Home Creators Posts Import Register Favorites Logout

Content

第1章

第1章


楼成が武聖の称号を手にしたその日、武道界は沸き返った。


史上最年少の武聖——それも外罡級の頂点に達してなお、なおも上を目指す天才。彼の名は瞬く間に世界中に知れ渡り、祝賀の声が絶え間なく続いた。だが楼成にとって、この栄光以上に心を躍らせたのは、長年連れ添った恋人、厳喆珂との結婚だった。


式は質素ながらも温かみのあるものだった。白いウェディングドレスに身を包んだ厳喆珂は、清楚で垢抜けた美しさを一層際立たせ、楼成は我が妻の魅力に改めて心を奪われた。武道の鍛錬が彼女にもたらした均整のとれた肢体は、ドレスのラインを美しく描き出していた。胸は大きくはないが、引き締まった肉体が布地の下に確かな存在感を示していた。


新婚旅行は彼らにとって忘れがたい日々となった。南国の海辺で過ごした時間、星空の下で交わした約束、互いの温もりを確かめ合った夜——すべてが幸福そのものだった。


だが、その幸福は長くは続かなかった。


旅行から戻り、日常が戻ってきたある日、厳喆珂は夫に切り出した。


「楼成、あなたは武聖よ。今、多くの武者たちがあなたに挑もうと牙を研いている。そんな中で、私はあなたに武術に専念してほしいと思うの」


楼成は驚いた顔をした。「だが、俺たちは結婚したばかりだ。君を一人にするわけには——」


「私は大丈夫よ」厳喆珂は微笑んだ。「あなたが禁忌級を突破して、本当の頂点に立つ姿を見たいの。それが私の願いよ」


楼成は黙り込んだ。彼もまた武道の頂点を夢見る者だった。武聖の称号を得た今、その先にある禁忌級——それは彼の人生最大の目標だった。妻の理解ある言葉に、彼は深い感謝の念を抱いた。


「ありがとう、喆珂。必ずや禁忌級を突破して、君に最高の武を見せる」


こうして楼成は籠もり修行に入ることとなった。彼の修練場は家の地下に設けられ、そこには食料と水、そして武具だけが備えられていた。彼は外界との接触を断ち、ただひたすらに武道の極致を追求する日々を送り始めた。


最初の数日、厳喆珂は自由な時間をどう過ごすか戸惑った。結婚するまでは武道の鍛錬に励み、その後は新婚生活に忙しかった。だが今、夫は地下の修練場にこもり、彼女は広い家に一人きりだった。


静寂が彼女を包む。時計の音だけが規則正しく響くリビングで、厳喆珂はソファに座り、何をするでもなく窓の外を眺めた。新婚旅行の楽しい思い出が脳裏をよぎる。楼成の笑顔、優しい手触り、温かな抱擁——それらは今、遠い過去のもののように感じられた。


「何かしなければ」


彼女はそう呟き、立ち上がった。これまでずっと良い娘として生きてきた。親の言う通りに育ち、優秀な武道家としての道を歩み、そして愛する人と結婚した。その人生に後悔はない。だが、どこか物足りなさを感じていたのも事実だった。


「一度くらい、違う生活を体験してみてもいいわよね」


そう考えた彼女は、インターネットで短期の仕事を探し始めた。正規の職業に就くつもりはなかった。ただ、暇な時間を潰し、自分を変える経験が欲しかったのだ。


検索を続けるうちに、彼女は一つのサイトに辿り着いた。


『全職業体験クラス』


その名前に興味を引かれ、クリックする。サイトの説明は回りくどく、何が書いてあるのかすぐには理解できなかった。だが、何度か読み返すうちに、厳喆珂は自分なりの解釈をまとめた。


「つまり、お金と暇を持っている人に仕事を紹介し、暇を持て余している人に時間を潰させる——そういうことかしら」


彼女は自分の計画にぴったりだと思った。すぐにメッセージを送り、翌日に詳しい話を聞きに行く約束を取り付けた。


翌朝、厳喆珂は指定された住所へと向かった。それは都心から少し外れた、古びたビルの一室だった。エレベーターで四階に上がり、飾り気のないドアをノックする。


「はいはい、ただいま」


中からは女性の声が聞こえた。ドアが開き、現れたのは三十代半ばほどの女だった。李紅と名乗るその女性は、ビジネススーツを着こなし、髪をきっちりとまとめていた。だが、彼女の目つきが厳喆珂を一瞬で不快にさせた。


李紅は厳喆珂を頭の先から爪先まで、じっくりと値踏みするように見つめた。その視線には、明らかに品定めの色が滲んでいた。厳喆珂は思わず眉をひそめたが、それでも中に入ることにした。


「厳さんですね。どうぞお座りください」


李紅に案内され、応接室のような場所に通される。簡素な机と椅子があり、壁には何の飾りもなかった。李紅は向かいに座り、にこやかな笑みを浮かべた。だが、その笑顔の裏には計算された何かがあるように感じられた。


「では、早速ですが、当社の業務内容をご説明しますね」


李紅はそう言って、会社の説明を始めた。だが、その内容は厳喆珂が想像していたものとは全く異なっていた。


「当社はですね、いわゆる人材派遣会社ではありません。もっと深い——いえ、もっと人間の本質に近いサービスを提供しているんです」


李紅の言葉は遠回しで、直接的な表現を避けていた。だが、厳喆珂は次第にその真意を理解し始めた。


この会社は正規の仲介会社ではない。実質的には売春宿だったのだ。


ここに来る人間は二種類に分かれる。一つは仕事を探す者、もう一つは楽しみを求める裕福な者。仕事を探す者が見栄えが良い場合、会社は内密に実情を伝える。理解した者で残りたい者は——男性なら売春夫、女性なら売春婦となる。断る者は追い返される。一方、楽しみを求める裕福な者は客として振る舞い、会社の中から人を選び、その者が「興味を持つ」仕事をアレンジさせ、その仕事を体験させるのだ。


李紅のほのめかしを聞き取りながら、厳喆珂は大学三年生の時にアメリカに留学した経験を思い出した。向こうでの性の開放度は日本や中国とは比べ物にならなかった。彼女自身はそれに深く関わることはなかったが、友人たちの話を聞き、性的な事柄に対する認識は柔軟になっていた。


「——というわけで、厳さんは体験に来られたんですか?それとも、仕事を探しに来られたんですか?」


李紅の問いかけに、厳喆珂は少しぼんやりとしながら答えた。


「仕事を——探しています」


その言葉を聞いた瞬間、李紅の目が輝いた。その変化に厳喆珂は気づいたが、もう後の祭りだった。


厳喆珂はすぐに後悔した。ここで仕事を探すとは、つまり売春婦になるということではないか。自分はそんなつもりで来たわけではない。ただ、何か新しい経験をしたかっただけだ。


「あ、いや、やっぱり——」


言いかけた厳喆珂の言葉を、李紅が遮った。


「厳さんが当社で働くのは、実は難しいんですよ」


その言葉に、厳喆珂は驚いた。李紅の口調は突然、冷たいものに変わっていた。彼女は続ける。


「顔はまあまあですが、体つきが十分に豊満ではありません。以前はその気質が好まれましたが、今はもうダメです。それに、厳さんが良い家の出であることは明らかで、こういう仕事はできないでしょう」


李紅の言葉には、明らかな挑発の色が含まれていた。彼女は先ほどの会話で厳喆珂の心理を分析していたのだ。


李紅は誤解していた。厳喆珂がアメリカでの性の開放度を経験した後の認識を、彼女の性に対する開放的な態度と誤認した。さらに、厳喆珂が「良い娘の性格を変えたい」という意図を、内心性を渇望するギャップのある女と捉え、売春婦体験に来たお嬢様と思い込んだのだ。


厳喆珂は元々帰ろうとしていた。だが、李紅の言葉に侮辱されたと感じた。何しろ、その言葉は自分は売春婦にすらなれないと言っているようなものだった。


「——何ですって?」


厳喆珂の声には怒気が込められていた。彼女は断ろうとした言葉を忘れ、李紅を睨みつけた。


李紅は厳喆珂の反応を冷静に観察していた。彼女の狙い通り、厳喆珂は怒り心頭に達している。その心理的な揺れを利用して、李紅は契約書を机の上に滑らせた。


「顔がまあまあだから、とりあえず試させてあげましょう」


李紅は無関心なふりを装い、事もなげに言った。その態度が、さらに厳喆珂の怒りを煽った。


「試すだと?誰があなたに——」


「契約書です。読んでみてください。普通の雇用契約ですから」


李紅は涼しい顔で言い放ち、ペンを差し出した。厳喆珂は李紅の態度に腹が立ち、契約書を手に取った。しかし、怒りで冷静さを欠いていた彼女は、内容をろくに確認せずに署名してしまった。


サインを終えた瞬間、厳喆珂は我に返った。手元の契約書には確かに自分の名前が書かれている。何をやってしまったのか——彼女は慌てた。


「あ、私——」


「契約は成立しましたね。厳さん、ようこそ当社へ」


李紅の口調には満足げな色が滲んでいた。厳喆珂は唇を噛みしめた。後悔が押し寄せる。だが、もう後の祭りだ。彼女は自分を慰めるように考えた。非人級の武道家としての実力があれば、何かあっても対処できる。そう考えて、ようやく冷静さを取り戻した。


「契約書を見せてください」


厳喆珂がそう言うと、李紅はにっこりと笑って契約書を差し出した。厳喆珂はそれを手に取り、内容を読み始める。


契約書は簡潔なものだった。会社は社員に一週間の研修を行い、研修後は仕事の手配を待つ。待機中も会社は引き続き研修を行う。長期間仕事がなければ、会社は社員を解雇し、研修期間中の費用を社員に補償させる。最後に社員の給与についての記載があった。


「——これだけですか?」


「ええ、シンプルでしょ?当社は余計な条件を付けない方針ですから」


李紅の言葉に嘘はなさそうだったが、厳喆珂にはその背後に何か隠されているような気がしてならなかった。


「では、研修室にご案内しますね」


李紅は契約書を回収し、厳喆珂を部屋の奥へと促した。廊下を進み、一つのドアの前で立ち止まる。李紅が鍵を開け、中に入るよう手招きした。


中は個室だった。ベッドと机、そして鏡があるだけの簡素な部屋だ。窓はなく、天井の蛍光灯が白く光っている。


「ここが研修室です。これから一週間、ここで過ごしていただきます」


「ここで?自宅から通うんじゃないんですか?」


「いいえ、研修期間中は会社に住み込んでいただきます。規則ですので」


厳喆珂は戸惑った。しかし、李紅の口調には反論を許さないものがあった。彼女は仕方なく従うことにした。


「では、早速ですが、あなたの評価を行います」


「評価?」


「ええ。すべての社員に対して、最初に評価を行います。それに基づいて研修内容を決めるんです」


李紅はそう言って、ノートとペンを取り出した。


「服を脱いでください」


「——はい?」


「評価ですから。体を見せてください」


厳喆珂は一瞬ためらった。だが、先ほどの李紅の言葉——自分は売春婦にすらなれない——という侮辱が頭をよぎる。彼女は自分がどのような評価を受けるのか、知りたいという気持ちが湧いてきた。


「——わかりました」


彼女はゆっくりと服を脱ぎ始めた。上着を脱ぎ、スカートを脱ぎ、下着も脱いだ。鏡に映る自分の裸体を見ながら、彼女は少し居心地の悪さを感じた。


李紅は厳喆珂の裸体をじっくりと観察した。その視線は、冷徹な検査官のように、一箇所も逃さずに全身をなぞっていく。


「うん、顔はいいわね。非常に整っている。清楚な気質もあって、それがプラスに働くわ。でも体つきがね——」


李紅は近づいて、厳喆珂の胸を軽く触った。その指の感触に、厳喆珂は思わず身を震わせた。


「胸は大きくないわね。でも形は悪くない。引き締まってもいる。うん、十分だわ」


次に李紅は厳喆珂の腰や尻を触り、腕や脚の筋肉の付き具合を確認した。そして、メジャーを取り出して身長や体の各部位のサイズを測り始めた。


「身長170センチ、体重58キロ——武道家としては標準的ね。体脂肪率も低い。いいわ」


そう言いながら、李紅はノートに数字を書き留めていく。


「次に——」


李紅は厳喆珂にベッドに仰向けに寝るよう指示した。厳喆珂が指示に従うと、李紅は手を彼女の股間に伸ばした。


「ちょっと——!」


「評価ですから、我慢してください」


李紅の指が膣口に触れ、ゆっくりと内部を探る。その感触に、厳喆珂は体を硬くした。しかし、李紅の手は容赦なく進む。


「うん、処女ではないわね。夫がいるんでしょう?何回くらいしました?」


「——そんなこと、言えるわけ——」


「答えなさい。これも評価の一部です」


厳喆珂は唇を噛みしめた。屈辱感が全身を覆う。だが、契約書のことを思い出し、仕方なく答えた。


「——結婚してからは、何度か……」


「何人と性交しましたか?夫以外にいませんか?」


「いません!」


「フェラチオはしたことがありますか?」


「——ありません」


「肛門は使われたことがありますか?」


「——ありません」


李紅は一つ一つ確認しながら、ノートに書き留めていく。その表情は無感情で、まるで検査報告書を作成するかのようだった。


「体の感度を確認しますね」


李紅の指が乳房の先端を軽く撫でる。そして、陰核への刺激も行った。厳喆珂はその刺激に体が反応しそうになるのを必死に抑えた。


「うん、あまり敏感ではないわね。もっとトレーニングが必要だわ」


評価が終わり、李紅はノートを閉じた。厳喆珂は体を起こし、李紅が何をするのかを見守った。


「評価結果を伝えます」


李紅は淡々とした口調で言った。


「まず、顔が良いのは加点要素。しかし、体つきが十分に豊満でないのは減点要素。気質が清楚だが処女でないのは減点要素。結婚しているが人妻の気質がないのは減点要素。フェラチオ未経験は加点要素。肛門未使用は加点要素。夫とのみ性交しているのは加点も減点もなし。性技はほぼ皆無で減点。体が十分に敏感でないので減点。最終評価は——C級です」


「——C級?」


厳喆珂は愕然とした。評価は高い順にS、A、B、C、Dの五段階だという。自分がC級——それも下から二番目の評価を受けたことに、彼女は衝撃を受けた。


いつも周囲から注目を浴び、褒められてきた彼女にとって、この評価は屈辱的だった。李紅が意図的に低い評価を下していることに、厳喆珂は気づかなかった。実際には、李紅の心中では厳喆珂はA級、研修後はS級にも達すると思っていた。だが、彼女はあえてC級と評価することで、厳喆珂の心に打撃を与え、より支配しやすくしようと企んでいたのだ。


「——しかし、これはあくまでも初期評価です。研修次第で評価は上がりますよ」


李紅はそう言って、厳喆珂に服を着るよう促した。


「では、これから一週間の研修を始めましょう。厳さんには、ここで寝泊まりしていただきます。必要なものは会社で用意しますから、心配しなくていいですよ」


「——でも、私は夫が——」


「夫さんには、あなたが短期の仕事を見つけたと伝えればいいでしょう。一週間程度なら問題ないはずです」


李紅の言葉に、厳喆珂は返す言葉を失った。確かに楼成は籠もり修行中で、彼女の行動を把握していない。一週間程度なら、何の問題もないだろう。


「——わかりました」


厳喆珂はそう言って、李紅の指示に従うことにした。心の中には、逃げ出したいという気持ちがあった。しかし、それ以上に、自分がC級と評価された屈辱が彼女を留めていた。


李紅はその表情を見て、心の中でほくそ笑んだ。彼女の思惑通り、厳喆珂はこの場所に留まることを選んだ。これから一週間、彼女はこの会社の思うままに操られることになる。


研修は明日から本格的に始まる。厳喆珂には、自分が何を体験することになるのか、まだ想像もつかなかった。


第2章

李紅は厳喆珂を連れて、店の裏手にある個室研修室へと向かった。室内は薄暗く、ピンク色の照明が柔らかく漂い、中央には大きなヨガマットが敷かれている。壁際には鏡が一面に設置され、あらゆる角度から自分の姿を確認できるようになっていた。厳喆珂は緊張した面持ちで李紅の後ろに立ち、何をされるのかと不安と好奇心が入り混じっていた。


李紅は冷めた口調で言った。「あんた、本当にやる気はあるのかい? 無理なら帰っても構わないよ。ここは無理強いするところじゃないからね。」


厳喆珂はその言葉に一瞬戸惑った。彼女はてっきり厳しい指導が待っていると思っていたのに、李紅はあっさりと引き返す道を残している。しかし、そのあまりにも軽い態度が逆に厳喆珂の心に火をつけた。自分は非人級の武者だ。こんなことで逃げ出せるか。彼女は決意を固め、声を張った。


