機に仕事を辞めて、今は家庭に入って支えてるらしい。食事なんかもかなり気を遣ってるみたいで、それに球団広報の話だと、彼のほうも愛妻家なんだそうだ」
「……そうなんですか」
「知らなかった?」
「野球、そこまで詳しくないので」
香澄は何でもないことのように答えた。
資料へ視線を戻すと、そこには簡単な構成案が載っていた。
前半は移籍後の苦戦と復調。後半は、それを支えた家庭環境と妻との生活。
妻――宮瀬香澄。元広告会社勤務。現在は専業主婦。
その文字を、香澄はしばらく見つめた。
自分の名前だった。けれど、そこに書かれている人生は、もう自分のものではない。
「白石、どうした?」
呼ばれ、香澄は顔を上げた。
「大丈夫です」
「じゃあ頼む。オールスター明けに一本目の収録入るから」
「分かりました」
香澄は企画書を閉じた。
断ろうとは思わなかった。担当として任された以上、やるのは当然だと思う。それに、悠真が今どうしているのか、透が自分の身体でどんな生活をしているのかを、自分の目で確かめたい気持ちもあった。
知るのが怖くないわけではない。それでも、何も知らないままでいるよりはよかった。
*****
オールスターが終わった翌週、香澄は電宣の担当者としてRURUマリーナスタジアムを訪れた。
取材は午前の練習後に予定されており、球団広報やテレビ局のスタッフと収録の流れを確認したあと、香澄は一塁側の通路で選手が戻ってくるのを待っていた。
やがて、練習着姿の悠真が姿を現した。
久しぶりに見る悠真だった。テレビでは何度も目にしていたが、こうして目の前で見るのは、入れ替わって以来初めてになる。
しかし、大きな身体も、歩き方も、タオルで額の汗を拭う仕草も、何も変わっていなかった。
香澄はしばらく、その姿を黙って見つめた。
悠真は球団広報と話しながらこちらへ歩いてきたが、電宣のスタッフがいることに気づくと、軽く頭を下げた。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
香澄も頭を下げる。
「こちら、電宣の白石さんです。今回の企画全体を担当してもらってます」
広報担当者に紹介され、悠真の表情が止まった。
ほんの一瞬だったが、香澄は見逃さなかった。
「……白石さん?」
悠真が確かめるように名前を口にする。
「はい。白石透です」
香澄はできるだけ平然と答えた。
悠真は何か言いかけたものの、周囲にスタッフがいることに気づいたのだろう。
「……よろしくお願いします」
それだけ言って、もう一度頭を下げた。
透から聞いている。香澄はすぐにそう理解した。自分が白石透になったことを、悠真は知っている。
それでも二人は何も言わないまま、収録の打ち合わせへ入った。
取材はグラウンドの脇で行われた。
移籍が決まったときの心境、開幕後の不振、少しずつ出場機会を取り戻したこと。悠真はいつもの調子で、格好をつけることもなく質問に答えていた。
「横浦で出られなくなって、三十でトレードだったんで。正直、千田でダメだったら終わりだとは思ってました」
「そこから状態が上がってきたきっかけは、ご自身では何だと思いますか?」
「何でしょうね。打撃コーチにもいろいろ見てもらいましたし、試合に出してもらえたのも大きいです。守備で一個いいプレーできたあたりから、ちょっと気持ちも楽になったかな」
「例のレーザービームですね」
「レーザービームって、自分で言うのは恥ずかしいんですけど」
周囲から笑いが起きた。
その様子をモニター越しに見ながら、香澄も思わず口元を緩めそうになる。
こういうところも、何も変わっていない。野球以外のことには気取らず、褒められるとすぐ照れる。
収録は順調に進み、インタビュアーが家庭について話を向けた。
「移籍をきっかけに、生活もかなり変わったそうですね」
「変わりましたね。引っ越しましたし」
「奥様も、以前は帝都の広告会社にお勤めだったとか」
香澄の視線がわずかに動く。
「はい」
「今はお仕事を辞められて、悠真さんのサポートに専念されているそうですね」
「そうですね」
悠真は少し照れたように笑った。
