Bunny Angel エピローグ (Pixiv Fanbox)
Content
『────ですから、何度も申し上げているように。先の海洋封鎖は七囚人ワカモの捕縛、および、我が社にとって唯一無二のパートナーであるトリニティ総合学園の文化資産を守るための、やむを得ない行動だったと説明しているではありませんか』
『しかし、社長!当時の証言の中には、半ば脅迫のような物言いで海域からの退去を迫られたとの声も……』
『その件に関しては、謝罪します。証言の真偽はともかくとして、恥ずかしながら、我が社員の中には、未だに軍人気分が抜けきらない者も多数見受けられることは、私も認知しております故』
『では、エクスムーアに本質的な責任はないと?』
『はい』
苛烈なフラッシュと、記者からの容赦ない尋問。
しかし、老眼鏡を傾けながら頷く老紳士の顔には、それらの刺激をまるで意に介していない、冷静な表情が浮かんでいた。
『……また話が振り出しに戻りましたな。どれ、如何かな、記者の皆様。このまま収穫の見込めない老人に時間を費やすのは、双方にとって不利益でしょう。いっそ、トリニティのティーパーティにでも話を聞きに行った方が賢明なのではないでしょうか。……もっとも、それも徒労に終わるとは思われますがね』
『────以上が、先日のエクスムーア社長による緊急記者会見の映像です!確かに、先週からエクスムーアはトリニティと紅茶の取引を開始しており、手数料によってエクスムーア側の利益は非常に少ないものの、実に良好な関係を……うぅむ、ですが、私は諦めませんよ!!だって絶対怪しいですもん!上はもうやめとけって言いますけどね!?そうはいきません!!クロノス報道部は今後も取材先から訴えられ、リペアしようのないトラブルに発展するまで、陰険で陰湿で執拗な捜査を────』
報道部の生徒と思われるキャスター役の生徒が、周囲から出てきた大勢の生徒にタコ殴りにされると同時に、報道番組が強制的に終了される。
「丸く収まった……か」
それと同時に、映像を映していたスマホの画面が真っ暗になる。
スリープモードになった携帯を外套に仕舞うと同時に、先生は嘆息しながらベンチの背もたれに身を預けた。
渦中のトリニティ総合学園。その中に設けられている豪奢な庭園。正義実現委員会との仕事を終えた帰り、先生は多種多様な秋の草花が彩りを見せる空間に囲まれながら、貴重なひとときの休息を噛みしめていた。
「理由付けて後回しにしてる内に、結局ナギちゃんが全部始末してくれたな……」
あの夏の一件から、二週間と少し。
ヒマワリの旬が過ぎ去るよりも早くして、エクスムーアとのいざこざは、彼女率いるティーパーティが全て処理してしまった。
表向きは対等で平和な取引。しかし、内情を知っている者からすれば、もう勝手な真似をさせないための、無慈悲で冷徹な主従関係。流石は桐藤ナギサの実務力といったところか。
ちなみに。シャーレの先生はあれから一度もエクスムーアと連絡すらしてない。理由はジジィと会話するのがめんどくさかったから。恥ずかしい話である。
「……流石に、私も仕事しないとな……。バートさんの接待、開くかぁ……」
「────誰が聞き耳を立てているとも知り得ない場所で仕事の話とは、感心しないね」
「うおっ」
肩が派手に震える。慌てて周囲を見渡していると、花壇の隙間から物音、そして鳥のさえずりが耳に届く。
────花の妖精。そう錯覚してしまう。
数羽足らずのシマエナガを肩に乗せながら、ティーパーティが一翼「百合園セイア」が、咲き誇るガイラルディアから姿を現した。
心の奥まで見透かしてしまいそうな瞳を見つめながら、先生は一つ、安堵の息をついた。
「な、なんだ……セイアか……」
「不服かな」
「まさか」
自分よりも重たそうな本を抱え、ゆっくりと歩くセイア。少し横にずれた先生の気遣いを無視するようにして、彼と密着するような距離感で腰を下ろした。
苦笑いする先生の肩よりも小柄なセイア。こうして仲良く並んで座っていると、まるで巨大な岩と兎のような対格差を如実に強調してしまっていた。
「いつから聞いてたの?」
「君が鼻歌交じりにここへ腰を下ろした頃合いから……だね。イヤホンすら付けずにニュース番組を見始めた時は、不用心さに些か眉をひそめたものさ。丸くなったとはいえ、今のトリニティが一枚岩でないことくらい、先生なら承知しているものと思っていたのだけれどね」
「ご、ごめん。読書の邪魔しちゃったかな」
「なに、気にしないことだよ。丁度、助長な展開に退屈していたところさ。……さて、例の件。解決したようだね。諸々、人伝に聞き及んだ程度だが」
