巡る世界の回想録 (Pixiv Fanbox)
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2021-03-08 11:36:28
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2026-06
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僕はこの町が嫌いだ。
コンビニはないし、バスも一時間に一本しか通っていない。一番近いファミレスでも車で三十分はかかる。ゲームセンターなんてもってのほかだ。唯一パチンコ屋だけはあるけれど当然ながら僕はまだ未成年、まして小学生だから入れない。
けれど、この町が嫌いになったのは――
「おい、早く来いよ」
ニヤニヤと意地汚い笑いを浮かべているのは同じクラスの成瀬くんだ。まだ四年生なのに体格だけは中学生に引けを取らない。その分、おつむの出来はあまりよくないけど。
彼はいわゆるガキ大将で乱暴者だ。いつも取り巻きを連れて僕を虐めてくる。
「ったく、何トロトロやってるんだよ。これだから都会もんは」
わざとらしい物言いにカチンとくる。けど口にすれば殴られるだろうし、一対三では勝ち目がない。黙って口をつぐみ、両手に力を込める。彼らから渡されたランドセルには教科書がぎっしりと詰め込まれている。どうせ帰って勉強なんかしないくせに。
額に汗を流しながらのたのたと歩を進める。七月の日差しは暴力的だ。じりじりと照り付けるような暑さに思わずうだる。アスファルトの上に落ちた汗の粒さえもすぐに乾く勢いだ。喉が渇いてたまらない。
ああ、早く帰りたい。そうすればクーラーの効いた部屋で思う存分ゲームができるのに。
「おい、武智。ちゃんと運べよ。落としたら承知しないからな」
「……うん」
いっそのこと肥溜めに投げ込んでやろうか。
彼らが僕を蛇蝎のごとく嫌う理由は至って単純。
僕が転校生だからだ。
***
ここ、鷺沼町は人口三百人にも満たない小さな町だ。
僕たちの小学校は全校生徒を合わせても三十人しかおらず、うちの学年は全部で七人。男子が四人、女子が三人。
ハッキリ言えば寂れた町だ。若い人たちは全員都会に出てしまって、今残っているのはよほど地元愛のある人か一度都会に出たモノの失敗して出戻りしてきた人たちである。
ちなみに、僕は後者だ。父さんの会社が倒産して、結果こちらに戻ってきた。幸い、知人のつてを頼って再就職には成功したらしい。給料は安くなったと言っていたけれど明るい顔をしていたのでそれはいいと思う。
ただ、僕に関しては本当にとばっちりだ。
東京の学校を離れることになり、大事な友だちとも離れ離れになった。連絡するよ、と言っていたけど次第にメールの返信が遅くなり、今ではすっかり疎遠になってしまった。まだ引っ越してきてたった数か月なのにあんまりだ。
その上、新しく越してきた場所では虐められている。きっかけは本当に些細なことだ。
成瀬くんはそれまで一番足が速かったらしい。でも僕が来てからはいつも二番だ。
自分で言うのもなんだけど、僕は勉強も運動もそこそこできる。どうやらそれがクラスの子たちには魅力的に映ったらしい。東京の学校にいた頃からは信じられないほどにモテた。
……が、それが顰蹙を買ったらしい。成瀬くんが僕を虐めるようになったのだ。
「お前、生意気なんだよ!」
それまで仲良く話していたはずの級友はいきなり傍若無人の暴君へと化した。
以来ずっと、僕は彼らの奴隷である。命令には絶対服従。逆らえば殴られる。
ただでさえ重いランドセルを持っているのにまた一段と気分が沈んだ。このまま蕩けて地面に溶けてしまいたい。
「そうだ。成瀬くん。俺いいこと思いついちゃったぜ」
取り巻きの一人、島田くんが出っ歯をむき出しにしてニシシと笑う。彼がああいう笑い方をする時は大抵ろくな事じゃない。
島田くんがぼそぼそと耳打ちすると成瀬くんは不気味に笑い、ずんずんと僕の方まで大股で歩み寄ってきて乱暴にランドセルを奪う。
「武智。お前、本好きだよな?」
「……好きだけど?」
「だよな。じゃあ決まりだ」
それだけ言って彼らは通学路から外れた小道へと逸れていく。路傍からはみ出した草木を掻きわけ、道なき道を進む。次第に人の気配が薄れていき、やがて開けた場所へとやってきた。目の前には綺麗な向日葵畑が広がっている。
「わぁ……」
この町にこんなに綺麗な場所があったなんて。
思わず息を呑むほど美しい光景に目を奪われる。
「武智。お前、今からあそこに行って来いよ」
余韻に浸る間もなく、成瀬くんのガラガラ声が聞こえてきた。彼が指さす方には見るからにみすぼらしい小屋がある。遠目からではよく見えないが看板を掲げているところからして何かの店だろうか?