「やります。ちゃんと教えてください。」


李紅は微かに口元を緩めたが、すぐに無表情に戻った。「そうか。じゃあ、まずはそのヨガウェアだけになるんだ。下着は外せよ。」


厳喆珂は頷き、背を向けて服を脱ぎ始めた。彼女は武道の鍛錬で引き締まった身体を持っていたが、こうして他人の前で裸になるのは初めての経験だ。心臓が高鳴るのを抑えながら、ピンクのタイトなヨガウェアを身に着けた。下着は外したので、布越しに胸の突起がはっきりと浮かび上がっている。彼女は振り返り、李紅の前に立った。


李紅は厳喆珂の全身をじっくりと観察した。「なかなかいい身体してるね。でも、これから教えることを覚える気はあるのかい? 嫌ならいつでもやめていいんだよ。」


厳喆珂は強い目で李紅を見返した。「やめません。覚えます。」


「ふん、その意気だ。じゃあ、まずはマットに寝転がれ。」


厳喆珂は言われるままにヨガマットに仰向けに寝た。李紅は彼女の横に座り、手を伸ばしてヨガウェアの上から胸を撫で始めた。最初は軽くなでるだけだったが、徐々に指の動きが細かくなり、乳首の位置を正確に捉えて刺激した。厳喆珂は思わず息を呑んだ。武道の訓練で鍛えられた身体は外部の刺激に敏感で、李紅の指の感触が全身に走る。


「あ、そこ、ちょっと……」


「黙ってろ。感じるままに身を任せろ。」


李紅の手は胸から腹部へと移動し、さらに下へ。ヨガパンツの股間部分に手を当て、布越しに膣の位置を探った。指が軽く押し込まれると、厳喆珂は無意識に腰を浮かせた。李紅は手のひらで全体を揉みながら、しっとりと湿り気を帯びてきた布の感触を確かめた。


「もう濡れてきたのか。感じやすい身体だね。」


厳喆珂は顔を赤らめ、何も言い返せなかった。自分の身体が勝手に反応しているのが恥ずかしくてたまらない。しかし、李紅の手は容赦なく動き続け、指が膣口の周りを円を描くように撫でると、淫液がじわりと染み出し、薄いヨガパンツの股部分を濡らしていった。


李紅は満足そうに頷くと、「よし、それじゃあ、このズボンを脱がすぞ。」と言い、厳喆珂のヨガパンツを膝のあたりまでずり下ろした。下半身が完全に露出し、濡れた陰部が薄明かりに照らされる。厳喆珂は羞恥に体中が熱くなるのを感じたが、李紅の手が再びそこに触れると、思考がかき消された。


李紅はポケットから偽のペニスを取り出した。それは肌色をしたシリコン製で、長さは十数センチ、太さは中指と人差し指を合わせたくらいだ。李紅はそれを厳喆珂の目の前に掲げて見せた。


「これから、これを使ってお前の穴を慣らす。痛かったら言えよ。でも、ちょっとくらいの痛みは我慢しろ。」


言うが早いか、李紅は偽ペニスの先端を厳喆珂の膣口に当て、ゆっくりと押し込んだ。厳喆珂は初めての異物感に体を強張らせたが、李紅の手が優しく腰を撫でると、徐々に力が抜けていった。偽ペニスは滑らかな動きで膣内に侵入し、奥まで収まった。


「はあっ……はあっ……」


厳喆珂は荒い息を吐きながら、下腹部に広がる充実感に集中した。李紅は偽ペニスをゆっくりと引き抜き、また押し込む。その動きが規則正しく続くうちに、厳喆珂の膣内はさらに潤み、淫液が李紅の手を濡らした。


「いい感じだ。そろそろ本気でいくぞ。」


李紅は抽送の速度を上げた。偽ペニスが膣壁を擦るたびに、厳喆珂の体内から甘い声が漏れる。彼女は無意識に腰を動かし、挿入に合わせて揺れ始めた。快感が徐々に高まり、奥の方から何かが込み上げてくる感覚があった。


「あっ、あっ、もう、いきそう……」


厳喆珂が絶頂の兆候を見せた瞬間、李紅はピタリと動きを止めた。偽ペニスが膣内に止まったまま、一切の動きがなくなる。厳喆珂はもどかしさに身をよじった。


「な、なぜ止めるんですか? 続けてください……」


李紅は冷ややかに笑った。「簡単にイかせたら、お前のためにならない。男を喜ばせる技術ってのは、自分の快感をコントロールするところから始まるんだ。俺の言う通りに動けるか?」


厳喆珂は歯を食いしばって頷いた。李紅は再び偽ペニスを動かし始めたが、今度はゆっくりとしたリズムで、厳喆珂が耐えきれずに腰を突き出そうとすると、また止める。これを何度も繰り返し、厳喆珂は絶頂の手前で何度も宙吊りにされた。


やがて厳喆珂の目に涙が浮かび、声は懇願に変わった。「お願いします……もう我慢できません……イかせてください……」


李紅はその言葉を待っていた。彼女は偽ペニスを抜き取り、厳喆珂の顔をのぞき込んだ。「いいだろう。ただし、お前がこれから覚えることを一つ覚えるごとに、一度だけイかせてやる。まずは正常位だ。お前の足を開いて、俺の腰を挟むんだ。」


厳喆珂は言われるままに両足を開き、李紅の腰に絡めた。李紅は再び偽ペニスを膣に挿入し、今度は本格的に抽送を始めた。厳喆珂は両手を床について体を支え、李紅の動きに合わせて腰を動かした。数十回の激しい抽送の後、厳喆珂は遂に絶頂に達した。全身が震え、膣内が収縮し、淫液が溢れ出した。


「はあっ、はあっ、すごい……!」


李紅は厳喆珂が絶頂から醒めるのを待って、次の体位を教えた。「次は後背位だ。四つん這いになれ。」


厳喆珂は素直に体勢を変えた。両手と両膝を床につき、尻を高く突き上げる。李紅はその尻を撫でながら、偽ペニスを後ろから膣に挿入した。今度は角度が違うため、より深くまで届く感覚があった。厳喆珂は自分の口から漏れる声を抑えきれなかった。


「ああっ、そこ、奥に当たってる……」


「いい感じだ。そのまま動くなよ。」


李紅は厳喆珂の腰を掴み、激しく抽送した。厳喆珂の胸が揺れ、ヨガウェアの上部分がめくれ上がって、露出した乳首がマットに擦れる。それもまた快感を増幅させた。二度目の絶頂はすぐに訪れ、厳喆珂は全身の力を失ってマットに伏せた。


続いて李紅は四つん這い位、騎乗位など、様々な体位を教えた。厳喆珂は一つ一つの体位を覚えるごとに絶頂を許され、そのたびに自分の身体が新しい快感に開かれていくのを感じた。気がつけば、初めの緊張や恥ずかしさは消え去り、ただ李紅の次の指示を待つ自分がいた。


初日の研修は数時間に及んだ。厳喆珂はヨガマットの上でぐったりと横たわり、全身が汗と淫液で濡れていた。李紅は満足げに頷くと、「今日はこれで終わりだ。明日も続けるぞ。ちゃんと休めよ。」と言い残して部屋を出て行った。


二日目、厳喆珂は前日の疲れも見せず、早めに研修室に現れた。李紅はその姿を見て、内心で感心した。やはり体力は並外れている。李紅は前日と同様、淡々とした態度で厳喆珂を迎えた。


「今日は午前中に体位の復習をして、午後からは新しい技術を教える。ついてこい。」


午前中は、前日覚えた正常位、後背位、四つん這い位、騎乗位を厳喆珂に復習させた。厳喆珂は李紅の指示に従い、一つ一つの動作を正確に再現した。李紅は細かい修正を加えながらも、厳喆珂の飲み込みの早さに驚かされた。


午後になると、李紅は新たな偽ペニスを取り出した。それは口に含むのに適した大きさで、先端がやや太く、根元が細くなっている。李紅はそれを厳喆珂の目の前に差し出した。


「これからフェラチオを教える。男の喜ばせ方の基本だ。まずは、この偽ペニスを舐めるところから始める。」


厳喆珂は偽ペニスを受け取り、躊躇しながらも口に近づけた。まずは先端を舌でそっと舐める。シリコン特有の無味無臭だが、李紅の視線が自分に注がれているのを感じると、それが本物の男根のように思えてきた。


「もっと大胆に。舌の先を尖らせて、裏筋をなぞるように舐めろ。そうだ、その調子だ。」


李紅の指導に従い、厳喆珂は舌を器用に使って偽ペニスの表面を舐め回した。時折、先端を口に含んで吸い付くようにすると、李紅は「いいぞ、そのまま吸い込め」と指示した。厳喆珂は目を閉じ、口の中の異物感に集中しながら、頭を前後に動かしてフェラチオの動作を繰り返した。


「よし、次は深く咥えろ。喉の奥まで入れるんだ。吐き気を我慢しろ。」


厳喆珂は勇気を振り絞って、偽ペニスを喉の奥まで押し込んだ。一瞬、えずきそうになったが、武道の訓練で鍛えた呼吸法を使って耐えた。李紅はその様子をじっと見守り、「そのまま数秒キープしろ。そうだ、うまいじゃないか。」と褒めた。


数時間の練習の末、厳喆珂は偽ペニスを使って一連のフェラチオ動作をスムーズに行えるようになった。李紅は満足そうに頷き、「次はアナルセックスだ。夜にやるぞ。」


夜になると、李紅は厳喆珂を連れて浴室に向かった。そこで厳喆珂に浣腸を施した。三度にわたって浣腸液を注入し、腸内を完全に洗浄した。厳喆珂は自分の尻穴から水が出る感覚に羞恥を覚えたが、もはや拒否する気は起きなかった。


研修室に戻ると、李紅は厳喆珂に四つん這いの姿勢を取らせた。そして新しい偽ペニスを取り出した。それは膣用より細く、先端がやや尖っている。李紅はローションをたっぷりと塗り、厳喆珂の肛門に当てた。


「初めてだから痛いはずだ。でも、耐えろよ。」


言うが早いか、李紅は偽ペニスをゆっくりと肛門に押し込んだ。厳喆珂はその痛みに声を上げたが、李紅の手が腰を優しく撫でると、痛みが薄らぎ、代わりに圧迫感が広がった。


「はあっ、はあっ、痛いけど、なんとか……」


「そのまま動くな。俺が動くから、お前は力を抜け。」


李紅は偽ペニスを慎重に抜き差ししながら、徐々に速度を上げた。厳喆珂は肛門が徐々に慣れていくのを感じ、痛みよりも異物感が支配的になった。数分後、李紅は抽送を続けながら、「どうだ? 痛みは引いたか?」と尋ねた。


「はい……少し慣れてきました……」


「よし、じゃあもっと深くいくぞ。」


李紅は偽ペニスをさらに奥に押し込んだ。厳喆珂の体内からくぐもった声が漏れる。前立腺のあたりが刺激されると、膣とは違う快感が全身を走った。厳喆珂は自分の肛門が開発されていく感覚に酔いしれた。


三日目、李紅は厳喆珂の順応性の高さに満足し、本格的な身体の開発に入った。この日は、まず全身を丹念に撫で回すことから始まった。李紅は厳喆珂の身体の隅々まで手のひらで触れ、どの部分が最も敏感かを探った。


「ここはどうだ? ここは?」


李紅の指が耳の裏、首筋、脇の下、腰骨の内側、太腿の内側と探っていく。厳喆珂は触れられるたびに身体を震わせ、声を漏らした。特に背骨に沿って指を滑らせると、彼女は背中を反らせて甘い声を上げた。


「ああっ、そこ、背中のラインが、すごく感じる……」


李紅はその反応を記憶に留め、同時に厳喆珂の胸の突起、乳首を指先で転がすと、彼女の淫液がとめどなく溢れ出した。軽く撫でただけで、ヨガパンツが濡れるほどだ。


「本当に感じやすい身体だな。お前は生まれつきの淫乱かもしれないな。」


李紅の言葉に厳喆珂は否定しようとしたが、自分の身体が正直に反応しているのを認めざるを得なかった。彼女はもはや恥ずかしさよりも、自分の身体が新しい快感で満たされることに喜びを感じ始めていた。


午後には、李紅は厳喆珂にパイズリ、手コキ、足コキ、腿コキなどの技術を教えた。パイズリでは、自分の胸で偽ペニスを挟み、上下に動かす方法を学んだ。胸が大きくない分、腕の力で調整する必要があったが、厳喆珂はすぐにコツをつかんだ。


手コキでは、指の使い方、力加減、リズムの取り方を徹底的に叩き込まれた。足コキでは、足の裏で偽ペニスを扱く技術を学んだ。腿コキでは両腿の内側で挟んで擦る快感を覚えた。


李紅は教え終わると、厳喆珂に言った。「これで一通りの基本技術は教えた。お前の身体はよくできている。特にタフだな。何時間続けても疲れを見せない。これは売春婦として最高の素質だ。」


厳喆珂はその言葉に、なぜか誇らしさを感じた。自分は武術の世界では非人級の実力者だが、ここでは全く別の価値観で評価されている。そのギャップがむしろ新鮮で、彼女をさらに没頭させた。


三日間の調教が終わる頃には、厳喆珂は李紅の指導に完全に心を開いていた。彼女は元々、楼成に勧められてこの体験に臨んだはずだった。だが今、楼成の顔は頭の片隅に追いやられ、代わりに李紅の言葉や手の感触、偽ペニスの挿入感がすべてを占めていた。


最終日、李紅は厳喆珂に総復習をさせた。フェラチオ、パイズリ、手コキ、腿コキ、足コキ、膣交、肛交、すべての技術を順番に試させた。厳喆珂は一つ一つの動作を完璧にこなし、李紅の期待を上回った。


「いいだろう。お前はもう一人前だ。明日から実際の客を取ってもらう。」


厳喆珂はその言葉に、ぞくぞくするような興奮を覚えた。自分が売春婦として客を取る。それはかつての自分なら考えられなかったことだ。だが今は、その未知の体験が待ちきれなかった。


部屋を出る前に、厳喆珂は鏡の前に立った。そこには、ピンクのヨガウェアだけを身に着け、淫らな汗にまみれた自分が映っている。頬は上気し、目は潤んでいた。彼女は自分の姿を見つめながら、ふと楼成のことを思い出した。


(楼成……ごめんね。でも、これも修行の一環なんだ。きっとあなたも認めてくれるよね……)


そう自分に言い聞かせながら、厳喆珂は心の奥底で芽生えつつある欲望を認めようとしなかった。彼女はもう、李紅の手によって着実に調教され、売春婦としての自分を受け入れ始めていたのだ。


三日間の研修は、厳喆珂の身体だけでなく、心までも変えてしまった。彼女はもはや、清楚でおとなしかった頃の自分には戻れない。その事実に、彼女はまだ気づいていなかった。


第3章

四日目の朝、厳喆珂は研修室の簡易ベッドの上で目を覚ました。昨日までの調教で、彼女の身体はすでにある程度の性愛刺激に慣れていたが、心の奥底ではまだ強い羞恥心が燻っていた。李紅は早朝から部屋に現れ、いつものように無表情で準備を整えていた。


「今日から、お前を本当の意味で売春婦に近づける。」

李紅の声は冷たく、厳喆珂の背筋を凍らせた。しかし、同時に彼女の身体の奥底で、何かが期待している自分に気づき、ぞっとした。


李紅は研修室のドアを少し開け、廊下に向かって何かを合図した。すぐに、廊下から足音や話し声が聞こえ始めた。人は研修室の前を行き来しているようだった。李紅が厳喆珂の前に座り、ゆっくりと彼女の服を脱がせ始めた。


「や、やめてください…外に人が…」

厳喆珂は声をひそめて懇願したが、李紅は無視した。指が彼女の胸の先端に触れ、軽く撫でる。同時に、廊下から人の気配が近づいてくる。厳喆珂の身体は緊張し、息が詰まった。


李紅の手の動きはますます激しくなった。胸を揉みしだき、腹部を撫で、太ももの内側を這う。そのたびに厳喆珂の口から小さな吐息が漏れる。そして、ちょうど誰かが研修室の前を通り過ぎる瞬間、李紅は彼女の最敏感な部分を強く刺激した。「あっ…!」