「本人がそうしたいって言ってくれたんで。俺としては、かなり助かってます」
インタビュアーはにこやかに頷く。
「まさに夫婦一丸となって、後半戦へ向かっているということですね」
その言葉に、香澄は胸の奥に小さな痛みを覚えた。
もちろん、インタビュアーに悪意があるわけではない。世間から見れば、移籍先で苦しむ夫を、仕事を辞めて家庭から支えた妻。その結果、夫は復調した。きっと、それだけで十分に分かりやすく、綺麗な物語になるのだろう。
「食事もかなり気を遣っていただいているんですか?」
「それはもう、俺よりずっと詳しいです。栄養士さんから言われたことも全部覚えてて。俺が適当に食べようとすると止められます」
「以前はご自分で作られることもあったとか」
「ありましたけど、今はほとんど任せちゃってますね。俺より全然うまいんで」
悠真が笑う。
香澄は黙って聞いていた。
自分だって、これまで悠真を支えてこなかったわけではない。料理を作ることもあったし、試合で結果が出なければ話も聞いた。「だからこそ、今の生活のほうがいい」と言われているように感じると、胸の奥がざわつく。
もっとも、悠真にそんなつもりはないのだろう。聞かれたことに、そのまま答えているだけなのだ。
「ご自宅では、どんなふうに過ごされているんですか?」
「普通ですよ」
「その『普通』が聞きたいんです」
インタビュアーが笑うと、悠真は少し考え込んだ。
「帰ったら、妻が『おかえり』って出てきて……」
「いいですね」
「で、だいたいハグしてきます」
周囲に笑いが起きる。
「いきなり惚気ましたね」
「いや、聞かれたから答えただけですけど」
悠真は本気で困ったような顔をしている。
「毎日ですか? 負けた日も?」
悠真は少し考えてから答えた。
「むしろ負けた日のほうが長いですね」
今度はさらに大きな笑いが起きた。
香澄は笑えなかった。自分の身体で、自分の腕で、透が悠真に抱きついていると思うと、今でも素直には受け入れられない。
ただ、悠真の表情を見ていると、二人が今の関係を心から楽しんでいることだけは、嫌でも伝わってきた。
「遠征中はどうなんですか? 寂しくないですか?」
「RAINは毎日してますけど」
「毎日?」
「はい。別に大した話じゃないです。向こうが夕飯の写真送ってきたり、俺がホテルの窓から見える景色送ったり」
「仲いいですね」
「そうですか?」
「毎日RAINしてる時点で、かなり仲いいと思いますよ」
「えっ、普通じゃないですか?」
悠真は首を傾げると、インタビュアーが笑う。
「ちゃんと『おやすみ』で終わるんですか?」
「それが、終わらないんですよ」
「どういうことですか?」
「最初に『おやすみ』って送るんですけど、そのあと向こうが『そういえば』って別の話送ってきて。それ返したら、今度は俺が思い出したこと送って、また『もう寝よう』ってなるんですけど、そこからまた話が始まるんですよ」
悠真はそこで笑った。
「何回も、『おやすみ』を言う日がありますね」
「それはかなりラブラブですね」
「そうなんですかね」
その天然さに、香澄は思わず小さく息を吐いた。
付き合っていた頃から何も変わっていない。悠真はこういうところがある。本人にとってはごく普通のことでも、周りからすれば十分に惚気ているように見えることに、まるで気づかないのだ。
「奥様も今日、いらっしゃってるんですよね?」
その一言に、香澄の身体がわずかに強張った。
「はい。来てると思いますけど……」
インタビュアーがスタッフへ視線を送ると、ダッグアウトに一人の女性が現れた。
来ることは知っていた。それでも、実際に自分の身体が別の服を着て、別の表情を浮かべて歩いてくるのを見ると、妙に落ち着かなかった。
淡い色のブラウスに柔らかなスカートを合わせ、髪は毛先まできれいに整えられている。薄く施されたメイクも、香澄が仕事をしていた頃とは少し違っていて、全体に柔らかな印象だった。
見慣れていたはずの自分の顔なのに、そこにいるのは透なのだと分かる。
透はグラウンドへ入ると、丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
その声も自然だった。