「あそこって、何の店?」
「本屋だよ。つっても誰もいねえけどな」
「いわゆる無人販売って奴だよ」
小林くんがドヤ顔で言う。彼は口元の笑みを隠そうともせずふんぞり返っていた。
「あそこさ、結構面白い本がいっぱいあるんだ。俺たち、それに目をつけててさ」
嫌な予感がした。心臓を鷲掴みにされたような感覚に見舞われる。
成瀬くんは僕の反応を見て面白がるように目を細め、
「武智。お前、万引きして来いよ」
「――ッ!」
予想はしていたが本当に言われるとは思わなかった。
彼らは醜悪極まりない邪悪な笑みを浮かべたままこちらを見つめている。やれ、と無言の圧がかかっていた。
「これ、俺たちが欲しい本のリストな。ちゃんと盗ってこいよ」
「ま、待ってよ! それ犯罪じゃないか!」
「だから?」
あまりにもあっさりとした返しに思わず言葉を失った。
けれど、グッと拳を握り締めて声を絞り出す。
「万引きは犯罪だよ。……だからできない」
「バカだな、お前。できるできないじゃねえよ、やれって言ってんの」
頭足りてるか、とでも言わんばかりに頭をぐりぐりと押さえつけられる。その団子っ鼻にグーパンチを叩き込んでやりたい。
「別にやりたくないならいいぜ? その代わり……」
わざとらしく三人そろって拳を握り締める。思わず後ずさる僕の肩を小林くんが掴んだ。
「まぁまぁ。ちゃんと盗ってきてくれたら、仲間に入れてあげるからさ。もう虐めたりしないよ」
「そうそう。これは試練だ! お前が俺たちの仲間になるに値するかのな!」
誰が仲間になんかなるか! 死んでもお断りだ!
そう言ってやりたいのに黙ってしまう自分が情けない。もうこれ以上彼らと話をするのが嫌で半ば逃げるように背を向け、本屋の方へと歩き出す。
「がんばれよー」
「捕まっても友達だからなー」
白々しい白々しい白々しい!
いっそ死んでしまえ、あんな奴ら!
気づけば目から涙が零れていた。幸い背を向けていたおかげで彼らにはバレていない。汗を拭うふりをして目じりを拭い、本屋の前へと立つ。
近くによると思った以上に威圧感がある。中にはずらーッと本が並んでいて、店内が暗いせいもあってか奥の方はまるで見えなかった。ところどころ剥がれたレンガや壁伝いに生える蔦も相まって建築物と言うよりは怪物が大口を開けて待ち構えているようにすら思える。
チラ、と成瀬くんたちの方を見ると彼らはすでに姿を消していた。どうやら物陰で見ているらしい。何かあった時、自分たちだけでも逃げられるようにだろう。バカのくせに悪知恵だけは働く。
「……くそ」
ごめんなさい、と呟いてからゆっくりと中に足を踏み入れた。
紙とインクの匂い。ぼろぼろの外観からは想像もできなかったが中は意外と小奇麗で塵一つ落ちていない。奥のカウンターには招き猫と賽銭箱が置かれている。どうやらあそこにお金を入れるらしい。
一応、ランドセルを漁る。給食の残りのパン、教科書、リコーダー、筆箱。やっと出てきたのは五十円だ。これでは到底四人分の本代にはならない。
逃げ出したい。けれどそんなことをすればどんな仕打ちが待っているか。
「あぁ……」
嫌だ。たまらなく嫌だ。でも殴られるのは、虐められるのはもっと嫌だ。
だから仕方ないことなのだと自分に言い聞かせ、彼らから渡されたリストを頼りに本を漁る。
野球の教本、少しエッチな描写のある昔の漫画、やたら分厚い魔導書のような本。彼らから指定されたのはそれだ。
そして、これ以外に僕も一冊選ばなければいけない。
けれどこんな状況でえり好みできるものか。適当に近くの棚から一冊取り、急いで――
「ちょっと待った」
帰ろうとした直後、抑揚のない声がカウンターの奥から聞こえてきた。カラコロと下駄の鳴る音が少しずつ近づいてくる。
叫ぼうとしたが声が出なかった。もしや出てくるのは店の主人などではなく化け物なのではないかと。