厳喆珂は反射的に声を上げてしまい、すぐに口を押さえたが、遅かった。廊下の足音が一瞬止まり、話し声が聞こえた。「何の音?」「さあ…」そしてまた歩き去った。厳喆珂の顔は真っ赤に染まり、身体全体が熱くなった。


「お前の喘ぎ声、外に聞こえたぞ。」

李紅は冷たく言い放ち、さらに激しく彼女の身体を弄った。指が膣口に触れ、そこがすでに濡れていることを確認すると、李紅は軽く笑った。「さっきまで恥ずかしがっていたのに、もうこんなに濡れているとはな。」


厳喆珂は否定しようとしたが、言葉にならなかった。身体は正直で、羞恥心が高まるほどに感度が増していた。廊下から再び足音が近づく。今度は複数の足音だ。李紅はタイミングを見計らい、彼女のクリトリスを指で弾いた。「んんっ…!」


耐えきれず、声が漏れた。外の足音がまた止まった気がする。会話が聞こえる。「研修室で何かしてるのか?」「知らないけど、まあいいんじゃない?」そしてまた去っていく。厳喆珂の心臓は激しく打ち、恥ずかしさで頭の中が真っ白になりそうだった。


しかし、そうなればなるほど、身体は制御不能になった。李紅の指の動きに合わせて、自然と腰が動き、口からは止められない喘ぎ声が溢れ出る。何度目かの絶頂を迎えた時、彼女は悟った。もう隠し通せない。聞かれてしまった。聞かれてしまっている。


「もういい…好きにしてください…」

厳喆珂は小さな声でつぶやいた。それは敗北の宣言であり、同時に解放でもあった。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。だけど、もうどうしようもない。彼女は両手で顔を覆い、うつ伏せになった。いわゆるダチョウの姿勢だ。見えないことにすれば、見られていないのと同じ。そう自分に言い聞かせた。


李紅はその反応を見て、満足げにうなずいた。「少しは開き直れたようだな。まだまだこれからだ。」


五日目、厳喆珂が研修室に入ると、李紅はラテックス製のフードを手に持っていた。全身を覆う黒いフードで、口の部分にだけ小さな呼吸穴が開いている。


「これを被れ。」

厳喆珂はためらいながらも拒否できなかった。李紅に促されるまま、フードを頭からかぶる。視界は完全に奪われ、真っ暗になった。耳だけが鋭くなり、周囲の音が鮮明に聞こえる。


李紅が彼女を裸にし、研修室の中央に立たせた。そして、身体の弄り始める。胸、腹、太もも、そして脚の間へ。指が入念に性感帯を刺激する。その間、研修室のドアが開く音がした。


「李さん、資料持ってきました。」

男性の声だ。厳喆珂は凍りついた。今、自分の裸の姿が、あの男性の目に映っている。そう思うだけで全身が血が上り、ピンク色に染まった。


「ああ、そこに置いておいてくれ。」

李紅は何事もなかったように応答しながら、指で彼女の膣内をかき回す。「んっ…!」厳喆珂は喘ぎ声を噛み殺したが、完全には抑えきれなかった。


「何か、やってますね…」

男性の声が近づく。彼が近くで立ち止まった気配がした。彼の視線が自分の裸体を舐め回している。そう思うと、羞恥心と同時に、なぜか官能が湧き上がった。


「ちょっとした調教だ。お前も見ていていいぞ。」

李紅は平然と言い、厳喆珂の腿を開かせた。男性の息遣いが聞こえる。彼がじっと見つめている。厳喆珂は目を閉じた(もともと見えないが)が、意識はその視線を感じ取っていた。恥ずかしい。恥ずかしすぎて死にそうだ。でも同時に、身体の奥が切なく疼いた。


その日の間、何人もの人間が研修室に出入りした。そのたびに李紅は彼女の身体を弄り、見せつけるようにした。厳喆珂は最初こそ羞恥のあまり硬直していたが、回を重ねるごとに、徐々に慣れ始めた。見られてもいい。どうせ私の顔は見えない。そう自分に言い聞かせた。


しかし、彼女は考えなかった。この研修室に誰がいるか、社員は皆知っている。ラテックスフードを被っていようが、その裸体が誰のものか、明白だったのだ。


夕方、フードを外された時、厳喆珂の目には涙が浮かんでいたが、その瞳の奥には、何かが変わったような光があった。


六日目。李紅は厳喆珂に普通の服を脱ぐように命じた。そして代わりに、犬用の首輪を首にはめ、透明な薄絹で作られたブラジャーと、同じ素材のミニスカートを着せた。薄絹はほとんど何も隠さず、胸の頂点や陰部の形がはっきりと透けて見えた。むしろ、ほのかに隠れることでかえって淫靡さが増していた。


「外を一周してこい。」

李紅の命令に、厳喆珂は首を振った。「出たくない…こんな格好で…」

しかし李紅は容赦しなかった。彼女の両手を背中に回し、冷たい金属の手錠をかける。そして、細い紐を取り出し、一端を厳喆珂の陰核にしっかり結びつけた。「い、痛っ!」鋭い痛みが走る。李紅は紐のもう一端を手に取り、引っ張った。「歩け。」


一歩踏み出すたびに、陰核が引っ張られ、痛みと刺激が同時に走る。厳喆珂は涙を浮かべながら、研修室のドアをくぐった。


廊下にはすでに数人の社員がいた。彼らの視線が一斉に厳喆珂に注がれる。その目には驚きと欲望が混じっていた。厳喆珂はうつむき、歩みを止めようとしたが、李紅が紐を引っ張るたびに、陰核を引き裂かれるような痛みが走り、前に進まざるを得なかった。


「ほら、行くぞ。」

李紅は彼女を引っ張り、会社の敷地内を歩き回らせた。正面玄関、会議室の前、食堂、事務所の前。あらゆる場所を、ほとんど裸同然の姿で引き回された。


社員たちは立ち止まり、彼女を見つめた。中には口笛を吹く者、卑猥な言葉を投げかける者もいた。「おや、厳さん、そんな格好で。」「なかなか似合ってるよ。」厳喆珂の頬は火のように熱く、全身が羞恥で震えた。


しかし同時に、彼女の心の中で、もう一つの声が囁き始めていた。これは強制されている。李紅が紐で私の陰核を縛っているから、逃げられないだけ。抵抗すればもっと痛めつけられる。そう自分に言い聞かせると、少しだけ気が楽になった。そうだ、私は被害者だ。仕方なくやっているのだ。


そう考えると、羞恥心は少しずつ和らいだ。むしろ、周りの視線が心地よく感じられる瞬間さえあった。社員の一人がすれ違いざま、彼女の胸に触れた。薄絹越しに感じる他人の手。厳喆珂は小さく声を漏らしたが、拒まなかった。


しかし、太ももを伝う生暖かい液体の感触が、彼女の思考を揺さぶった。それは淫液だった。自分の膣から溢れ出ている。私は本当に嫌がっているのだろうか?非人級の武術家である私は、たかが紐一本に拘束されるほど弱くはない。本当に抵抗すれば、この程度の拘束など、簡単に引きちぎれるはずだ。


その考えが頭をよぎった瞬間、厳喆珂は強い自己嫌悪に襲われた。しかし、李紅が紐を引っ張り、陰核を刺激すると、その思考はすぐに掻き消された。


午後になると、李紅は引き続き彼女を連れ回した。今度は社員たちも積極的に関わってきた。すれ違うたびに、手を伸ばして彼女の身体を弄る者が出始めた。胸を揉む者、股間を撫でる者、お尻を叩く者。薄絹のブラジャーとスカートはすぐにその手で引き裂かれ、厳喆珂は完全に裸になった。


初めのうちは恥ずかしさで身をよじったが、何度も何度も晒されるうちに、感覚が麻痺していった。もう、裸であることなど気にならなくなっていた。


ある社員が彼女の前に立ちはだかり、「ここでしゃがんでみせろ」と命令した。厳喆珂は李紅を見たが、李紅は無表情でうなずいた。彼女はゆっくりとしゃがみ込み、自分の裸体をさらに露わにした。周りの社員の歓声と笑い声が響く。


その時、厳喆珂の心にふと蘇るものがあった。楼成の顔だ。彼は今、籠もって修行している。彼は何も知らない。彼は、自分の妻がこんなことをしていると想像もしていない。それだけで、胸が締め付けられた。


しかし、その思いは、次の瞬間の身体の反応にかき消された。誰かの指が彼女の膣内に侵入し、彼女は快楽の声を上げた。もう、戻れない。そう確信した。


一日が終わる頃、厳喆珂は会社の敷地内を何十周も歩き回り、ほとんどすべての社員の目に晒され、その半数以上の手で身体を弄られていた。彼女の身体はあちこちに赤い跡がつき、汗と淫液で濡れていた。


李紅が彼女を研修室に戻し、手錠と陰核の紐を外した。厳喆珂はその場に崩れ落ち、大きく息をした。目は虚ろで、何かを考えているようで、何も考えていないようでもあった。


「今日の成果だな。」

李紅が冷たく言った。「お前は今日、会社中に自分を晒した。もう、裸であることを恐れるな。」


厳喆珂は答えなかった。しかし、彼女の心の中で、羞恥心という壁は、大きく崩れ去っていた。残っているのは、空虚な感覚と、そしてもう一人の自分——そんな自分を愉悦する自分への恐怖だけだった。


彼女は俯きながら、自分の太ももを伝う淫液を見つめた。そして、もう一つの疑問が頭をよぎる。明日は何をされるのだろう。そう考えている自分に、彼女は気づいていた。恐怖と共に、期待も混じっていることを。


第4章

七日目、朝の光がカーテンの隙間から差し込む。厳喆珂は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。今日が研修最終日だ。七日間、娼婦としての生活を体験してきた。最初は戸惑いもあったが、次第にその世界の流儀を覚え、客の相手も自然にこなせるようになった。


彼女はゆっくりと起き上がり、簡素なアパートの部屋を見渡す。ここは研修用に用意された場所で、実際の娼婦が使うような内装ではないが、それでも生活感を出すために最低限の家具が置かれていた。鏡の前で髪を整え、薄い化粧を施す。武道の鍛錬で鍛えた身体は均整が取れており、清楚な顔立ちに今日もどこか明るさが滲んでいる。


「最後の日か……」


彼女は小さく呟き、部屋を出た。表通りに出ると、朝の空気が肌に心地よい。まだ人の少ない路地を抜け、研修先の店舗へ向かう。七日間、ここで様々な客を相手にしてきた。中には一晩中話し込むだけの者もいれば、身体だけを求める者もいた。楼成との新婚旅行後、彼が武術の修行に籠っている間、暇を持て余していた彼女にとって、この体験は新鮮だった。結婚前はおとなしい娘だったが、今は少しずつ自分自身を試してみたくなっている。


店に着くと、女将が出迎えた。


「おはよう、喆珂さん。今日で最後ね」


「はい。お世話になりました」


喆珂は深々と頭を下げる。女将は優しく微笑んだ。


「よく頑張ったわね。初めての日は緊張してたけど、今ではすっかり板についてきたわ」


「まだまだですけど、いろんなことが勉強になりました」


「そう言ってくれると、こっちもやりがいがあるわ。今日はどんな客が来るかしらね。最後だから、特別に誰か指名があるかもしれないわよ」


喆珂は軽く頷き、控え室で待機することにした。他の女性たちも続々と集まってくる。彼女たちは皆、この世界で長く働いているベテランだ。喆珂は彼女たちから多くを学んだ。客の扱い方、言葉遣い、自分の心を守る方法。もともと機知に富んでいる彼女は、すぐにその技術を吸収した。


午前中は誰も来ず、静かな時間が流れた。喆珂は窓から外を眺めながら、楼成のことを考えていた。彼は今頃、どこかの山中で修行に励んでいるのだろう。武聖の称号を守り、さらに高みを目指すために、彼は自らを追い込んでいる。彼が帰ってきた時、自分はこの体験をどう話せばいいのだろうか。いや、話す必要はないのかもしれない。これは自分だけの秘密の冒険だ。


昼過ぎになって、一人の客が現れた。中年の男性で、落ち着いた物腰の商人らしい。彼は喆珂を指名し、個室へ通された。部屋には簡素な卓と座布団があり、向かい合って座る。


「今日で最後なんですってね」と男は穏やかな声で言った。


「ええ、そうです。よくご存知で」


「店の者から聞いたんだ。あなたはまだ若いのに、とても落ち着いている。何か特別な経験を積んでいるんじゃないかと思ってね」


喆珂は少し驚いたが、すぐに笑顔を取り繕った。


「いえ、ただ普通に働いているだけです」


「そうか。まあいい。最後の日にあなたに会えて良かった。何か話をしよう。今日はそういう気分だ」


男は静かに茶を啜りながら、旅の話や商売の話を始めた。喆珂はそれを聞きながら、相槌を打ち、時折自分の経験を交えて返す。彼女の話術は確かで、男は何度も笑った。時間はあっという間に過ぎ、男は満足そうに席を立った。


「楽しかったよ。ありがとう。あなたの将来に幸運があるように」


そう言って男は去っていった。喆珂は部屋に一人残り、しばらく座っていた。この七日間で出会った客たちの顔が次々と頭に浮かぶ。それぞれが何かを求めてここに来る。その一瞬の触れ合いの中で、彼女は多くの人間模様を見てきた。


夕方になり、最後の客が来た。若い男で、少し緊張した様子だった。彼は喆珂を見ると、すぐに目をそらした。


「初めてなんです」と彼は言った。


「そうですか。大丈夫ですよ、ゆっくりしていってください」


喆珂は優しく導き、彼の緊張をほぐすために軽い世間話を始めた。彼は学生で、武術に興味があると言う。喆珂は内心で苦笑した。自分も武術をたしなむ身だ。しかし、それを隠して、ただの優しい女性として振る舞った。


「武術って、どんな感じなんですか?」と彼が尋ねる。


「私はあまり詳しくないけれど、身体を動かすのは気持ちいいわよ。自分を鍛えるって、大事なことだと思う」


「そうですよね。僕ももっと強くなりたいんです。有名な武聖様みたいに」


その言葉に、喆珂の心臓が一瞬止まった。武聖――それは楼成のことだ。彼の名前は多くの人の口に上るようになった。自分はその妻でありながら、今、全く別の顔で男と向き合っている。


「そうね、武聖様はすごいわ。でも、あなたにもきっとできることがあるわよ」と彼女は平静に答えた。


その後、彼はゆっくりと打ち解け、時間を共に過ごした。特に何か特別なことはなく、ただの穏やかな時間が流れた。彼が帰る時、礼を言って去っていった。喆珂は彼の後ろ姿を見送りながら、今日一日が終わったことを実感した。


店が閉まる時間になり、喆珂は女将に最終的な挨拶をした。


「本当にお世話になりました。この経験は、決して忘れません」


「こちらこそ。あなたのような良い子が来てくれて、店も活気づいたわ。もしまた何かあれば、いつでも来なさい」


喆珂は深くお辞儀をし、店を後にした。外はすでに暗くなり、街灯が道を照らしていた。彼女はゆっくりと歩きながら、この七日間を振り返った。娼婦としての生活は、想像以上に複雑だった。身体を売ることの意味、客との距離感、自分自身のアイデンティティ。それら全てが彼女の中で混ざり合い、新たな感覚を生み出していた。楼成が帰ってきた時、自分は変わったかもしれない。しかし、その変化が良いものかどうかは、まだ分からない。


アパートに戻ると、彼女はベッドに横たわった。天井を見つめながら、いつか楼成にこの話をする時が来るのだろうかと思う。いや、おそらく永遠に秘密にするだろう。それが彼に対する優しさであり、自分の選択でもあった。


研修は終わった。明日からまた、普段の生活に戻る。しかし、その生活はもう以前とは違う。彼女の中には、この七日間で得たものが確かに根付いていた。厳喆珂は目を閉じ、静かに眠りに落ちていった。


第5章

夕暮れ時、高級マンションの一室で、厳喆珂は窓辺に立ち、街の灯りが次第に輝き始める景色を眺めていた。彼女の手には、先ほどネットで見つけたアルバイト求人のプリントアウトが握られている。


「非人級の武者が…こんなことをするなんてね」


彼女は自嘲気味に呟いた。武道の達人であり、楼成という武聖の妻である自分が、今から“高級接待”のアルバイトに応募しようとしている。夫は修行に籠もって半年が経ち、彼女の生活は優雅でありながらも、どこか空虚だった。


鏡の前で、彼女は軽くトレーナーを整えた。清楚で垢抜けた顔立ちに、均整のとれた長身。胸は大きくないが、しっかりとした体つきは、武道の鍛錬が作り出した美しさだ。彼女は口紅をひき、髪を軽く整える。結婚前のおとなしかった娘の面影はもうない。