悠真が隣の椅子を引く。
「ここ」
「ありがとう」
透は悠真の隣へ腰を下ろした。
「奥様にも少しお話を伺っていいですか?」
「はい」
「ご主人、最近すごく調子が上がってきましたね」
「そうですね。本人が頑張っていますから」
透は悠真を見て、柔らかく笑う。
「私は家でできることをしてるだけです」
「先ほど、帰宅したら毎日ハグしてくれると暴露されてましたよ」
「ちょっと」
透が悠真を見る。
「それ言ったの?」
「聞かれたから」
「何でも答えなくていいのに」
そう言いながらも、透は恥ずかしそうに笑っていた。
モニターの脇から二人を見ていると、電話で「この生活をずっと望んでいた」と話していた透の言葉が、嘘ではなかったことが分かる。そして、隣で笑っている悠真も同じなのだろう。
「今後、ご家庭で何か叶えたいことはありますか?」
インタビュアーが尋ねると、透と悠真が顔を見合わせた。
「言っていい?」
悠真が透に尋ねる。
「……いいけど」
「何でしょう?」
促され、悠真が少し照れながら答えた。
「子ども、欲しいねって話はしてます」
その言葉に、香澄の胸がざわついた。
インタビュアーは嬉しそうに声を上げる。
「そうなんですね」
「まだ、すぐってわけじゃないですけど。最近、妻が『家族増えたら楽しそうだね』って」
「ちょっと、そこまで言わなくていいって」
透が悠真の腕を軽く叩くと、悠真は楽しそうに笑った。
結婚を決めた夜のことを思い出す。
――少なくとも今は子どもも考えてない。仕事が面白くなってきたところだから。
――子どものことだって、二人で欲しいと思ったときに考えればいいだろ。
悠真は、あのとき本当にそう思っていたはずで、香澄もその言葉を信じて結婚した。
そして今、悠真は別の「香澄」と子どもを望んでいる。だからといって、あのときの言葉が嘘だったとは思えない。自分は望まなかったけれど、悠真は、そのどちらの気持ちも受け入れただけなのかもしれない。
そう考えると、それを裏切りと呼ぶのはどこか違う気がした。
*****
収録が終わり、スタッフが機材を片づけ始めた。
透はテレビ局のスタッフに挨拶をしたあと、少し離れたところにいる香澄を見つけると、足を止めた。
一瞬、視線が合うが、透は声をかけてはこなかった。その代わり、ほんの少しだけ頭を下げる。
香澄も何も言わなかった。
やがて透は悠真に何か耳打ちし、「先に車で待ってるね」と告げて、部屋を出ていった。
残された悠真は、しばらくその背中を見送ったあと、香澄のほうへ歩いてきた。
「……少し、いいですか」
周囲にはまだスタッフがいる。
香澄は黙って頷き、廊下の奥にある人通りの少ない場所まで移動する。
二人きりになっても、悠真はすぐには口を開かなかった。
香澄も何を言えばいいのか分からない。
「……香澄、だよな」
悠真がようやくそれだけ言った。
「そうだよ」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
悠真は目を伏せる。
「透から聞いた。香澄が彼女の……いや、彼の身体になったって」
「そう」
しばらく沈黙が続いたあとで、香澄はずっと聞きたかったことを口にした。
「私が誰になるか、知らなかったの?」
「……知らなかった」
「会社も?」
「知らなかった。広告関係で、今より大きい会社で、通勤が楽になるってことしか聞いてない」
「男になることは?」
「それは聞いてた。でも、誰かまでは……」
香澄は悠真を見つめた。
「それなのに、いいって言ったの?」
悠真は答えなかった。
「私がどんな人になるかも、どこで暮らすかも、何にも知らないのに?」
「……うん」
「何で?」
悠真はゆっくり息を吐いた。
「あのとき、本当に余裕なかったんだ」
言い訳するような口調ではなかった。
「俺は野球で結果出なくて、香澄は毎日遠くまで通って、夜中まで仕事してた。俺がもっとやって欲しいと思っても、香澄にそれをやらせたら、香澄はもっと大変になる。高見さんに、香澄は仕事を続けられて、今よりいい会社に行けて、通勤も短くなるって言われて……」
「それで、私のためにもなると思った?」
「……思った」