目からぼたぼた涙が零れ、足ががくがく震えた。もう駄目だ、と思った次の瞬間、小さな影がひょこっと本棚から現れる。
「へ?」
驚きのあまり素っ頓狂な声が漏れた。
恐ろしい化け物から最もかけ離れた存在であろう愛くるしい少女を前に、思わず目を皿のようにして見つめてしまう。
身長は僕と同じかそれ以下。栗毛の髪を肩のあたりで切り揃えている。時代錯誤な瓶底眼鏡や牡丹色の着物も相まって、まるでタイムスリップしてきたかのような印象を覚えた。
彼女は僕の顔をジィッと眺めていたかと思うと不意に本へと視線を移した。慌てて隠そうとしたが時すでに遅く、彼女は顎に手をやり小さく唸る。
「これは、ぜんぶ君が読むのかい?」
見た目からは想像もできないほど落ち着き払った声だった。背丈は同じくらいだというのにまるで年上の女の人から話しかけられているような感覚に陥る。
「ち、ちがうよ」
「だろうね。好みがバラバラだ。ちなみに今君が棚から取った奴……そう、それだ」
言われて手元を見やると小難しい英字の並んだ表紙が目に入る。慌てて取ったのでわからなかったがどうやらこれは海外の本、しかも翻訳されていない原本らしい。かなりの年代物らしく表紙も少しだけ色あせている。
「英語、読めるのかい?」
「……読めない」
「だろうね。ちなみに小説は?」
「国語の授業で、少し」
「ふむ。ほぼ初体験、ということだね。なら、そう。これなんかオススメだよ」
彼女が差し出してきたのは他のに比べると幾分薄い本だった。表紙には『O・ヘンリー短編集』と書かれている。
「それなら量もさほどないし短編集だから最初から最後まで続けて読むこともない。途中で飽きたらやめて、また気が向いたら読めばいいさ。本とは元来そういうモノだからね」
「あ、あの!」
「なんだい?」
言いかけて、口ごもる。掌にじっとりと汗が滲んで膝が笑った。緊張で喉が狭まっている。
何とか絞り出した声は裏返り、震えていた。
「ぼ、ぼく、お金持ってなくて……」
「あぁ、いいよ。気にしなくて。子どもから金をせびるほど私も鬼じゃあないさ」
「そ、そうじゃなくて、その……」
口ごもる僕を前に彼女は唇をわずかにとがらせて首をひねり、それからしたり顔で頷いてみせる。
「これは言わば投資みたいなモノだよ。君が本を読む楽しさに目覚めてくれればよし。そうじゃなくてもそれはそれで構わない。ただ、一つだけ教えておくね」
一拍置いて、彼女はふっと花の綻ぶような笑みを零す。
「本は君の味方だよ」
きっと、彼女には何もかもお見通しだったのだろう。
僕が虐められていることも、無理矢理万引きをさせられたことも。
――誰かに救いを求めていたことも。
思わず涙が溢れてしまいそうになるがグッと堪えた。ごまかすように咳払いをして頭を下げて店を出る。
それからの記憶は曖昧だ。成瀬くんたちに本を渡したまでは覚えているがその後どうやって家まで帰ったか思い出せない。
けれどその晩読んだ短編集の内容だけは鮮明に覚えていた。
***
夏休みに入ると成瀬くんたちは僕に構わなくなった。この間の約束を果たしたと言うよりも貴重な夏休みをいじめられっ子のために費やす気はないということだろう。実際、外で会っても知らんぷりだ。その方が僕もありがたい。
一方の僕はと言うと、あれから少しずつ本を読むようになっていた。幸い、今は夏休みで時間は腐るほどにある。宿題は出されているけど内容としてはお粗末なモノだ。初日ですべてを片付け、残りはすべて読書に費やしている。
「今日は何を読んでるんだい?」
カウンターの奥から声がかかる。声の主は頬杖を突きながら興味津々といった様子でこちらを見つめていた。
「西遊記」
「いいね。意外と読みごたえがあるだろう?」
まさしく彼女の言うとおりだ。
西遊記と言えば日本でもかなりメジャーな物語だけど意外と原作を知っている人は少ない。アニメや漫画にはなっているものの削られたエピソードは多いし、未登場のキャラだって少なくない。