「ただの体験よ。何か新しいことをしてみたいだけ」


そう自分に言い聞かせながら、彼女はエレベーターに乗り込んだ。


待ち合わせ場所は、繁華街の一角にある高級クラブ。厳喆珂が店の重厚なドアを押し開けると、すぐにマネージャーらしい中年女性が現れた。


「厳さんですね。中へどうぞ」


彼女はマネージャーに案内され、個室へと通された。室内は落ち着いた照明で、高級そうなソファとシャンパンバーが置かれている。マネージャーは彼女に一通の書類を差し出した。


「こちらが契約書です。お客様とお会いいただく前に、いくつかルールをご説明しますね」


厳喆珂は書類に目を通しながら、冷静な声で尋ねた。


「お客様は…どんな方なんですか?」


「今日は初めてですからね。ベテランのお客様をご紹介します。とても紳士的な方で、問題は起こさないと思いますよ」


マネージャーはにこやかに笑ったが、その目は厳喆珂の体力と気品を値踏みしているようだった。


数分後、個室のドアがノックされ、一人の中年男性が入ってきた。スーツ姿で、落ち着いた物腰。四十代半ばといったところか。彼は厳喆珂を見て、軽く会釈した。


「初めまして。お招きいただきありがとうございます」


厳喆珂も立ち上がり、微笑みながら応じた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


彼女の声は落ち着いていたが、胸の内は少し高鳴っていた。夫以外の男性と、こういう形で向き合うのは初めてだ。しかし、武者としての訓練が彼女を冷静に保たせていた。お客様の動作、視線、呼吸のリズム——すべてを観察しながら、彼女は会話を進めた。


「厳さんは、普段はどんなお仕事を?」


「ええ…まあ、いろいろと。今はちょっとした冒険をしています」


彼女ははっきりと答えず、曖昧に笑った。自分が武道の達人であり、武聖の妻であることは、もちろん言えない。この世界では、ただの“厳さん”でいなければならない。


男性は彼女の返答に満足したようにうなずき、シャンパンを注いだ。グラスが触れ合う乾杯の音が、部屋の中に小さく響く。


一時間ほど会話を続け、男性が立ち上がった。


「今日はとても楽しかったです。またお会いできますか?」


「ええ、ご連絡ください」


厳喆珂はそう答えながら、内心でほっとしていた。何事もなく終わりそうだ。彼女はお辞儀をし、男性を見送った。


マネージャーが再び現れ、封筒を手渡した。


「こちら、本日のお報せです。またの機会があれば、ぜひ」


彼女は封筒を受け取り、中を確認せずにバッグにしまった。家に帰る道すがら、彼女は何とも言えない感情に襲われた。武者としての誇りと、この新しい体験への好奇心が、胸の内でせめぎ合っている。


「楼成…あなたは知らないでしょうね。私が今、何をしているのか」


月明かりの下、彼女の影が長く伸びていた。非人級の武者としての身体能力と、妻としての立場。その二つの間で、彼女の新たな生活は始まったばかりだった。


第6章

店内の薄暗い灯りが、鏡に映る自分の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。厳喆珂は唇に紅を引きながら、ふと手を止めた。窓の外を走るネオンサインの光が、彼女の頬を青白く照らす。夫の楼成は今頃、深山の道場で汗を流しているのだろう。籠もり修行を始めてからもう三ヶ月。彼からの連絡は週に一度の短いメッセージだけだ。


「今日はどなたがいらっしゃるのかしら」


彼女は小声でつぶやき、黒いレースの手袋をはめた指先で、スカートの裾をそっと整えた。この店で働き始めて二週間。最初は戸惑いばかりだったが、今では客の目線にも慣れてきた。とはいえ、心の奥底で燻る罪悪感は消えない。楼成がこのことを知ったら――いや、知られるはずがない。彼は修行に没頭し、世間の噂など耳に入れない。


カウンターの向こうから、マダムが声をかけてくる。


「喆珂ちゃん、お客様よ。特別なお方だそうだ」


「特別?」


「ああ。どうやら君のことを聞きつけて来たらしい。普通の相手じゃないぞ、身なりも話し方も上品だ」


厳喆珂は軽く頷き、バッグから小さな扇子を取り出した。それは楼成から贈られた結婚祝いの品で、表面に繊細な牡丹の刺繍が施されている。彼女はそれを手に、個室へと向かう廊下を歩いた。廊下の壁には古めかしい浮世絵が掛けられ、蝋燭の揺らめく明かりが影を踊らせる。


部屋の扉を開けると、そこにはスーツ姿の中年男性が座っていた。彼の眼鏡の奥にある目が、じっくりと彼女を値踏みする。厳喆珂は淑やかに笑みを浮かべ、向かいの座布団に腰を下ろした。


「初めまして。私は喆珂と申します」


「ほう、噂に違わぬ美しさだ。私は呉と申す。こういう店に足を運ぶのは初めてでな、少し緊張しておる」


「そんなことはございません。どうぞお楽になさってください」


彼女は手際よくお茶を注ぎ、湯呑みを差し出した。動作の一つ一つに、かつて武道の師匠から教わった“間”の取り方が生きている。相手の呼吸を読み、心の隙を見極める技術は、この世界でも役に立つのだ。


呉と名乗る男は、お茶を一口含んでから口を開いた。


「君のような才媛が、なぜこんな場所で働くのかね?」


「それは……人生の勉強です」


「勉強? なるほど。私も事業で様々な経験を積んできたが、そういう答えは初めて聞いた」


彼の声には皮肉ではなく、純粋な興味が含まれていた。厳喆珂は扇子で口元を隠し、軽く笑う。


「人の営みを知りたくて。武道だけでは見えない世界があるんです」


「武道? 君は武道をやるのか?」


「少しだけ。昔、かじった程度です」


彼女はさらりと誤魔化した。非人級の武者だと知られれば、話がややこしくなる。夫の楼成も、彼女の正体を隠すように言っていた。武聖の妻が娼婦をしている――それが世に知れれば、どれほどの騒動になるか。


会話が弾むにつれ、呉の態度は次第に柔らかくなった。彼は商談の疲れを癒しに来たと言い、仕事の愚痴をこぼした。厳喆珂は相槌を打ちつつ、心のどこかで冷めた自分を感じていた。この男は本当に私を見ているのか、それとも“娼婦”という仮面を見ているのか。


夜が更け、呉が帰った後、彼女は更衣室で一人、化粧を落とした。鏡の中の顔は一日の疲れで少し曇っている。楼成に送るメッセージの下書きを何度も打っては消した。「元気でいるよ」――それだけ書いて送信する。


スマートフォンが震え、すぐに返信が来た。


「俺も元気だ。お前が街で楽しんでいるなら、それが一番だ」


その一言に、胸が締め付けられる。彼は何も知らない。自分の妻が夜ごと見知らぬ男と向き合っていることを。


翌日、また別の客が訪れた。今度は若いサラリーマンで、彼女の態度に明らかに浮かれていた。彼が無理に手を握ろうとした瞬間、厳喆珂は反射的に彼の手首を軽く捻った。相手が痛みに顔を歪める。


「あっ、すみません。つい……」


「いや、こっちこそ。でも、あなた力強いね」


彼は感心したように笑い、それ以上は触れてこなかった。厳喆珂は内心で安堵する。しかし同時に、自分の中に芽生えた危うい快感に気づく。この力で、誰も傷つけずに支配できる。それが心地よかった。


一週間後、彼女は店の常連となったある老人と話す機会を得た。彼は杖をついた痩せた男で、目は濁っていたが、言葉の端々に人生の機微が滲んでいた。


「お嬢さん、あなたは何かを探しているね」


「何かを?」


「そうだ。この仕事をしている人間の目は、大概虚ろなものだ。しかしあなたの目は違う。まるで深海の底を見つめるような、深い光がある」


厳喆珂ははっとして、目を伏せた。老人の言葉は、彼女の心の奥底に触れた。


「私はただ、知りたいだけなんです。人がどう生き、どう愛し、どう裏切るのかを」


「裏切る、か。それもまた人生の一部だ。だが、自分自身を裏切ることだけはするなよ」


その言葉は、彼女の胸に鋭く突き刺さった。自分を裏切る――今の自分の行いは、楼成への裏切りであり、同時に自分自身への裏切りでもある。武聖の妻としての誇りを、娼婦としての一夜で汚している。


その夜、彼女は店を早退し、アパートのベランダで冷たい風に当たった。街の灯りが星のように瞬く中、彼女は遠くの山を眺めた。楼成がいる場所だ。


「ごめんね、楼成。でも、まだやめられない」


彼女は小さく呟き、指先で窓枠をなぞった。自分がどの道を選ぶのか、まだ決めかねていた。ただ一つ確かなのは、この体験が彼女の何かを変えつつあるということだけだ。


数日後、店に新たな噂が流れた。高級官僚がこっそり訪れているとか、あるいは裏社会の人物が目をつけたとか。厳喆珂はそれらを聞き流しながら、次の客を待つ。彼女の指は依然として扇子を弄り、目はどこか遠くを見つめていた。


この章はここで終わる。彼女の選択はまだ先延ばしにされ、物語は次の夜へと続く。


第7章

厳喆珂は自宅のリビングで、スマートフォンを手にしばらく考え込んでいた。楼成が修行に籠ってからもう三ヶ月が経つ。彼は週に一度、短い連絡をよこすだけで、その内容も決まって「順調だ」とか「もう少しで突破できそうだ」といったものばかりだ。


彼女は深く息を吐き、決心を固めた。数日前にネットで見つけた求人情報を思い出す。『高級接待クラブ』と書かれたその広告は、通常のアルバイトよりもはるかに高額な報酬を提示していた。経験不問、未経験者歓迎、とある。厳喆珂は自分の容姿が世間一般の水準を大きく上回っていることを自覚していた。武術の鍛錬で鍛えられたしなやかな肢体と、清楚でありながらもどこか妖艶な雰囲気は、彼女自身も意識せざるを得なかった。


「ただの体験だ。何か問題があるわけじゃない」


彼女は自分に言い聞かせた。楼成に隠れてこんなことをするのは後ろめたいが、彼は修行に夢中で、何も気づいていない。それに、彼女はただ単に、自分が結婚以外の世界でどれだけの価値を持つのか知りたかっただけだ。


そうして彼女は応募した。面接は思ったよりあっさりと終わり、採用が決まった。勤務先は都心の繁华街にある高級クラブで、店の名前は『夜桜』という。全体的に落ち着いた和のテーマでまとめられており、清潔感があり、いかにも高級そうな雰囲気を醸し出していた。


初出勤の日、厳喆珂は薄化粧を施し、控えめながらも品のあるワンピースを着て店に足を運んだ。マネージャーの中村という女性は四十代で、厳しい目つきだがどこか親しみやすさも感じさせた。中村は彼女の姿を見て一瞬目を見開き、すぐに満足げに頷いた。


「あなた、かなりいけるわね。今日から『カコ』という源氏名でお願い。お客様の相手は基本的に会話が中心。特別なサービスは禁止。でも、お客様から求められた場合は、ある程度のスキンシップは許容範囲よ。断る権利はもちろんあるけど、あまり固くならずにね」


中村は説明しながら衣装室へと案内した。そこにはきらびやかな着物やドレスが並んでいた。厳喆珂は自分が選んだ濃い藍色の着物に袖を通した。帯を締めると、自然と背筋が伸びる。鏡の中の自分は、普段の武道の稽古着姿とは全く異なる雅やかな女性に見えた。


「驚いたわ。着物がこんなに似合う人は初めてよ」


中村は感嘆の声をあげた。


その夜、最初の客は五十代の男性だった。恰幅の良い体つきで、話し方にはどこか高圧的な響きがあった。彼は『カコ』と呼ばれた厳喆珂の隣に座ると、すぐにウイスキーの水割りを勧めてきた。


「君、新人かい?こんなに綺麗な子がまだいたとはね」


「はい、今日が初めてです。どうぞよろしくお願いします」


厳喆珂はにこやかに微笑みながら杯を掲げた。彼女の笑顔はまるで春の日差しのように明るく、相手を思わず見惚れさせる。男はその笑顔に一瞬たじろぎ、次第に毒気を抜かれたように饒舌になった。


会話の内容は他愛のないものだった。仕事の愚痴、家庭の悩み、最近見た映画の話。厳喆珂は適度に相槌を打ち、時には優しく諭すように言葉を返した。彼女は武術だけではなく、人の心を読む技術にも長けていた。相手が何を求めているのか、一瞬で理解できるのだ。


二時間が過ぎ、男は名残惜しそうに店を去った。彼は帰り際に高額なチップを置いて行った。厳喆珂はその札束を見て、一瞬呆けた。武道の試合で得る賞金よりもはるかに少ない額だが、たった二時間の会話でこれだけの金を得るという感覚が、彼女には異様に感じられた。


次の日も、その次の日も彼女は『夜桜』に通った。客の大半は中高年の男性だったが、中には若い経営者やクリエイターもいた。彼らは共通して、厳喆珂の清楚な美しさと、どこか芯の強さを感じさせる雰囲気に惹かれていた。彼女は興味深い体験だと自分に言い聞かせていたが、次第に心の奥で何かが変わっていくのを感じていた。


ある日、彼女は一人の若い男に指名された。彼は二十四、五歳で、学生かと思えばそうではなく、大手企業の御曹司だという。彼は他の客とは違い、最初から下心を隠そうとしなかった。酒を何杯も重ね、次第に距離を詰めてくる。厳喆珂は自然に体を引きながらも、勘を失わないように会話を続けた。


「カコちゃんさ、こんな場所で働いてないで、俺と付き合わない?専業主婦になって楽させてやるよ」


男はそう言って、彼女の手を握ろうとした。厳喆珂は優しく、しかししっかりとその手を振りほどいた。


「お誘いは嬉しいですが、私はこういう仕事が好きなんです。色々な人と出会えるのが面白くて」


「それは建前だろ?本当は金のためだろ?俺ならもっと払えるぞ」


男の目がギラつく。周りの空気が一瞬で変わった。厳喆珂は深く息を吸い、相手の目をまっすぐに見据えた。彼女の目には、非人級の武者としての威圧感が一瞬よぎった。男はその視線に押され、言葉を失った。


「お客様、ここはお酒を楽しむ場所です。無理な勧誘はご遠慮ください」


穏やかだが、有無を言わせぬ口調。男は悔しそうに唇を噛み、それ以上は何も言えなかった。


その夜、厳喆珂は帰宅してからしばらくベッドに横たわっていた。窓の外には満天の星が輝いている。彼女は夫の楼成の顔を思い浮かべた。彼の笑顔、彼の無邪気なほどの武道への純粋な情熱。結婚式の日、彼が誓った言葉が耳に蘇る。


『ずっと君を守る。君を悲しませることは絶対にしない』


しかし今、彼はそれとは裏腹に、自分だけの世界に閉じこもっている。彼女は一人でこの部屋に残され、誰にも言えない秘密を抱えて夜の街へと繰り出している。夫の知らない世界で、自分は誰かの欲望の対象として扱われている。それはある意味で面白くもあり、同時に自分自身に嫌悪感を抱く瞬間もあった。


「この体験は、いつまで続けるべきなんだろうか」


厳喆珂は天井を見上げながら、小さく呟いた。返事は誰からもなかった。夜の静寂だけが、彼女の問いを受け止めるように部屋を包んでいた。


翌日、彼女は再び『夜桜』へと足を運んだ。クローゼットの中から、今日は深紅のドレスを選んだ。それはいつもより少しだけ派手で、少しだけ挑戦的な色だった。彼女は鏡の前でくるりと一回転し、自分の決意を確かめるように頷いた。


中村が入口で彼女を待っていた。


「今日は気合入ってるじゃない。大物のお客様が来てるわよ。名指しで『カコ』を希望してる」


「大物?」


「ええ、この業界じゃ有名なやり手よ。あなた、気をつけた方がいいわよ」


そう言って中村は、VIPルームの方を顎で指した。厳喆珂は一度深呼吸をし、背筋を伸ばしてその方向へ歩き出した。新しい扉を開けるたびに、彼女は少しずつ変わっていく自分を感じていた。果たしてこれが正しい道なのかどうか、まだ答えは出ていない。しかし、彼女はもう後戻りできないところまで来ていることも、ひしひしと感じていた。