香澄は小さく息を吐いた。
「勝手だね」
「ああ」
悠真は否定しなかった。
「今なら分かる。俺が決めていいことじゃなかった」
香澄は何も言わず、悠真も俯いたままだった。
しばらくして、悠真が口を開く。
「……すまない」
それ以上、悠真は何も言わなかった。「香澄だって電宣で望んでいた仕事ができているだろ」とか、そんなふうに自分の選択を正当化しようとはしなかった。
香澄は、すぐには言葉を返せなかった。
さっきのインタビューで見た、帰宅した悠真を抱きしめ、遠征中には毎晩RAINを交わし、いつか子どもを持ちたいと話す二人の姿が頭に浮かぶ。
悠真が望んでいた家庭が、そこにはあった。そして透も、それを望んでいる。
「……幸せそうだったね」
香澄が言うと、悠真は少し驚いたように顔を上げた。
「……うん」
否定はしなかった。
「透さんといて、幸せ?」
悠真は少し迷ってから頷いた。
「幸せだと思う」
胸の奥が痛んだけれど、嘘をつかれるよりはよかった。
「そっか」
香澄はそれだけ答えた。
「香澄は?」
突然尋ねられ、香澄は眉を寄せた。
「何が?」
「今の生活」
「……別に」
そう答えたものの、悠真は何も言わずに待っている。
「仕事は面白いよ。入りたかった会社だったし。前より大きい仕事もできる。家からも近いから、通勤なんて比べものにならないくらい楽」
悠真の表情が少し緩みかけたのを見て、香澄はすぐに続けた。
「でも、だからって、悠真がやったことが正しかったことにはならないから」
「分かってる」
「高見さんが言うように、私にはこっちの生活のほうが合ってるのかもしれない。実際、そう思うこともある」
香澄は一度言葉を切った。
「でも、それを選ぶのは私でしょう」
「……うん」
悠真はもう一度頷いた。
香澄はそれ以上責めなかった。
許したわけではない。たぶん、まだしばらくは許せない。
けれど、目の前で俯いている悠真を見ていると、彼が香澄を不幸にしたくて交換を選んだわけではないことも分かっていた。
ただ、自分に都合のいい未来と、香澄にも都合がいいように見える未来が偶然重なったとき、それを選んでしまった。
「もう戻っていいよ」
香澄が言うと、悠真は少し戸惑った。
「でも……」
「試合前なんじゃないの?」
「まだナイターまでは時間があるから……」
「だったら、いつまでもこんなところで話してないで、彼……いや、彼女のところに行ってあげれば」
「……じゃあ」
「うん」
悠真は数歩歩いたところで、もう一度振り返った。
「香澄」
「何?」
「本当に、ごめん」
香澄は答えなかった。
悠真はそれ以上何も言わず、通路の向こうへ消えていった。
*****
その日の仕事を終え、香澄は清橋へ戻った。
地下道を抜け、TRに乗り、玉池駅から柴浜のマンションまで歩く。何度も通った道は、もう地図を開かなくても迷わないくらいには馴染んでいた。
部屋へ入ると、ほのかなアロマの香りが迎えてくれる。透が残した付箋は、今ではほとんど剥がしてしまった。どこに何があるのか、もう自分で分かる。
スーツを脱ぎ、ソファへ腰を下ろすと、香澄は今日の収録を思い返した。
悠真も透も幸せそうだった。
それを認めることは、思っていたほど悔しくはなかった。少なくとも、あの二人にはあの生活が合っているのだろう。
そして、自分が今の仕事を面白いと思っていることも、もう否定するつもりはない。
千田から毎日三時間通勤に使い、疲れ切って帰宅していた頃より、今のほうがずっと楽だし、憧れていた会社で、やりたかった仕事もできている。
高見たちの選んだ組み合わせは、結果だけを見れば驚くほどよくできていた。
これでよかったのかもしれない。そんなふうに思う日が、いつか来るのかもしれない。
柴浜の高層階からは、夜の帝都湾と、その向こうに広がる街の明かりが見える。千田レジデンスの窓から見ていたのとは違う景色だ。
白石透としての人生を好きになるのか。この身体で、これから何をするのか。誰と生きていくのか。それは、まだ分からない。
香澄はしばらく窓の外を眺めたあと、静かにカーテンを閉じた。
ただ、これから先のことは自分で決める。もう誰かに決めさせるつもりはなかった。