文章自体もさほど難しくないので僕のような初心者でもスラスラ読める。とはいえ、一冊のボリュームはかなりのモノなので読破しようとするとそれなりに時間はかかってしまうけど。
「ふふっ。すっかり本の虫だね」
カラカラと鈴の音のような声で軽やかに笑う。
彼女の名はフミと言うらしい。子どもっぽい見た目だけど実は大人だそうだ。免許証も見せてもらったが年齢の部分は指で隠されていて、見せてくれるよう頼んだら少しキツめに怒られた。
思えば、彼女と出会ってからもうすぐ一週間が経とうとしている。あの後お金を持って戻ってきたら小説の感想を聞かれ、そこからさらにおすすめの本を渡され……そして今ではすっかり本屋に入り浸るようになっていた。
「それを読み終わったら今度はこれなんかどうだい? 封神演義。西遊記に出てくる哪吒もいるよ」
もう間もなく読み終わろうかという頃合いで声がかかった。彼女はいつもこうなのだ。
一冊を読み終えれば、すぐ次を勧めてくる。さながら連想ゲームのように関連性のあるモノを出してくるからついつい手に取ってしまう。そしてそれがまた面白いのだ。
恋愛、ファンタジー、SF、コメディ……ジャンルはそれぞれバラバラだが僕の好みにピッタリ合うものを勧めてくれる。身近にこんな人がいたらそれは読書好きになるだろう。
……いや、単に本が面白いからじゃない。
「読み終えたら語ろう。感想戦も読書の醍醐味さ」
上機嫌な彼女を見ているとつられてこちらも嬉しくなる。
――正直なところ、僕がここに通うのはフミ目当てだったりする。
普段は大人びているくせに本のことになると目を輝かせるところも、真剣に本と向き合っている横顔も、顔にかかる髪を払う仕草も。彼女のすべてに目を奪われる。
知れば知るほど彼女は魅力的で、ますます僕は惹かれていった。
一目惚れとは少し違う。顔を合わせるたびにどんどん“好き”が溢れてくるのだ。
この町は嫌いだが、唯一この場所とフミだけは好きになった。家よりも心休まるのはここしかない。互いに本を読みふけって、感想を交えて、また本を読む。過干渉でも不干渉でもない。ちょうどいい関係だと思う。
気づけば、ここは僕にとって唯一心休まる場所となっていた。
「ん……」
キリがいいところで一度しおりを挟み、グーッと背伸びをする。ぽきぽき鳴る背骨の音が心地いい。ふぅっと短く息を吐き、すっかり温くなった薄い麦茶を飲み干す。それから軽くあくびをしてその場で立ち上がり、腰に手を当て身体を反らす。ずっと本を読みっぱなしだったから身体が固まっている。
気分転換に店内をぷらぷら歩く。フミは古今東西の書物を集めるのが趣味らしく、ジャンルにこだわりもない乱読派だ。名著と呼ばれるものやすでに絶版となっている希少な初版本などがある裏でワゴンセールで大安売りされているような三流小説も棚に並んでいる。
「気に入ったのがあればまた持ち帰っていいよ」
「ありがと。出世払いでお願い」
「ふふっ。期待して待っておくよ」
そんな軽口を叩いていると、不意に気になる本を見つけた。
大きさとしては文庫本サイズだが背表紙には何も書かれておらず、表紙にはただタイトルだけが印字されている。
『大正遺文恋物語』
作者の名前もない。中を見てみると小説というよりは日記に近い内容だということが分かった。正直、あまり上手な文章ではない。けれどなぜか心惹かれた。
内容としては大正時代を生きた船乗りの男と少女の物語だ。男の生い立ちから少女との出会い、その最期までが綴られている。
「エッセイって聞いたことがあるかい?」
不意に、フミが語り掛けてきた。彼女はいつの間にやら僕の後ろにいて目を細めながら本を覗き込んでいる。どことなく、その横顔が憂いを帯びていたように感じたのは気のせいだろうか?