VIPルームの重厚な扉の向こうから、低い男の笑い声が漏れ聞こえてきた。厳喆珂はその音に一瞬足を止めたが、すぐに決心を固めて扉を押し開けた。


第8章

第8章


高級クラブ「琥珀」の重厚なドアが、厳喆珂の前で静かに開かれた。店内にはうす暗い照明が落とされ、ところどころに置かれたランプの橙色の光が、落ち着いた大人の雰囲気を醸し出している。カウンターにはスーツを着た数人の男性がいて、それぞれグラスを傾けながら、静かに会話を楽しんでいた。


「いらっしゃいませ、厳さん」

マネージャーの中年男性が、にこやかな笑顔で彼女を出迎えた。その目は、彼女の清楚な雰囲気と、武者ならではの引き締まった体つきを、一瞬で評価するように動いた。


「本日から、こちらでお世話になります。厳喆珂と申します」

彼女は優雅に一礼した。武道で鍛えた姿勢は、自然と周囲の視線を集める。胸元は控えめながら、腰のラインから伸びる脚の長さが、薄手のワンピースの下でもはっきりとわかった。


マネージャーは彼女を個室へ案内した。壁には高級そうな絵が掛けられ、ソファは深いバーガンディ色で、重厚な雰囲気を醸し出している。


「こちらのクラブでは、お客様とお酒を楽しみながら、会話をしていただくのが主な仕事です。特別なことは一切求めません。ただし…」

彼は言葉を切って、彼女の顔をじっと見つめた。

「あなたのような美しい女性が、こういう場所で働くのは、やはり何か訳がありそうですね」


厳喆珂は、柔らかく微笑んだ。

「夫が修行で家を空けることが多くて、少し暇を持て余していたんです。新しい経験をしてみたくて」


その言葉に偽りはなかった。ただ、彼女の心の奥底では、もっと別の何かを求めている自分がいることも、彼女自身よくわかっていた。


初日の勤務は、思っていたよりも順調に進んだ。最初の客は、五十代の会社経営者だと言う男性だった。彼は彼女の清楚な雰囲気に好感を持ったらしく、武術の話や、彼女の故郷の話など、他愛もない会話を楽しんだ。厳喆珂は、相手の目を見て、うなずき、適度に笑い、時には自分の経験談も交えながら、会話を盛り上げた。


「君は、話しやすいね。他の子たちとは違う」

彼はグラスを傾けながら、満足げに言った。

「また明日も来ていいか?」


「ええ、もちろんです。お待ちしています」

彼女は、営業スマイルではなく、自然な笑顔で答えた。


二日目、三日目と、次第に彼女の存在はクラブ内で知られるようになった。常連客の間で、「琥珀に新しい美人が入った」という噂が広まり、彼女を目当てに訪れる男たちが増えていった。中には、彼女の清楚な外見と、武道で鍛えられた均整のとれた体つきに、明らかに性的な興味を持つ者もいた。


「厳さん、今日は隣の席、空いてますか?」

四日目の夜、スリーピースのスーツを着た若いエリートサラリーマンが、彼女に声をかけた。彼の目は、彼女の脚から腰、そして胸元へと、品定めするように動いている。


「ええ、もちろんです」

厳喆珂は、内心のわずかな嫌悪感を隠して、にこやかに答えた。彼が注文した高級ウイスキーのグラスを受け取り、隣に腰掛ける。彼の手が、自然な動作を装って、彼女の膝の上に置かれた。


「あなたみたいな美人が、どうしてこんなところで働いてるんですか?」

彼は、グラスを傾けながら、執拗に尋ねた。


「新しい体験がしたくて。ただそれだけです」

彼女は、彼の手を優しく、しかし確実に、自分の膝からどかした。その動作には、非人級の武者ならではの、見えない威圧感が込められていた。


それでも、客たちの視線は日増しに熱を帯びていった。一週間が過ぎるころには、彼女のテーブルは予約で埋まり、マネージャーは上機嫌で、彼女にボーナスを約束した。


「厳さん、あなたはうちの看板娘ですよ」

彼は満面の笑みで言った。

「お客様からの評判も上々で、中には、もっと…親密なお付き合いを希望される方もいらっしゃいますが、そのあたりはどうされますか?」


厳喆珂は、一瞬、逡巡した。「親密な関係」――それは、彼女がまだ踏み込んでいない領域だった。夫である楼成との関係を裏切ることへの罪悪感。しかし同時に、彼女の心の奥底では、もっと深いところでの体験への渇望が、静かに燃え上がっていた。


「まだ、考えさせてください」

彼女はそう答えながらも、その言葉に、自分自身がどれだけ本気で拒否しているのか、確信が持てなかった。


十日目の夜、クラブに一人の男が現れた。彼は他の客とは明らかに異なる雰囲気をまとっていた。年の頃は四十代半ば。スーツは仕立てが良く、手にした腕時計は、この店のどの客のものよりも高価に見えた。そして何より、彼の目つきが違った。彼は厳喆珂を見た瞬間、他の男たちのように下品な値踏みをするのではなく、まるで、何かを知っているかのような、深い洞察を込めた目で、彼女を静かに見つめたのだ。


「厳さん、あちらのお客様が、あなたを指名されています」

マネージャーが、緊張した面持ちで彼女に伝えた。

「特別なお客様です。東山グループの会長、王様とお呼びしています。この業界ではかなりの影響力を持つ方でして…」


厳喆珂は、その男のテーブルに向かった。彼は彼女が近づくのを待って、ゆっくりと立ち上がり、深々と一礼した。


「初めまして、厳さん。私は王と申します。あなたの噂はかねがね耳にしておりました」

その声は低く、落ち着いていて、不思議な魅力があった。


「ご光栄です、王様」

彼女も礼を返した。


彼との会話は、これまでの客とはまったく異なるものだった。彼は彼女の武術の背景について尋ね、武道の哲学について語り、そして、彼女がこの世界に足を踏み入れた本当の理由について、鋭く問いかけた。


「あなたは、退屈している」

彼は、断言するように言った。

「夫という檻に閉じ込められて、本当の自分を生きていない。だから、ここで何かを探している。そうでしょう?」


厳喆珂は、言葉を失った。彼の指摘は、まさに彼女の心の奥底を突いていたからだ。


「私は、あなたに提案があります」

王は、内ポケットから一枚の名刺を取り出した。表面には、彼の名前と連絡先だけが、シンプルに記されていた。

「私が経営する、もう一つのクラブがあります。そこでは、一般のクラブでは味わえない、特別な体験ができます。あなたのような女性にこそ、ふさわしい場所です」


彼の目は、彼女の反応をじっと見守っている。


「どんな…体験ですか?」

厳喆珂は、自分でも驚くほど、かすれた声で尋ねた。


「それは、行ってからのお楽しみです」

王は、微笑んだ。その笑みには、底知れぬ深みがあった。

「ただし、あなたの全てをかける覚悟が必要です。普通の女性には耐えられない世界ですから」


厳喆珂は、その名刺を手に取った。指先に伝わる、滑らかな紙の感触。その一枚の紙切れが、彼女の運命を大きく変えるきっかけになることを、彼女はまだ知らなかった。


その夜、自宅に戻った彼女は、一人リビングのソファに座り、名刺をじっと見つめていた。窓の外では、街の灯りが瞬いている。楼成は、今日も修行に没頭しているはずだ。彼のことを思うと、胸が締め付けられるような痛みが走る。しかし同時に、彼女の心は、未知の世界への期待と興奮で、激しく高鳴っていた。


「私は…」

彼女は、名刺を指でなぞりながら、呟いた。

「私は、どこへ向かおうとしているんだろう」


答えは出ない。ただ、彼女の指が、スマートフォンの画面を点灯させ、名刺に記された番号を、ゆっくりと打ち込んでいた。


第9章

第9章


厳喆珂は高級クラブ「夜芙蓉」の重厚な扉を押し開けた。店内は薄暗い照明が柔らかく照らし、落ち着いたジャズが流れている。彼女の清楚な容貌に、黒のドレスがよく映えていた。今夜は特別な仕事——上客の接待役として指名されたのだ。


「厳さん、お待ちしておりました。本日のお客様は特別なお方です。くれぐれも粗相のないように」


マネージャーの中年女性が低い声で注意を促す。喆珂は微笑みを浮かべ、頷いた。武道の修行で鍛えた洞察力で、周囲の空気を読み取る。


個室に通されると、そこには年の頃四十前後の男が一人、ソファに深く座っていた。スーツは高級品で、指にはめられた指輪も一級品だ。彼は喆珂を見ると、目を輝かせた。


「おや、噂に違わぬ美人だね」


「お褒めにあずかり光栄です。本日はよろしくお願いいたします」


喆珂は優雅に一礼し、向かいの席に着いた。彼女の心は冷静だった。夫・楼成は修行に籠もり、自らは新たな生活体験を求めている。この仕事もその一環だ。


男——陳と名乗った——はすぐに酒を勧めてきた。喆珂は杯を受け取り、軽く口をつける。アルコールの匂いが鼻腔をくすぐるが、彼女の体は武者修行で強化されている。酔うことはない。


「厳さんは、こういう仕事は初めてだと聞いたが?」


「ええ、まだ不慣れなもので……ご迷惑をおかけするかもしれません」


「いやいや、初心な方がいい。俺はそういう女性に弱いんだ」


陳の目つきが変わる。彼は徐々に距離を詰め始めた。喆珂は内心で警戒しつつも、表面上は穏やかな態度を崩さない。これも一つの体験——様々な人間と向き合う訓練だ。


「しかし、君のような美人がなぜこんな仕事を? 結婚していると聞いたが」


「夫が修行で長期間家を空けておりまして……何か新しいことをしてみたくて」


「なるほど。旦那さんは寂しい思いをさせているね」


陳の手がテーブルを越えて伸びてきた。彼の指が喆珂の手首に触れる。途端、彼女の体内の丹気が瞬時に反応した。武道で練り上げた非人級の身体能力——反射的に相手を弾き飛ばしそうになるのを、必死で抑える。


「お客様、お手を引いていただけますか?」


喆珂の声には冷たさが混じっていた。しかし陳は気づかない。彼はにやりと笑い、さらに強引に迫ろうとした。


「そんな堅いこと言わなくていいじゃないか。特別に上乗せするから——」


彼の言葉は途中で止まった。喆珂が静かに立ち上がり、彼の手首を逆手に取ったのだ。その力は強くない。しかし、武道の理合に則った動きは、相手の関節を極めていた。


「おっと——」


陳が驚きの声を上げる。喆珂はすぐに手を離し、淑女の微笑みを浮かべた。


「申し訳ございません。反射的に動いてしまいました。武道の癖でして」


「武、武道? まさか君は武術家なのか?」


「かじった程度です。ただ、噛みつかれたときの反撃くらいはできます」


喆珂の言葉に、陳の顔色が変わった。彼はごくりと唾を飲み込み、距離を取った。


「……どうやら俺は、君を甘く見ていたようだ。すまなかった」


「いいえ、こちらこそ無礼をいたしました。この場でお詫びいたします。どうか、引き続きお相手をさせてください」


陳はしばらく考え込んでいたが、やがて笑い出した。


「面白い。こんな美女で武道の達人とはな。旦那さんはさぞかし強いんだろうな」


「はい、夫は当代の武聖です。私はただその影に隠れる小さな花に過ぎません」


「武聖の妻が、こんな場所で働いているとは……世の中、わからんものだ」


陳はその後、大人しくなった。ただ酒を楽しみ、話を楽しむだけの客となった。喆珂も本調子を取り戻し、軽妙なトークで場を和ませた。時折、武道の話題になると、彼女は当たり障りのない範囲で語った——夫の修行の話、自分自身の鍛錬の日々。


閉店時間になり、陳は満足げに店を後にした。出口で、彼は振り返って言った。


「厳さん、今夜は面白かった。また機会があれば、君に指名を入れたい」


「ありがとうございます。そのときはまたよろしくお願いいたします」


喆珂は深々とお辞儀をした。陳の車が走り去るのを見送りながら、彼女はほっと息をついた。


帰りのタクシーの中、窓の外の夜景が流れていく。彼女は今日の体験を反芻した。初めての高級クラブでの接待——確かに刺激的だったが、夫への罪悪感もちらりと頭をよぎる。


「楼成……貴方は修行に集中しているけど、私は……」


呟きは闇に溶けた。しかし、彼女の目は曇りなく澄んでいた。これは自分の選んだ道——まだまだ体験すべきことは山ほどある。武術で鍛えた胆力で、どんな困難も乗り越えてみせる。


家に帰り、ひとり静かな部屋で、彼女は明日の予定を確認した。また新しい仕事が入っている。今日とはまた違う種類の——。


「さて、明日はどんな出会いがあるのかしら」


喆珂は優雅に微笑み、武道の呼吸法で心を整えた。この経験が、いつか夫との対話に役立つかもしれない——そんな淡い期待を胸に、彼女は静かに夜を過ごした。


第10章

第10章


その夜、厳喆珂はいつものように高級クラブ『蝶影』に顔を出した。彼女はもうすっかりこの場所に慣れていた。自分の美貌と、武者として鍛えたしなやかな体躯を活かし、客の心を巧みに掴む術も身につけていた。今日もまた、ある大口の常連客が彼女を指名している。四十代半ばの実業家で、いつも高級スーツを着こなし、品のある笑みを浮かべている男だ。


「お嬢さん、今日も美しいね」と男はソファに深く腰掛け、手にしたウイスキーグラスを揺らしながら言った。


「お褒めにあずかり光栄です」喆珂は優雅に一礼し、向かいの席に座った。彼女の一挙一動には、武道の訓練で培われた無駄のない気品が漂っていた。胸元は控えめに開いたドレスが、清楚な顔立ちと相反するような艶やかさを醸し出している。


会話は他愛のないものだった。男は自身の事業の話や、最近手に入れた骨董品の自慢話を楽しそうに語る。喆珂は相槌を打ち、適度に笑みを浮かべながら、心の内では全く別のことを考えていた。


——楼成は今頃、どうしているだろう。籠もり修行は順調だろうか。


彼女の心は常に夫である楼成に向いていた。武聖の称号を得た天才武者であり、彼女の最愛の人。しかし新婚旅行から戻った後、楼成は妻の勧めもあって、さらに高みを目指すために深山での籠もり修行に入ったのだ。あれからもう三ヶ月が過ぎた。連絡は週に一度の手紙だけ。彼は今も無事だろうか。修行に励みすぎて身体を壊していないだろうか。


「——お嬢さん?どうかしたか?」男の声が喆珂の意識を現実に引き戻した。


「あ、すみません。少し…上の空でした」彼女は慌てて笑顔を作った。


男はグラスをテーブルに置き、じっと喆珂を見つめた。「君はいつもどこか遠くを見ているな。俺の話がつまらないのか?」


「そんなことはありません。ただ、今日は少し疲れていたもので」


男はふと真剣な表情になった。「俺はな、君のその儚げな雰囲気が好きなんだ。他の女たちのようにベタベタせず、かといって冷たくもない。まるで…手の届かない高嶺の花というか。」


喆珂は小さく息を呑んだ。高嶺の花——まさに彼女の立場そのものだった。武聖の妻でありながら、娼婦として夜な夜な見知らぬ男たちと酒を酌み交わす。もしこの事実が公になれば、楼成の名誉は地に落ち、武聖の称号も危うくなるだろう。彼女は自分が何をしているのか、よくわかっていた。だがどうしても、この禁断の生活から足を洗えなかった。


「お褒めいただき光栄です」喆珂は再び優雅に微笑んだ。「しかし私はただの一介の女に過ぎません。あなた様のような素晴らしい方のお相手など、おこがましい限りです。」


男は愉快そうに笑った。「その謙虚さも美点だな。よし、今日はもう遅い。そろそろ帰るとするか。また来週も君を指名する。」


「ありがとうございます。お気をつけてお帰りください。」


男が立ち上がると、喆珂も立ち上がり、深々とお辞儀をした。その瞬間、ドレスの裾が揺れ、彼女の脚の付け根にある小さな刺青が一瞬だけ見えた——それは楼成と結婚した時に二人で彫った、夫婦の絆の証だった。彼女は慌てて裾を整え、男に見られていないことを確認して安堵の息をついた。


店を出た後、喆珂はタクシーを拾い、自宅マンションへと向かった。車窓から見える夜の街並みはきらめくネオンに彩られ、華やかでありながら虚ろな美しさを放っている。彼女はふと、自分が今歩んでいるこの道の行く末を考えた。


——いつまで続けられるのだろう。楼成が修行から戻ってくる前に、きちんと終わらせなければ。


そう思うたびに胸が締め付けられる。楼成を裏切っているという罪悪感。しかし同時に、この刺激的な生活から得られる自由と興奮もまた、彼女の心を捉えて離さなかった。武術修行に明け暮れた日々では味わえない、生々しい人間関係の面白さ。そして何より、誰にも知られない秘密を抱えているという背徳感が、彼女の退屈な日常に鮮やかな彩りを添えていた。