「随筆とも言うが、まぁ簡単に言えば日記のようなモノさ。小説もそうだが、エッセイは筆者の人生を追体験できるというのが一番の強みかもしれないね」
「ふぅん……他にもあるの?」
「もちろん。ただ、探すのが大変だからまた今度ね」
その言い方にやや引っ掛かりを覚える。
確かにここには本が溢れている。店先だけではなく天井裏や地下室にまで。けれどフミが本を探すのに手間取ったことなど一度もない。特にラベリングやジャンルごとに統一がされているわけでもないのに取りに行くと言ったら三分とせずに戻ってくるのだ。
――ただ、ひょっとしたら彼女にも何か事情があるのかもしれない。
湧き上がる好奇心を抑えつつエッセイを元の場所へと戻して背表紙をなぞる。時代が経過しているからか新品同然と言うわけではないが少し色あせているだけだ。それだけしっかりと手入れされているのだとすればやはりこれはフミにとって他の本以上に大切なのかもしれない。
「?」
指先に違和感が走る。今、微かに本が震えたような……?
「地震?」
「いや? 私は何も感じなかったが……」
互いに顔を見合わせて首を傾げる。
もう一度本を見ても特におかしなところはなく、ただ静かに本棚で佇んでいるだけだ。
「さて、と」
空はすっかり赤くなって雑音交じりの町内放送がスピーカーから響いてきた。とりあえず事前に目星をつけていた本を数冊抱え、バッグの中に丁寧に入れる。
「そろそろ帰るね。また明日」
「ああ。気をつけて帰るんだよ」
「うん。バイバイ」
自転車に跨りのんびりと空を眺めながら家へと向かう。頭の中はフミと、今日読んだ本のことでいっぱいだ。
もし自分が小説の登場人物だったら――最近はそんなことばかり考えるようになった。登場人物たちに交じって冒険をしたり事件に巻き込まれたりしたら。もし自分にも魔法や特殊なパワーが使えたら。考えるだけでワクワクしてくる。
いっそ、自分で小説を書いてみようかと考える。それをフミに読んでもらったらどうだろうか?
彼女のことだから少し厳しい意見は言うかもしれないけれどバカにはしないはずだ。むしろ喜んでくれるに違いない。
どんな顔をしてくれるだろう――そんなことを考えているうちに家が近づいてきた。もう少し妄想にふけっていたい気分だったのでわざと遠回りをする。ちょっとくらい遅れても怒られたりはしないだろう。
もし、小説を書くとしたら。何がいいだろう?
一番好きなのは冒険活劇だ。でも今の自分じゃすでにある小説の劣化コピーにしかならない気がする。
エッセイなら書きやすそうだが日記のようになってしまいそうな気がする。と言うか、エッセイ自体を読んだことがないのでどう書けばいいのかわからない。
とすれば、
「短編、かなぁ」
短編と言っても様々だが短いものなら数ページほどのモノもある。それくらいなら自分でも書けそうだ。問題はネタ出しだが、まぁなんとかなるだろう。
「あれ? 武智じゃん」
そうと決まればと家に帰ろうとしたところで後ろから声をかけられた。
今一番見たくない顔が三つ並んでいる。せっかく上向きだった気分が一気に急降下した。
「へぇ。まだ生きてたんだな、お前」
開口一番、成瀬くんが嫌味なことを言ってくる。取り巻きの二人はわざとらしくゲラゲラと耳障りに笑う。
文句が出かかった口をぐっとつぐみ、ペダルに足をかけた。一刻も早くここから離れたい。
けれど彼らはそうではなかったらしい。あっという間に僕を取り囲み、ニヤニヤ笑いを隠そうともせず睨みつけてくる。久々に見つけたおもちゃを前に興奮を隠しきれないようだ。
「今日、お前んち行ったんだぜ?」
「そしたら遊びに行ってるからってよ」
「どこ行ってたんだよ、なぁ?」
口々に呟きつつ距離を詰めてくる。反射的にバッグを抱きしめてしまったのを彼らは見逃さなかった。
「おい、何隠してんだよ見せろ!」
成瀬くんは強引にバッグをひったくり、中身を見て顔をしかめた。
「本? これお前のか?」
「違うよ。借りてるんだ。返してよ」
「ひょっとしてこの間のとこか?」
思わずギクリと身体が強張った。成瀬くんはわずかに目を見開き、
「図星かよ。夏休みなのに本ばっか読んで寂しい奴」
「寂しくなんかないよ。君たちといるより本を読んでる方が面白いし」
自分でも驚く言葉が出た。成瀬くんたちもこれは予想外だったらしい。従順なサンドバッグが反抗したことに驚きを隠せないでいる。
けれどそれはまもなくして憤怒に塗り潰された。
「生意気言うんじゃねえ!」
渾身の拳が顔面に叩き込まれ、もんどりうって倒れる。足が自転車に挟まれ激痛が走った。倒れ伏す僕の目に、三つの足裏が飛び込んでくる。
咄嗟に頭を守ったけれど三対一ではどうしようもない。
手を、腹を、腿を、鳩尾を。容赦なく足で踏みつけられる。痛みと悔しさで涙が溢れた。
自分にも小説の主人公たちみたいな力があれば。こんな卑怯な奴らに負けたりしないのに。
罵倒と暴力にさらされ、どれくらい経っただろう。気づけば成瀬くんたちは肩で息をしており、完全に目を血走らせていた。
「調子乗ってんなよ、よそ者のくせに!」
成瀬くんは怒鳴りつけるように言って、僕のカバンを力いっぱい放り投げる。数秒後、べちゃっと汚らしい音を伴って田んぼに着地する。遠目からでも中身の本がダメになったことはわかった。
「あーあ。やっちゃったー」
「借りてる本、ダメにしちゃったねえ」
取り巻きどもが鬱陶しくはやし立てる。うるさい黙れどっかに行け。
「そんなに本が好きなら一生読んでろよ。……学校、来たら殺すからな」
とどめの一撃を顔面に食らう。ちょうどぐらぐらしていた乳歯が抜け飛んだ。口内が血であふれ、咳き込むと地面に真っ赤な模様が広がる。
成瀬たちはペッと僕に唾を吐き、そのまま自転車で走り去っていった。あとに残された僕はのそのそと立ち上がり、田んぼに沈んだかばんを拾う。案の定中には水が染みて本がぐしょぐしょになっていた。
綺麗な表紙は泥色に染められ、中の文字は滲んで読めなくなっている。
「……ごめん、なさい」
ここにはいないフミへの謝罪を口にし、へなへなと座り込む。
結局、僕が家にたどり着いたのは空が黒く染まってからだった。
***
転校が決まったのはそれからすぐのことである。
あの後家に帰ると両親に質問攻めにされ、これまでのことを洗いざらいぶちまけた。父としては再出発をしたばかりということもあったがよほど腹に据えかねたのだろう。成瀬たちの家に怒鳴り込み、学校に連絡を取った。
それでも埒が明かないとわかった後、すぐに転校手続きを済ませ、僕は無事元の小学校に戻ることになった。父も今の仕事をやめ、東京で再就職をする予定らしい。
転校が決まってすぐ、僕はフミの元へと向かった。泥だらけになった本を返し、理由を伝えて詫び、思いっきり声を上げて泣いた。
この町は嫌いだ。でもフミは大好きだ。
本音を言えば別れたくなかったがどうしようもない。ここにいては、僕はいつか殺される。
フミはそんな僕を優しく抱きしめ、それからありったけの本を渡してくれた。あまりの重さで紙袋の底が破けるのではないかと思うほどに。
「これは君にあげるよ。どうか、ここを離れても本を読み続けておくれ」
「……うん。後さ、フミ」
「なんだい?」
「……僕、小説書こうと思うんだ」
「素敵だね。じゃあ、いつか読ませておくれ」
それが彼女の最後の言葉だった。
この日を最後に僕はこの田舎町に別れを告げ、元居た場所へと戻った。二学期からという中途半端な転校ではあったが特に大きなトラブルなどもなく平穏無事な学園生活を送っていく。
その中でも本のこと、フミのことを忘れたことはない。幸いにして、都会の図書館にはフミのところに勝るとも劣らないほどの蔵書があった。何も予定がない日は朝から晩まで読みふけり、その合間を見計らって少しずつ短編を書き溜めていく。
そんな生活を続けていくうちに中学、高校、大学と驚くほど速く時は進んでいく。もちろん、その間フミに会いに行こうとしたことは一度や二度ではない。しかし僕はともかく両親からすれば大事な一人息子を虐めた奴らがいる場所だ。流石に学生の身分では遠出をするにも親の許可がいる。