マンションのエントランスに着き、エレベーターに乗り込む。自宅の扉を開けると、冷たい空気が出迎えた。玄関には楼成のスリッパがそのまま置いてあり、彼がいつでも帰ってくるかのように整然と並んでいる。喆珂はスリッパを一瞥し、軽く唇を噛んだ。


「楼成…ごめんね。でも、あと少しだけ。もう少しだけ、この自由を味わわせてほしい。」


誰に言うでもなく、彼女はそう呟いた。その声は静かな部屋に吸い込まれ、返事はなかった。


翌朝、目を覚ますと窓の外はしとしとと雨が降っていた。喆珂はバスローブに袖を通し、ベランダに出た。冷たい雨粒が肌を濡らす。彼女は目を閉じ、雨の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。武者としての感覚が、体の芯まで研ぎ澄まされていくのを感じる。


——今日は店を休もう。久しぶりに武術の稽古でもしようか。


そう決めて、彼女は室内用のトレーニングウェアに着替えた。リビングの一角には、楼成が設置していった木人形やダンベルがそのまま残っている。彼女は深く息を吸い込み、基本の套路(とうろ)を一連流し始めた。


体を動かすうちに、気持ちが徐々に落ち着いていく。武者としての自分を取り戻す感覚。しかし套路を終えて額の汗を拭った時、ふと昨夜の男の言葉が頭をよぎった。


——「君はいつもどこか遠くを見ているな。」


その言葉が、喆珂の心に突き刺さる。彼女は鏡の前に立ち、自分の顔を見つめた。清楚なのにどこか艶めいた表情。結婚前の純真な娘の面影は、もうそこにはなかった。


「私は…変わってしまったのかな。」


答えは出ない。ただ、雨音だけが部屋に満ちていた。


第11章

# 第11章


厳喆珂は窓辺に立ち、遠くの山々を眺めていた。秋の日差しが障子を通して柔らかく差し込み、畳の上に淡い光の模様を描いている。彼女の指先は無意識に窓枠をなぞり、その木目の感触を確かめていた。


楼成が籠もり修行に入ってから、もう三ヶ月が経とうとしている。彼からの手紙は週に一度、決まった曜日に届く。いつも同じような内容だ——修行の進捗、食事のこと、そして彼女への想い。最後には必ず「珂珂、元気でいてくれ」と書かれている。


その手紙を読むたびに、喆珂の胸は温かくなる。だが同時に、何かが足りないという空虚感も広がっていく。彼女は武道の妻として、夫の決意を尊重している。しかし、自分自身の時間を持て余すようになっていた。


「お嬢様、今日の午後はいかがなさいますか?」


背後から声がした。振り返ると、年配の女中が立っている。彼女は優しく微笑み、トレイに乗せたお茶をテーブルに置いた。


「そうね…少し街へ出てみようと思う」


喆珂はそう言って、そっと着物の袖を整えた。彼女は今日、ある決意を胸に秘めていた。それは誰にも言えない、自分だけの秘密だった。


街へ出ると、秋の風が頬を撫でる。喆珂は繁華街を歩きながら、様々な店や人々を観察した。彼女はかつて武道の訓練に明け暮れていた頃を思い出す。あの頃は、こうして街を散策する時間さえも貴重だった。今は自由すぎるほど時間があるというのに、なぜか心は満たされない。


ふと、ある店の前に足を止めた。それは高級クラブだった。夕方の準備を始めているのか、店の前に立つホステスたちが忙しそうに動いている。喆珂はその店の看板を見上げ、心臓が高鳴るのを感じた。


「ここで働いてみたい…」


彼女は自分でも驚くほどの確信を持ってそう呟いた。武道の世界と全く異なる世界。そこで自分がどう変わるのか、試してみたかった。


喆珂は意を決して、店の裏口へと足を向けた。そこには「従業員募集中」の貼り紙があった。彼女は深呼吸し、ノックをした。


「はい、どなたですか?」


中から中年の女性が顔を出した。彼女は喆珂を見て一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに営業スマイルに変わる。


「あの、こちらで働かせていただけませんか?」


喆珂の言葉に、女性は目を丸くした。彼女は喆珂の清楚な姿と気品のある雰囲気に圧倒されたようだった。


「まあ…あなたのような方が、どうしてこのような場所を?」


「色々な体験をしてみたいんです。新しい世界を知りたくて」


喆珂は真っ直ぐに女性の目を見つめて言った。その瞳には迷いがなかった。女性はしばらく考え込んだ後、口を開いた。


「ここで働くっていうことは、男性のお客様をお相手することになるのよ。あなた、本当に大丈夫?」


「覚悟はできています」


喆珂の返事は簡潔だった。彼女は武道で鍛えた精神力を、こうした状況でも発揮していた。


女性はため息をつき、諦めたように笑った。


「わかったわ。じゃあ、今日から試用期間ってことで。ただし最初は、私の見ている前でお客様と話すだけよ。それ以上はさせないから」


「ありがとうございます」


喆珂は静かに頭を下げた。彼女の心は期待と緊張でいっぱいだった。これから始まる新しい生活が、自分をどう変えるのか。そして、それが夫との関係にどんな影響を与えるのか。その問いに対する答えは、まだ誰も知らなかった。


第12章

# 第12章


その夜、厳喆珂は一人で高級クラブの個室に座っていた。深紅のベルベットのソファは柔らかく、彼女の身体を包み込むように沈み込む。薄暗い照明の下で、水晶のグラスに入ったシャンパンが琥珀色に輝いている。


彼女は今日ここに来た理由を、もう一度自分に問いかけた。楼成は修行に没頭している。彼の武道への情熱は尊敬に値する。しかし、夫が閉じこもってから数ヶ月、彼女の日常は驚くほど静かで、退屈だった。


「お待たせしました」


ドアが開き、一人の男性が入ってきた。推定四十代後半、端正な顔立ちに、ビジネススーツを着こなす落ち着いた風格がある。彼の目は知的で、少し遊び心のある光を宿していた。


「初めまして、厳さん。私は佐藤と申します」


「厳喆珂です。お会いできて光栄です」


彼女は立ち上がり、優雅にお辞儀をした。清楚な白いブラウスに、落ち着いたグレーのスカート。一見すると地味だが、その仕草には武道で鍛えられたしなやかさと、気品が漂っている。


佐藤は彼女の向かいのソファに腰を下ろした。ウェイターが彼の飲み物を運んでくる。しばらく、二人は他愛のない会話を交わした。仕事の話、趣味の話、最近読んだ本の話。


「厳さんは、とても聡明な方ですね」佐藤が微笑んだ。「話していてとても楽しい」


「ありがとうございます。佐藤さんも、とても話しやすい方です」


彼女はグラスを手に取り、一口含んだ。冷たい液体が喉を通る感覚が、少し緊張を和らげてくれた。


「旦那様は、お仕事がお忙しいのですか?」


突然の質問に、彼女の心臓が一瞬止まった。しかし、彼女はすぐに平静を装った。


「ええ……修行が忙しくて」


「武道家なんですか?」


「そうです」


彼女はうつむいた。嘘は言っていない。ただ、すべてを話しているわけではないだけだ。


佐藤は何かを感じ取ったのか、それ以上追求しなかった。代わりに、彼は優しく手を伸ばし、彼女の指先に触れた。


「厳さん。あなたはとても美しい。そして、どこか寂しげだ」


彼の言葉が、彼女の胸の奥に響いた。確かに、彼女は寂しかった。楼成の愛情に疑いはない。しかし、夫は今、彼女ではなく武道を選んでいる。その事実が、小さな棘のように心に刺さっていた。


「佐藤さん……私、今日は……」


「無理にとは言いません」彼は優しく微笑んだ。「ただ、あなたと一緒に時間を過ごせただけで、私は満足です」


その言葉に、彼女の警戒心が少し解けた。彼は他の客とは違う。下心だけで近づいてきたわけではない。本当に、彼女という人間に興味を持っているのだ。


夜は更けていく。会話は紆余曲折を経て、深いものになっていった。彼の人生観、彼女の武道への情熱。二人の間に、奇妙な親密さが生まれていた。


「もう遅いですね」佐藤が時計を見た。「そろそろお送りしましょう」


「いいえ、大丈夫です。一人で帰れます」


しかし、彼は譲らなかった。結局、彼女は彼の車に乗せられ、自宅の近くまで送ってもらうことになった。


車の中は静かだった。窓の外を流れる街明かりが、彼女の横顔を照らす。


「またお会いできますか?」


彼の問いに、彼女は一瞬ためらった。しかし、その後に続く言葉が、口からこぼれ落ちた。


「ええ……また」


その夜、家に帰った彼女は、楼成の修行部屋のドアの前に立った。中からは、かすかに気の流れが感じられる。彼は今日も、全身全霊で武道に打ち込んでいる。


「ごめんね、楼成。でも……私は、私の人生も生きてみたい」


彼女は囁き、自分の部屋へと戻っていった。


ベッドに横たわりながら、彼女は佐藤のことを考えていた。彼の優しい眼差し、知的な会話、そして触れた手の温もり。それは、楼成とは違う、成熟した男の魅力だった。


心の奥で、罪悪感と期待がせめぎ合う。しかし、彼女はもう止まれなかった。この新しい体験のスリルが、彼女の退屈な日常に色を添えていたのだ。


次の日の朝、スマートフォンに一通のメッセージが届いた。


「昨夜は楽しかったです。もしよろしければ、今週末、またお会いできませんか? 素敵なレストランを知っています。——佐藤」


彼女の指が、画面の上で一瞬ためらった。そして、ゆっくりと返信を打ち始めた。


「喜んで」


送信ボタンを押すとき、彼女の唇には、少し危険な微笑みが浮かんでいた。


章 13

夕方の柔らかな日差しが、窓辺に差し込む。


厳喆珂は一人、自室の椅子に腰かけていた。今日の予定は全て終えていた。彼女は自分の髪を梳かしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


夫の楼成は、修行のための籠もりを続けている。彼は武聖の称号を守り、さらに高みを目指すため、ほとんど部屋に閉じこもっている。会話は数日に一度、短い伝言だけだ。


「喆珂、今日も元気か?」


数日前に届いた彼の声を思い出す。声だけで、姿は見えない。それでも、彼が必死に修行していることは分かっていた。


厳喆珂は小さくため息をついた。


「ああ……また同じ一日か」


彼女は立ち上がると、軽やかな足取りで書斎へ向かった。机の上には、楼成が残した武術の書物が積まれている。彼が修行に励む一方で、自分には自由な時間が有り余っている。


「何か新しいことをやってみたい……」


その考えは、このところずっと頭の中を巡っていた。楼成に話すと、彼は驚くだろうか。いや、きっと心配するだろう。でも、自分はただ、新しい経験をしてみたいだけだ。


彼女は再び窓辺に戻り、街の喧騒を耳にした。遠くから車の音や人々の話し声が聞こえる。あの世界に飛び込んでみたい。見知らぬ場所で、知らない誰かと話す。そんなことが、今は強く心を引いた。


翌日、厳喆珂は思い切って、街の中心部へと足を運んだ。楼成には「買い物に行く」とだけ伝えてあった。彼は気にせず、うなずいただけだった。


街は活気に満ちていた。色とりどりの看板が並び、様々な人が行き交う。彼女はその流れに身を任せながら、ふとある店の前で立ち止まった。


二階建ての建物。窓からは淡い灯りが漏れている。看板には「迎賓館」と書かれていた。どこか趣のある佇まいだ。


彼女はしばらく迷ったが、やがて意を決して扉を押した。


中に入ると、落ち着いた音楽が流れている。カウンターに中年の女性が立っていた。彼女は厳喆珂を見て、にっこりと微笑んだ。


「いらっしゃいませ。お一人ですか?」


「はい……初めてです」


厳喆珂は少し緊張した声で答えた。女性はうなずき、優しく案内した。


「こちらへどうぞ。何かお探しですか?」


「ええ、新しい経験をしたいんです。何か……何でも」


女性は目を細め、何かを考えるようにしてから言った。


「でしたら、ちょっと変わったアルバイトはいかがですか?当館では、様々な方をお迎えしております。お話し相手から、もっと深いお付き合いまで。あなたのような清楚で美しい方なら、すぐに人気が出ますよ」


厳喆珂の心臓が大きく鼓動した。何かが、自分の内側で弾けるような感覚だった。


「詳しく聞かせてください」


その夜、彼女は家に戻った。楼成からの伝言が一つ届いていた。


「喆珂、今日の修行は順調だ。お前も元気でいてくれ」


彼は何も知らない。彼の字を見ながら、厳喆珂の胸が少し痛んだ。しかし、その痛みを打ち消すように、彼女は新しい世界への期待を強く抱いた。


翌週、厳喆珂は初めての仕事を迎えた。迎賓館の個室に通され、そこにいたのは、穏やかな微笑みを浮かべた見知らぬ男性だった。


「初めまして。今日はよろしくお願いします」


彼の声は低く、落ち着いていた。厳喆珂は緊張しながらも、笑顔を返した。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


会話はゆっくりと始まった。彼の仕事や趣味、好きな本のこと。それは普通の会話だったのに、彼女にとってはすべてが新鮮だった。夫である楼成以外の男性と、こんな風に時間を共有すること自体が、未知の世界への扉を開くようだった。


一時間後、仕事は終わった。彼は代金を支払い、丁寧に頭を下げて去っていった。厳喆珂は一人、部屋に残され、自分の心臓の鼓動を感じていた。


「これでいいんだ……何か新しいことを」


彼女の顔には、ほのかな赤みが差していた。そして、その頬は少し火照っていた。


翌日、彼女はまた迎賓館へ向かった。今度は、もっと自信に満ちた足取りで。カウンターの女性は、相変わらず優しく迎えた。


「またいらっしゃいましたね。今日もお仕事、いかがですか?」


「はい、ぜひ」


彼女は、二度目の客を待った。その客は、初めての客とは違うタイプだった。若くて細身の男性で、どこか寂しげな目をしていた。


「お会いできて嬉しいです」


彼の言葉に、厳喆珂は心が揺れた。夫である楼成は武術に没頭している。彼のように、誰かとただおしゃべりをしたいという寂しさを、自分もどこかで感じているのかもしれない。


その夜、家に戻ると、楼成からの短いメッセージが机に置かれていた。


「修行は順調。すぐにでも会いたいが、もう少しだけ我慢してくれ」


厳喆珂はその紙を手に取り、数秒見つめた後、丁寧に折りたたんで引き出しにしまった。


「うん、分かってるよ……」


彼女は小さくつぶやき、そして明日の予定を頭に描いた。新しい客との約束が、すでに入っていた。


章 14

# 章 14


厳喆珂は窓辺に立ち、街の灯りを見下ろしていた。夜風がカーテンを揺らし、彼女の長い髪をそっと撫でる。


「まだ起きてたのか?」


背後から楼成の声がした。振り返ると、彼は修行着のまま、ほのかに汗の香りを漂わせている。


「うん。あなたの修行が終わるのを待ってたの」


喆珂は微笑んだ。結婚してから半年、楼成はほぼ毎日、深夜まで武道の鍛錬に没頭している。武聖の称号を守り、さらに高みを目指すために。


「明日から、また長期間の籠もり修行に入るんだろ?」


「ああ。今回は特に重要な段階だ。外罡級の極致を極め、禁忌級の扉を開くための」


楼成の目は真剣そのものだった。彼は若くして武聖の座に就いた天才だが、それゆえの責任とプレッシャーも大きい。


喆珂は彼の胸に寄り添った。鍛え上げられた胸板は硬く、温かい。


「わかってる。安心して修行に専念して」


「すまないな、喆珂。新婚なのに、お前を独りきりにして」


「何言ってるの。私は楼成の妻よ。あなたが目指す道を支えるのが、私の役目」


喆珂は優しく彼の頬に手を当てた。その手を楼成が握りしめる。


「ありがとう。でも…お前も何か趣味を見つけたらどうだ? 俺がいない間、時間を持て余すだろう」


その言葉に、喆珂の心臓がひとつ跳ねた。彼女は自然な表情を保ちながら、そっと楼成から離れた。


「実はね、考えてるの。いろんな職業を体験してみたいって」


「職業体験?」


「うん。私はずっと武道に専念してきたから、それ以外の世界を知らない。武者としての経験しかないの。だから、いろんな仕事をしてみたい」


楼成は少し驚いた様子だったが、すぐに優しい笑顔を見せた。


「なるほどな。それもいいかもしれない。お前は昔から好奇心旺盛だったからな」


「許可してくれる?」


「許可するも何も、お前の自由だ。ただ…危ないことはするなよ」


「もちろん。私は賢い妻だから」


喆珂はいたずらっぽくウインクした。楼成は笑いながら彼女の頭を撫でる。


翌朝、楼成は修行のため山籠もりに出発した。玄関で見送る喆珂の頬に、彼は軽くキスを落とした。


「行ってくる。身体に気をつけろよ」


「うん。あなたこそ、無理しないでね」


楼成の背中が遠ざかっていく。彼が角を曲がって見えなくなると、喆珂は深く息を吐いた。


「さて…」


彼女は寝室に戻り、机の引き出しから一枚の名刺を取り出した。それは先週、街で偶然手に入れたものだ。深夜のクラブで働く女性たちが集まる場所の連絡先が書かれている。


喆珂はその名刺をしばらく見つめてから、ハンドバッグにしまった。


「嘘をつくのは気分が良くないわね…でも、これは必要なこと」


彼女は鏡の前に立った。清楚で垢抜けた顔立ち、均整のとれた長身。武術で鍛えた身体は、無駄な肉が一切ない。


「武者としても、妻としても、私は完璧でいなければならない。でも…その“完璧”の向こう側を知りたい」


喆珂はポニーテールをほどき、髪を少しふんわりとセットし直した。普段はあまり着けない口紅を塗り、服も露出の多いものに着替える。


「大丈夫。誰にもバレない。ただの“体験”だもの」


彼女は自分にそう言い聞かせながら、アパートを後にした。


向かう先は、都心の一角にある高級クラブ。表向きは会員制のバーだが、裏では様々な取引が行われているという。


喆珂がその場所に足を踏み入れたのは、午後九時を過ぎた頃だった。


章 15

喆珂は、高級クラブの重厚な扉をくぐった。シルクのドレスが柔らかな照明に映え、彼女のしなやかな肢体を際立たせる。武道で鍛えた体は無駄がなく、歩くたびに優雅な曲線を描く。