そんなわけで僕があの町に戻れたのはようやく自立の目途が立った大学四年生の時。町は以前にもまして寂れており、気のせいか人々の顔にも陰りが見えたのを覚えている。
後に両親から聞いた話だが、僕があの町を離れてから一年ほどして謎の失踪事件が起こったらしい。夏祭りの夜、推定でも百名近い人間たちが一斉に姿を消したそうだ。クマの仕業ではないかと警察は言ったらしいがそれにしては血痕なども残されていなかったらしい。
まるでこの世界から切り取られたかのように、パッと消えてしまったそうなのだ。一切の痕跡も残っていないことから町の人たちは神隠しと呼んで今でも恐れているらしい。
実際、街を歩いていると空き家が目立った。ほとんど廃墟と化している家屋などもあり、その中には同級生や先生の家だけではなく成瀬や取り巻きたちの家も含まれていた。
それを見て喜ぶほど、僕ももう子どもではない。彼らに関しては苦い記憶しかないがだからと言ってその不幸を喜ぶのはあまりにも幼稚だ。
すっかり変わり果てた町をぷらぷら歩き、とうとう目的の場所へとたどり着いて――愕然とする。
先の失踪事件にフミも巻き込まれていたらしい。
家主がいなくなったからかフミの家があった場所は取り壊されて更地にされていた。ちょうどそこで遊んでいた子どもたちに話を聞いたところ、五年ほど前にはこの状態だったという。
当然ながらフミの行方を知る者はいない。彼女が大事にしていた本たちもどこへやら。
本来彼女に渡すはずであったはずの部誌――大学の文芸部で書いたモノ――が寂し気にかばんの中で眠っている。このまま持ち帰っても箪笥の肥やしになるだけだと判断し、お近づきのしるしとして子どもたちに渡した。この子たちがこれを読んで本に興味を持ってくれれば、それこそフミが一番望む結果になるだろう。
子どもたちと別れ、淀んだ空を眺めながらタバコに火をつけ煙を吐き出す。灰色の煙はしばらく宙にわだかまったかに見えたが風に流されすぐに消えた。
遠い昔の思い出に浸りながら、ゆっくりと駅までの道を歩いて往く。
後ろを振り返ってもフミの姿はない。
もう二度とここに来ることはないだろう。
確かな予感を胸にしつつ、もう一度たばこの煙を吐き出した。
***
フミという生きがいを失ってからの僕の人生は、あまりにも無味乾燥なモノだった。
仕事場と家の往復を繰り返す振り子のような人生。結婚もせず、休日は家に籠って本を読みふけっては小説を書く。たびたび新人賞に応募はすれど箸にも棒にも掛からぬつまらない人生だ。
ただ、それでも諦めることだけはなかったといってもいい。ひとえに、彼女との約束を果たすためだ。
今、彼女がどこにいるかはわからない。ただ、小説を書き続けていれば彼女に会える気がした。本を手にとって、読んで、きっと僕を探し出してくれる。
そう信じていた。
信じて、信じて、信じ続けて――。
気づいた時にはもう、僕の指先は動かなくなっていた。
八十年。十分に生きた方だ。顔や腕はしわだらけになり、病院のベッドから身体を起こすこともできなくなっている。それでも近くにパソコンと本だけは置いているのはやはり性というモノだろうか。
結局、作家としてのデビューはできなかった。どうも僕には文才と呼べるものがなかったらしい。文章だけは綺麗だがシナリオ、展開の面白みがないと言われた。何ともまぁ、僕らしい評価だと思う。
一応、書いた小説は投稿サイトにも上げているがアクセスは一週間に一回あればいいくらいだ。感想などは来たことが――いや、面白くないという感想ならもらったか。当然ながらブックマークや評価点なども皆無だ。
「ッ、ごほっ、ごほっ!」
咳き込み、じんわりと涙が滲みでてくる。
もう、小説を書くことはないだろう。命が終わりかけているのを感じる。
小説に関しては残念な結果ばかりだが悔いはない。全力を出し切った。
ただ一つ心残りがあるとすれば、それはやはりフミのことだ。
今、彼女はどこにいるのだろうか?
そもそも生きているのかさえわからない。
叶うならばもう一度彼女に会いたかった。けれどこの身体ではもはや無理だろう。
視界がぼやけていき身体から力が抜けていく。そろそろお迎えが来たようだ。
気のせいか、誰かの気配も感じる。まさか天使というわけでもあるまいし看護婦でもないだろう。僕を看取ってくれる人などいるはずが……。
「――久しぶりだね」
ふと、聞きなれた声が耳を打った。視界はぼやけて誰だかわからない。
けれど確かに、僕の魂は歓喜に震えていた。
「お、おぉぉ……!」
最期の力を振り絞って手を伸ばす。ぷにぷにと柔らかな何かに触れた。ほんのりと温かく、きめ細やかな肌の感触。小ぶりな鼻、グミのような愛らしい唇にも触れる。
僕にも見えるよう、彼女は顔と顔がぶつからんばかりに近づけてきた。歓喜の涙で視界が塞がれる。けれどそこにいたのは紛れもなく、
「フミ、なんだね……」
「ああ、そうだよ。ずいぶん老けたね」
そう呟く彼女は昔のままだ。時が止まっているのではないかと思うほど、思い出の頃の姿である。
これは死にゆく自分が見ている幻なのではないかと思うが、手から伝わってくる温かさは疑いようのない現実味を帯びている。否、ここに至ってはこれが夢か現実かなどどうでもいい。
彼女に会えた、それだけで報われた気がする。
「ずっと会えなくてごめんね。あれから小説は書いたかい?」
「書いたよ……でも、小説家にはなれなかった」
「そうか。後悔は?」
「ないよ」
そう言い切った時、フミはすごく満足げに笑った。顔にかかる髪を払い、やぼったい瓶底眼鏡を取る。初めて見る彼女の裸眼は宝石のように澄んでいてキラキラとまばゆいほどに輝いていた。
「ずっと、君に伝えたいことがあった。それを今伝えるよ」
彼女の愛らしい唇が近づいてきて、僕の乾いた唇と重なる。甘い吐息が流れ込んできて意識が微睡む。小さな舌が唇を舐めて潤いを与え、心身に安らぎが訪れる。
感覚が曖昧になっていく。ひどく心地よい。まるで自分が彼女と溶け合っているような、奇妙だけれど幸せな感覚。
徐々に身体の輪郭すらも朧気になった。思考すらも、途切れていく。
嗚呼、僕はようやく、彼女と――。
――病室のベッドの上に男の姿はない。ポツンと一冊の本だけが置かれている。
ハードカバーのずっしりした重みのある本だ。装丁など特に凝っている部分はない。その分中身は重厚で、彼の生涯が最後まで綴られている。
夜風が吹き込む病室で、フミはそれを読みふけっていた。自分がいなくなってから彼がどのように生きてきたのか。どんな思いを抱えてきたのか。それが文章からひしひしと伝わってくる。
やがて読み終え、ぱたんと本を閉じるとフミの姿は病室から消えていた。そこに至ってようやく時間が動き出したことを思い出すかのように看護婦がやってきて、空になった病室を見てパニックを起こす。
結果として、警察はこの事件を失踪事件として処理した。だが生命維持装置につながれていなければ生きていることすらままならない老人が勝手に逃げ出すなど誰も信じられない。
後にこの出来事は病院の七不思議として語り継がれることになるが、その真相は誰も知りえない。
彼はまだ生きている。生涯愛し続けた女とともに。
本棚の中に眠るその本のタイトルは――。
『巡る世界の回顧録』