「いらっしゃいませ、お嬢様。本日はお初にお目にかかります。私は支配人の織江と申します。」


白髪をきっちりとまとめた女性が、品の良い微笑みを浮かべて頭を下げた。彼女の目は、客の値踏みをするような鋭さと、経験に裏打ちされた温かみを併せ持っていた。


「厳と申します。今日からこちらでお世話になります。」


喆珂もまた、礼儀正しく一礼する。彼女の胸の内は好奇心と緊張で満ちていた。楼成が籠もり修行に入って三ヶ月。退屈に耐えかねて応募したこの仕事は、彼女にとって未知の領域だった。


「では、早速ですが、お仕事の流れをご説明いたしますね。こちらはお客様とのお部屋——いわゆる個室です。ここでお酒をお出しし、会話をお楽しみいただくのが主な役割。決して無理強いされることはございません。もし困ったことがあれば、すぐに私かスタッフを呼んでください。」


織江は、薄暗い照明の落ち着いた個室を案内しながら、淡々と説明した。壁には高級そうな絵画が掛けられ、ソファはふかふかと柔らかい。喆珂はその空間をぐるりと見渡し、武道場とはまったく異なる空気を肌で感じた。


「わかりました。でももし、お客様が手を出そうとしてきたら——」


「その場合は、お止めください。当店では、お嬢様方の尊厳を何より大切にしておりますので。」


喆珂はほっとした。しかし同時に、もし本当に危険な場面になったら、自分の「非人級」の技で一蹴することもできる。そんなことを考えて、密かに笑みが漏れた。


午後八時を過ぎると、クラブは徐々に活気づいてきた。喆珂は初めての客を迎える。スーツ姿の中年男性で、太った体に金の時計が似合わない。彼は喆珂の美貌に目を輝かせたが、彼女の凛とした態度に少し気圧されたようだった。


「お名前をお聞かせいただけますか?」


喆珂が微笑みながら問いかけると、男は「佐藤です。佐藤健一」と名乗った。酒のグラスを傾けながら、彼は自分の仕事の愚痴や家族の話を延々と語り始めた。喆珂は相槌を打ち、時折軽く笑いながら、彼の話に耳を傾ける。


(案外、こういうのも悪くないな。人が何を求めているのか、よくわかる。)


喆珂は心の中でそう思った。武道の修行では、相手の動きを読むことが肝心だが、ここでは相手の心を読むことが求められる。その違いが新鮮だった。


その後も何組かの客を相手にし、喆珂は次第にこの仕事の面白さに引き込まれていった。彼女は自分の武道の経験を活かし、相手の緊張を和らげる話術を編み出していた。例えば、武道の話を巧みに交え、武術映画の話題で盛り上がることもあった。


夜が更ける頃、織江が控えめに近づいてきた。


「厳さん、今日は初日ということでこの辺にしましょう。お疲れ様でした。」


喆珂は軽くうなずき、控え室で着替えを始めた。鏡に映る自分の顔は、ほんの少し大人びて見えた。三日後には再びこのクラブに立ち、違う客を相手にする。その予定が、彼女の胸を躍らせた。


「楼成は今頃、修行に打ち込んでいるのかな。それもいいけど、私は私の道を歩もう。」


彼女はそう呟き、クラブの裏口から夜の街へと消えていった。月明かりが彼女のシルエットを優しく包み込む。彼女の冒険はまだ始まったばかりだった。


章 16

章16


その日、厳喆珂はいつものように優雅な身支度を整えていた。薄紅色の着物に銀色の帯を締め、髪を高い位置で結い上げる。鏡の中の自分は、かつて武術の鍛錬に明け暮れていた頃よりも、どこか色っぽく見えた。


「今日のお客様は、特別な方だそうですよ」


仲介人の言葉を思い出す。特別——その言葉に彼女の心臓が微かに跳ねた。これまで様々な客を相手にしてきたが、特別と言われると、やはり緊張する。


待合室に通されると、すでに一人の男性が座っていた。年は三十代半ばほどだろうか。整った顔立ちだが、目つきが異様に鋭い。彼が立ち上がると、部屋の空気が変わった。


「厳さん、お会いできて光栄です」


低く響く声。彼の身に纏う気配に、厳喆珂は直感的に悟った。この男は武者だ。それも——少なくとも丹気級以上。


「私もです。お名前を伺っても?」


「ただの通りすがりです。名乗るほどの者ではありません」


そう言いながら、彼の指先は無意識に剣の柄を撫でる仕草を見せた。それは長年の習慣からくるもので、彼が相当な実力者であることを物語っていた。


会話を交わしながら、厳喆珂は警戒を緩めなかった。この男の纏う空気は、夫の楼成とは全く異なる。危険な香りがした。


「厳さんは、どうしてこのような仕事を?」


突然の問いに、彼女は一瞬戸惑った。


「好奇心、とでも言いましょうか。様々な人生を体験してみたくて」


「ほう。では、武者としての人生は飽きたと?」


その言葉にはっとして、厳喆珂は男を凝視した。彼は微かに笑みを浮かべている。


「あなたも、楼成の妻だと知っていて来たのですか?」


「ええ。知っていて、なお会いたかった。噂通りの美しい方だ」


男の手が伸び、彼女の頬に触れようとする。厳喆珂は反射的に身を引いた。


「お引き取りください。今日の約束はなかったことに」


「なぜ? あなたは娼婦でしょう。金を払えば、誰の相手でもすると聞いていますが?」


「それは——」


言葉に詰まる。彼の言う通りだった。だが、この男には本能的な危険を感じる。


男はゆっくりと立ち上がり、一歩前に進んだ。


「私はあなたを所有したい。楼成という男から奪い取りたい。それが私の目的です」


その目に宿る執念に、厳喆珂は背筋が凍った。彼女はすばやく傍らの花瓶を掴み、男に向かって投げつけた。しかし、男はそれを難なく避ける。


「非人級のあなたが、丹気級の私に敵うと思っているのですか?」


そう言って、男は笑った。その笑い声が、部屋に不気味に響く。


「なぜ——なぜそこまで楼成に執着する?」


「彼は若くして武聖の称号を得た。私は長年修行を重ねても、外罡級にすら届かない。運命が不公平だと、思わないか?」


男の声には嫉妬と憎悪が混じっていた。


厳喆珂は必死に冷静さを保とうとした。彼女は非人級の武者だ。決して弱くはない。しかし、この男は丹気級。実力差は明らかだった。


「あなたの気持ちは理解できます。しかし、だからといって——」


「理解できるだと? お前に何がわかる!」


男が叫び、一気に間合いを詰めてきた。厳喆珂はとっさに体を捻り、攻撃をかわす。しかし、その勢いでテーブルにぶつかり、後ろに倒れそうになる。


その時、部屋のドアが勢いよく開いた。


「そこまでだ!」


現れたのは、楼成だった。彼は修行の合間に、妻の様子を見に来たのだ。厳喆珂は驚きと安堵で、思わず声が出なかった。


「楼成…」


「話は聞かせてもらった。私に恨みがあるなら、直接勝負しよう。妻を巻き込むのはやめろ」


楼成の眼差しは静かだが、その奥に燃える怒りが見えた。丹気級の男も、楼成の前では一瞬でその覇気を奪われる。


「お、覚悟しろ!」


そう叫んで、男は楼成に飛びかかった。しかし、次の瞬間には地面に倒れ伏していた。楼成の一撃が、彼の意識を奪ったのだ。


「大丈夫か、喆珂」


優しい声で問いかける楼成。厳喆珂は彼に抱きしめられて、初めて自分が震えていることに気づいた。


「ごめん、こんなことになるなんて…」


「いや、俺が気づくのが遅れた。この仕事はもう終わりにしよう」


その言葉に、厳喆珂は顔を上げて楼成を見た。彼の目には、心配と愛情が溢れていた。


「でも、私は——」


「君が様々な世界を見たい気持ちはわかる。でも、危険が伴うなら、別の方法を考えよう。一緒に旅をしよう。武術の修行の旅に、君を連れて行く」


厳喆珂は涙をこらえながら、深くうなずいた。この男のそばにいることこそが、自分の本当の居場所なのだと、改めて感じた。


その後、男は警察に引き渡され、厳喆珂の娼婦生活は幕を閉じた。彼女は楼成とともに新たな旅立ちを決意する。武術の頂点を目指す夫と、そして自分自身の新たな道を求めて——。


窓の外には夕焼けが広がっていた。厳喆珂は楼成の手を握りしめ、微笑んだ。


「今度は、二人で新しい世界を見に行こう」


その言葉に、楼成も優しく笑い返した。二人の影は、夕日に長く伸びて重なり合っていた。


章 17

夜の帳が下りた頃、厳喆珂は長い廊下を一人で歩いていた。武者修行のための道具をいくつか取りに来たのだが、その足は自然と楼成の修行場へと向かっていた。


修行場の扉は半開きになっていて、中からはかすかに気を巡らす音が漏れている。彼女はそっと隙間から覗き込んだ。楼成は静かに座禅を組んでおり、その全身からはありとあらゆる外気を断つような強い意志の波動が漂っていた。夫の武聖としての風格は、結婚してからも衰えるどころか、ますます増しているように感じられた。


「楼成、少し休んだほうがいいんじゃない?」

喆珂は声をかけた。だが、楼成の瞑想は深く、返事は返ってこない。彼の集中力を削ぐのは忍びなくて、彼女はそっと扉を閉めた。


「私は、もう少し違う世界を見てみたいの」

彼女は心の中でつぶやいた。武道の頂点を目指す夫を応援するのは間違いないが、同じ生活に飽きてしまったのも事実だった。そう思うたびに、胸の奥がちくりと痛む。


数日後、喆珂は思い切ってある決断をした。街の一角にある古びたビルの三階、そこに案内された場所は「花雨庵」という名の、いわゆる社交倶楽部のような場所だった。彼女は身分を隠し、偽名を使ってそこでの仕事を引き受けることにした。表向きは高級クラブだが、裏ではさまざまな取引が行われる場所だと噂されていた。


初日、彼女は清楚なワンピース姿でカウンターに立った。その姿は場違いに映るかもしれないが、彼女の持つ独特の気品は逆に目を引いた。常連の男たちが彼女に話しかけてくる。喆珂は巧みにはぐらかしながら、話を合わせていく。武道で培った観察眼は、相手の本心を見抜くのに役に立った。


「君はただものじゃないな。どこかで見たことがある気がする」

一人の上品な紳士が言った。喆珂は微笑みながら答えた。

「いえ、私はただの新入りです。よろしくお願いします。」

彼女の言葉は嘘ではなかった。彼女自身、今の自分が何者なのか、確信が持てないのだ。


夜が更けるにつれ、店の中はさらにざわめきを増した。喆珂は一人の客の相手を任された。その男は、武術界の有名人であることに気づいた。彼女の心臓が一瞬大きく跳ねる。もし正体がばれたら、楼成の名を汚すことになる。


「あなた、武道の話に詳しいんですか?」

男が何気なく尋ねた。

「少しだけ。本で読んだことがあるくらいです。」

喆珂はそう言って、話題を酒の話に変えた。男は納得したようにうなずいたが、彼女はその背後に何か深いものがあるのを感じ取った。


数週間が過ぎた。喆珂は花雨庵での仕事に次第に慣れていった。昼間は夫の修行を見守り、夜は別人のように働く。その二重生活は、彼女の心にずっしりとした罪悪感を残したが、同時に新鮮な刺激も与えていた。


ある日、店のオーナーが彼女を個室に呼び出した。中年の女将は、喆珂の目をまっすぐに見つめて言った。

「お前さん、ただ者じゃないね。でも、この商売は表に出せないことが多い。もし辛くなったら、いつでもやめていいんだよ。」

喆珂はかすかにうなずいた。自分が何をしているのか、もはやわからなくなりつつあった。


その夜、彼女は家に帰ると、楼成がちょうど修行を終えたところだった。夫は彼女の疲れた様子に気づいて、優しく肩を抱いた。

「最近、なんだか忙しそうだね。無理してないか?」

「ううん、大丈夫。ただ、ちょっと体がだるいだけ。」

喆珂は嘘をついた。夫の温かい手が彼女の肩に触れるたびに、胸が締め付けられる。


「俺も、もうすぐ禁忌級への突破を試みる。君にいい知らせが届くまで、もう少しだけ待っていてくれ。」

楼成の声には揺るぎない自信が満ちていた。喆珂はその言葉を聞いて、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。


「うん、待っているよ。」

彼女はそう言ったが、心の奥底で夫に言えない秘密が、重くのしかかっていた。


章 18

楼成が籠もり修行に入ってから、もう一ヶ月が経とうとしていた。厳喆珂は広い家に一人、暇を持て余す日々を送っていた。武道の鍛錬は彼女の日常だったが、それだけでは満たされない何かが、心の奥底で渦巻いている。


ある午後、彼女はふと街を彷徨いながら、小さな看板が目に入った。「人妻アルバイト募集――秘密厳守、高額報酬」。文字は控えめで、通りすがりの者だけが気づくようなさりげなさだった。厳喆珂の心臓が一瞬、跳ねた。結婚前の真面目な自分なら、そんなものに目もくれなかっただろう。しかし、楼成がいない孤独と、新しい刺激への渇望が、彼女の理性を曖昧にした。


彼女はその連絡先をスマホに控え、家に帰ってからもずっと考えていた。夫である楼成は武聖としての地位を守り、さらなる高みを目指して修行に没頭している。彼は妻の寂しさに気づく余裕すらない。厳喆珂は鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。清楚な顔立ちに、均整のとれた長身。胸は大きくはないが、武道で鍛えられた筋肉が美しい曲線を描いている。こんな自分が、他の男の前に立つのか――。その想像に、彼女の頬がほんのり赤らんだ。


二日後、彼女は思い切ってそのバイトに応募した。面接は高級ホテルのラウンジで行われた。担当者は中年の女性で、にこやかながらもプロフェッショナルな雰囲気を漂わせていた。


「厳様ですね。経歴を拝見しました。元武術家で、今はご主人が長期出張中と。条件はお聞きですか?」


「ええ……秘密厳守で、相手を選べると聞きましたが」


厳喆珂は少し緊張しながらも、落ち着いた声で答えた。女性は頷き、タブレットを差し出した。そこには数人の男性のプロフィールが並んでいる。年齢、職業、趣味、そして求める関係のタイプ。彼女は指でスクロールしながら、心の中で呟いた。ただの金銭取引ではない。これは自分自身の新たな実験だ。


一週間後、初めての依頼が来た。相手は四十代の経営者で、落ち着いた物腰の男だった。待ち合わせは都心の高層マンション。厳喆珂は薄手のワンピースを着込み、エレベーターに乗った。鏡に映る自分の表情は、不安と期待が入り混じっている。


部屋に入ると、男は丁寧に挨拶し、ワインを勧めた。会話は穏やかで、武道の話から趣味の旅行まで、自然に弾んだ。厳喆珂は思った。これなら、自分を保てる。しかし、彼の手が彼女の肩に触れた時、彼女の体は一瞬硬直した。それは楼成以外の男に触れられることへの躊躇いだった。だが、次の瞬間、彼女は自らその手を握り返した。新しい快楽への扉を、自らの意志で開けるために。


夜が更ける頃、厳喆珂はマンションを後にした。空には半月がかかり、彼女の長い影がアスファルトに伸びている。携帯には楼成からのメッセージがあった。「修行順調。お前は元気か?」という短い文。彼女は一瞬、罪悪感に胸を締め付けられたが、すぐにこう返信した。「こっちも順調よ。頑張ってね」。送信ボタンを押した後、彼女はそっと笑った。それは、今の自分だけが知る秘密の微笑みだった。


章 19

章 19


その日、厳喆珂はいつもより少し早く目を覚ました。窓の外からは春の柔らかな日差しが差し込み、カーテンの隙間から部屋の中に細長い光の帯を作っていた。彼女はゆっくりと体を起こし、隣で静かに眠る楼成の寝顔を一瞥した。彼は修行の疲れがたまっているのか、深い眠りに落ちている。


「今日は…あの店に行く約束の日だわ。」


彼女は心の中でそう呟き、そっとベッドを抜け出した。洗面所で顔を洗い、化粧台の前に座る。鏡に映る自分の顔は、結婚してから少し大人びたように見えた。以前はあどけなさの残っていた頬のラインが、少し引き締まった気がする。それは武道の鍛錬の成果でもあるが、彼女自身の選択の結果でもあった。


彼女は薄化粧を施し、シンプルなワンピースに着替えた。襟元は控えめに詰まっているが、腰のラインはきっちりと締まっている。鏡の前でくるりと一回転し、満足げに頷いた。


「行ってくるわね、楼成。買い物があるから。」


彼女は寝室のドアのところでそう声をかけたが、返事はなかった。楼成はまだ深い眠りの中だ。彼女は少し寂しさを覚えながらも、そのまま家を出た。


窓の外の風景が流れていく。街は朝の賑わいを見せ始めていたが、彼女の心はどこか落ち着かなかった。タクシーは彼女を都心の一角、高級住宅街と商業地区の境界にある一軒の古びた建物の前に停めた。外見はただの普通のビルだが、中に入ると様相は一変する。内装はシックで落ち着いた色調で統一され、間接照明が柔らかな光を放っていた。


「いらっしゃいませ、厳様。」


受付の女性がにこやかに迎える。彼女はもう何度かここを訪れているため、顔を覚えられていた。受付を通り過ぎ、奥の個室へと案内される。部屋の中はさらに豪華で、広々としたベッドと、アンティーク調の家具が置かれている。壁には大きな鏡が一枚掛けられており、部屋全体を見渡せるようになっている。


「今日は特別なお客様がお待ちです。どうぞ、ごゆっくり。」


女性はそう言って部屋を出て行った。厳喆珂はベッドの端に腰掛け、少し緊張した面持ちで時間を待つ。数分後、ドアがノックされ、一人の男性が入ってきた。彼は四十代半ば、品の良いスーツを着込み、穏やかな微笑みを浮かべている。目は知性を感じさせ、全体的な雰囲気はどこか学者のような落ち着きを持っていた。


「初めまして。あなたが厳さんですか。私は王と申します。」


男性はそう自己紹介し、彼女の前に立った。厳喆珂は立ち上がり、軽く会釈する。彼女の心臓は少し早鐘を打っていたが、表情には一切出さなかった。


「はい、厳喆珂です。よろしくお願いします。」


王と名乗る男性は彼女の隣に座り、ゆっくりとワイングラスを手に取った。彼はグラスを傾け、赤い液体を一口含んでから口を開いた。


「あなたのことは、知り合いから聞いていました。妻でありながら、こうした体験を求めていると。そのギャップに興味が湧いてね。」


「それは…まあ、そうですね。私の夫は武者で、修行に没頭しています。私は家で一人、退屈していたんです。それで、何か新しい刺激が欲しくなって。」


厳喆珂はそう答えながら、自分の言葉がどこか借り物のように感じられた。しかし、王は優しくうなずいた。


「分かります。人間は誰しも、自分が知らない世界に憧れるものです。そして、それを経験できる機会があるなら、逃す手はない。」


彼はそう言いながら、ゆっくりと彼女の手を取った。その手は暖かく、少し汗ばんでいた。厳喆珂はその感触に、なぜか安心感を覚えた。彼は無理に急かすことなく、ゆっくりと時間をかけて彼女の緊張を解いていく。


「今日は、ただゆっくりと話しましょう。何も急ぐ必要はありません。」


王の言葉に、厳喆珂はほっと息をついた。彼女はベッドにもたれかかり、彼の話を聞き始めた。彼は仕事の話、旅の話、そして人生観について、ゆったりとした口調で語った。それに耳を傾けるうちに、彼女の心は次第に軽くなっていった。


「そういえば、あなたは武道の経験があるそうですね。体の動きがとてもしなやかだ。」


王がふと言った。厳喆珂は少し驚いたが、すぐに笑顔で答えた。


「ええ、少しだけ。夫に教わったんです。」


「なるほど。それは素晴らしい。武道の心得がある女性は、また違った魅力がありますね。」


彼の手が、彼女の肩にそっと触れた。その手はゆっくりと背中へと滑り、ワンピースの布地越しに彼女の体温を確かめるように動く。厳喆珂は目を閉じ、その感触に身を任せた。彼の指は繊細で、まるで高級な楽器を奏でるかのように彼女の肌の上を這う。


「あなたの肌は、絹のように滑らかだ。」


王の声が、耳元でささやくように響く。彼女は首をわずかに傾け、彼の指の動きに合わせて呼吸を整えた。ワンピースの背中のファスナーが、徐々に下ろされていく。冷たい空気が背中に触れた瞬間、彼女は少し身震いした。


「寒いですか?」


「いいえ…大丈夫です。」


彼女の声は少し震えていたが、それは恐怖ではなく期待から来るものだった。彼の手がさらに下へと進み、彼女の腰のラインをなぞる。その動きはゆっくりと、しかし確実に彼女の感覚を研ぎ澄ませていく。


「そろそろ、もう少し進んでみませんか?」


王の言葉に、厳喆珂は静かにうなずいた。彼は彼女の体を優しくベッドに横たえ、自分の体をゆっくりと重ねた。彼の唇が彼女の首筋に触れ、軽く吸い付く。その刺激が彼女の全身に波紋のように広がった。


「んっ…」


思わず声が漏れる。彼女は自分からも彼の背中に手を回し、その広い肩を抱きしめた。彼は彼女の反応を確かめるように、時折動きを止めては、また次の場所へと唇を移す。


「あなたの体は、本当に美しい。まるで彫刻のように均整が取れている。」


王の言葉は、彼女の心に直接響いた。彼女は自分がただの娼婦ではなく、一人の美しい女性として扱われていることに、一種の甘美な感覚を覚えた。彼の手が彼女の胸のふくらみを包み込み、優しく揉みしだく。彼女の胸は大きくはないが、それだけに形がしっかりとしており、彼の手の中で柔らかく弾んだ。


「あっ…」


彼女の声は次第に熱を帯びていく。王は彼女の反応を楽しむかのように、巧みに手を動かし続けた。ワンピースはすでに腰のあたりまでたくし上げられ、彼女の白い太ももが露わになっている。彼の手がその太ももを撫で上げ、内ももへと進む。


「待って…」


厳喆珂は思わず彼の手を止めた。しかし、王は優しく笑いながら言った。


「大丈夫です。あなたのペースで進めましょう。」


彼は手を引っ込め、代わりに彼女の顔に優しくキスをした。その優しさに、彼女の警戒心は次第に解けていった。彼は彼女の手を取り、自分の胸の上に置く。


「あなたも、私に触れてみてください。」


彼の声は穏やかで、強制するものではなかった。厳喆珂はゆっくりと手を動かし、彼のスーツのジャケットをはだけさせ、シャツのボタンを一つずつ外していく。彼の胸は思ったよりも筋肉質で、鍛え上げられた体つきをしていた。彼女の指が彼の胸筋をなぞると、彼は軽く息を呑む。


「あなたの手の感触は、とても心地いい。」


彼の言葉に励まされ、彼女はさらに大胆に手を動かした。彼女の指は彼の腹筋を伝い、ベルトの上まで到達する。そこで彼女は一瞬ためらったが、王が軽くうなずいたのを見て、ベルトを外し始めた。


着ていた服がすべて取り払われた後、二人は裸の体を重ね合わせた。彼の体の熱が彼女の全身に伝わり、彼女の肌はうっすらと汗ばんでいた。彼の手が彼女の腰を支え、ゆっくりと彼女の体を引き寄せる。


「力を抜いて。大丈夫だから。」


王の声は低く、彼女の耳に直接語りかける。彼女は彼の胸に顔をうずめ、目を閉じた。彼の体の匂いは、楼成とは違う大人の男の匂いがした。それは少しスパイシーで、彼女の嗅覚を刺激した。


彼の手が彼女の背後に回り、臀部を優しく掴む。その手の圧力が、彼女に「今、この瞬間に全てを委ねてもいいんだ」という安心感を与えた。彼の体がゆっくりと動き始め、彼女の内部に熱い存在が侵入してくる。その感覚に、彼女は思わず背中を反らせた。


「ああ…」


彼女の口から漏れる吐息は、次第に荒くなっていく。王は彼女の反応を確かめながら、優しく、しかし確実に動き続けた。彼女の体は彼の動きに合わせて自然と揺れ、部屋の中には二人の息遣いだけが響いていた。


「気持ちいいですか?」


「はい…とても。」


彼女の声はかすれていたが、それは本当の気持ちだった。彼の動きはある一定のリズムを保ちながら、彼女の体の一番敏感な部分を刺激し続ける。彼女は無意識のうちに彼の背中に爪を立てていた。その痛みが、王にとってはむしろ快感だったようで、彼はさらに動きを激しくした。


「もう少し…あなたに感じてほしい。」


彼の声が耳元で響き、同時に彼の体が彼女の奥深くに届く。その瞬間、彼女の全身に電流のような快感が走り、彼女は大きな声を上げそうになった。しかし、彼は彼女の口に優しくキスをして、その声を飲み込んだ。


数分後、彼の体が一度大きく震え、その後ゆっくりと動きを止めた。彼は彼女の上に崩れ落ち、息を整えている。厳喆珂もまた、全身の力が抜けたようにベッドの上に横たわっていた。


「素晴らしかったですよ、厳さん。」


王はしばらくして彼女の隣に寝返りを打ち、優しく彼女の髪を撫でた。彼女はまだ少しぼんやりとした頭で、その言葉を受け止めた。


「こちらこそ…ありがとうございました。」


彼女はそう答えながら、自分の心の中で何かが変わったのを感じていた。それは罪悪感でもあり、同時に充足感でもあった。この生活を続けていくことで、自分はもっと変わっていくのだろうか。


彼女はそんな思いを胸に、ゆっくりと体を起こした。王もまた、起き上がり、服を着始める。彼は去り際に、一枚の名刺を彼女に差し出した。


「また会える日を楽しみにしています。あなたにぴったりの場所を、いくつか知っていますから。」


厳喆珂はその名刺を受け取り、無言でうなずいた。彼が部屋を出て行った後、彼女は一人、しばらく天井を見つめていた。窓の外からは、街の喧騒がかすかに聞こえてくる。


「これでいいの…?」


彼女は自分に問いかけた。しかし、答えは出なかった。ただ、彼女の中で何かが少しずつ変わっていくのを、静かに感じていた。


章 20

部屋の空気が沈んでいた。楼成が修行のため籠もり始めてから、もう一月が過ぎている。窓の外では春の雨がしとしとと降り、遠くの山々を霞ませていた。


厳喆珂は窓辺に立ち、ぼんやりと雨を見つめていた。指先で窓枠をそっと撫でながら、彼女の心はどこか落ち着かない。新婚の頃は、楼成がそばにいるだけで満たされていた。だが、彼が修行に専念すると、時間を持て余すようになった。


「今日も帰ってこないのかしら……」


呟きが部屋に溶ける。鏡の前に据えられた武術着が、ふと目に留まった。あれは彼女自身のものだ。結婚前は毎日のように着ていたが、今はただ部屋の飾りにすぎない。


厳喆珂は深く息を吐き、着替えを始めた。白いブラウスに黒いスカート——清楚で垢抜けた出で立ちが鏡に映る。胸は大きくないが、体のラインはしなやかで、武道の鍛錬で培われた均整のとれた長身が際立つ。彼女は軽く髪を整え、バッグを手に取った。


家を出ると、冷たい雨の匂いが鼻を突いた。彼女は駅へ向かう道を歩きながら、心の中で様々な考えが渦巻いていた。


「楼成は私に『自由に行動していい』と言った。でも……本当に、これでいいのだろうか?」


彼女はふと足を止め、振り返って自宅の影を見つめた。楼成は修行場にこもりきりで、彼女が何をしているか知る由もない。武聖の称号を守り、禁忌級を目指すという崇高な目的に没頭している。


「彼を裏切っているわけじゃない。ただ……新しい体験をしてみたいだけ」


そう自分に言い聞かせ、彼女は再び歩き出した。行き交う人々の中で、彼女の姿はひときわ目を引いた。清楚な顔立ちに、どこか艶やかな雰囲気が漂っている。


駅前の繁華街に入ると、ネオンが雨に濡れてぼんやりと輝いていた。厳喆珂は事前に決めていた場所へ向かう——高級クラブ「夜桜」。そこは表向きは普通の社交場だが、裏では様々な取引が行われている。


彼女は入り口で一瞬ためらい、それからドアを押し開けた。中は薄暗く、紫の照明が落ち着いた雰囲気を醸し出している。カウンターの奥に立つ中年の女性——ママの美咲が、彼女に気づいて微笑んだ。


「いらっしゃい、喆珂ちゃん。今日はお客さん、いい人を紹介できるわよ」


「ありがとうございます、美咲さん」


厳喆珂は軽く頭を下げ、更衣室へ向かった。彼女は今日のために特別に選んだドレスに着替える。黒のビロードのような布地が、彼女の白い肌を一層引き立てた。胸元は控えめに開き、清楚な中に色気が滲む。


「まるで別の人間になったみたい……」


鏡の前で自分を見つめ、彼女は微かに唇を歪めた。楼成と結婚する前、彼女はおとなしい娘だった。今はどうだ? 自分からこの世界に足を踏み入れようとしている。それは罪悪感と同時に、甘美な興奮をもたらしていた。


その夜、彼女は二人の客を取った。一人目は中年の実業家——言葉遣いは丁寧だったが、目が彼女の体を這うように見ていた。彼は武術の話を持ち出し、厳喆珂が丹気級の段位を持っていることを知ると、驚いて敬意を表した。


「まさか、ここで武術家の女性に会えるとは……それはすごい」


「武道はただの趣味ですから」


厳喆珂は優雅に笑い、彼のグラスに酒を注いだ。杯を交わすうちに、彼女は自分の肉体と魅力がどれほどの力を持つか、冷静に感じ取っていた。それは武道の力とは別種の、危険な感覚だった。


二人目の客は若い芸術家——痩せ型で物静か。彼は絵画について熱心に語り、厳喆珂の容姿を「完璧な曲線だ」と褒めた。彼女は微笑みながら彼の話に耳を傾け、適度に相槌を打った。心のどこかで、この些細な欺瞞が楼成への裏切りだとわかっていながら、それを面白がっている自分もいた。


夜が更け、店を出ると雨は上がっていた。濡れたアスファルトが街灯を反射し、星のようにきらめいている。厳喆珂はゆっくりと家路を辿った。


自宅のドアを開けると、中は真っ暗だった。楼成の気配はない。彼女は静かにドレスを脱ぎ、普段着に着替えた。ベッドに横たわりながら、天井を見つめる。


「私は、自分が何をしているのか、ちゃんとわかっているはず……」


だが、答えは出なかった。ただ、心の奥底で何かがざわつき、眠りへと誘うのを感じるだけだった。

Comments

No comments found for this post.