「うん。ナギちゃんも元気そうだし、無理はしてないみたい。ひと段落って感じかな」
先生の言葉を聞いたセイア。ふと、目線が落ちる。
心なしか、そのピンと立っていた耳が、萎びた花のように項垂れたような気がした。
「…………すまない。私が病床と現を行き来している内に、ナギサには随分と無理をさせてしまったようだ。まさか、あそこまで変わり果てた姿になっていたとは……」
セイアはつい最近まで、長い間病状や体調の悪化が著しく、自室や療養所から出ることすらできない日々が続いていた。ミレニアムEXPOにも出向くことができなかったほどに。
────自分が、傍らにいれば。
ナギサを取り巻くように引き起こされた事件の顛末や経緯を、先生や周囲の人間から聞いたセイアは、未だに自責の念に駆られていた。
そんな彼女の頭に、先生はそっと大きな手を乗せる。小さくか弱い頭を痛めないように、包み込むような仕草で何度か撫でてみせた。
「何もできなかったのは私も同じだよ。だからこそ、未来に向けて今からどう動いていくかが大事なんじゃないかな。……あの子と、きちんとお話したのかい?」
「いや……」
「じゃあ、まずはそこからだ。心配せずとも、今のナギちゃんは太ったことをネガティブに捉えていないし、きっとセイアにだって会いたがってる筈だよ。あの子も、大分丸くなったからね。……あ、体型の話じゃないよ?ナギちゃんに言わないでね?ま、また怒られるから」
「……ふふ。いくら私が不器用とはいえ、それくらい察しているとも」
ガタガタと震え始めた先生に対し、セイアはクスクスと微笑を向けた。
それと同時に。あの堅物のナギサが彼に心を開いた理由を、言われずとも察してしまった。
「……ん?」
そんな最中。大柄な先生の身体に隠されるようにして、彼の傍らにバスケットが置かれていることにセイアは気が付いた。
白い布に覆われており、中身の判別はつかない。その秘匿性に、セイアは妙な好奇心を刺激された。
「先生、それは……?」
「え?……あぁ、これか。これは今日────」
口走りかけた舌を止め、黙り込んだ先生。彼の目が唐突に少し見開かれる。
顎に手を当て、数秒考え込んだ後、何か企んでいるような笑みを浮かべながら、セイアに向かって指を鳴らした。
「────良いこと思いついた。いやはや、ナイスタイミングだね。セイアは相変わらず勘が冴えているよ」
●
●
●
庭園の奥。そのまた奥。
ガーデニングを担当している生徒ですら滅多に近寄らないような辺鄙な場所。古い農具や資材が散見される小道を、先生、そして彼に付き従うセイアの二人が、ゆっくりと歩みを進めていた。
「ここだよ」
「ここは……」
木製の粗末な小屋の前で、二人は立ち止まった。石材が基本のトリニティにおいて、木造の建物というのは、それだけで異様な雰囲気を醸し出す。
「……ナギサの、アトリエじゃないか」
だからこそ、人目を惹かないこの小屋を、ナギサは自身の趣味──絵画──における活動場所として、昔から密かに使用している。
その秘密を知る数少ない人間の一人であるセイア。まさかの場所に連れてこられたことを自覚した後、先生へ恨めしそうな目線をジロリと向けた。
「……私の面食らう様を楽しみたかったのなら、どうやら私は君への評価を改めた方がいいのかもしれないね」
「はは、ごめんよ。ちょっとお節介を焼きたくなってしまったんだ」
左手を立てて謝罪する先生。ドアの前に立つと、掛けられている錆びたベルを軽く鳴らしてみせた。
「ナーーギーーちゃーーん」
「────!先生……!」
遠くの方で、弾むような声が響く。
ズシ……ズズンッ、ズシッ、ズシッ……。
その後、何やら鈍い地鳴りのような足音が、セイアの軽い体躯を小刻みに揺らした。
「お待ちしておりました……!すみません、お忙しい中、使い走りのような真似をさせてしまい……」
現体重134kg。なお、日々の過食で若干増えている容疑あり。
ドアの横幅を埋めてしまうくらい、よく肥えたナギサが、二人の目の前に姿を現した。
濃い赤色のベレー帽。もちもちとした頬が可愛らしい、脂肪で丸みに満ちた顔には、絵具がちらほら。そこから伸びるたっぷりの脂肪に包まれた巨大な身体は、一応デニムエプロンを身にまとってはいるものの、どう見ても生地が足りていない。
ブヨブヨと溢れ出るようにしてエプロンからハミ出す脇腹にも、絵具がいくつも付着していた。ぎゅむっ……と紐が食い込んでいる様子を見ても、彼女が付けているエプロンが、サイズのまるで合っていない代物であることは、誰の目から見ても明らかである。
「いいよいいよ、気にしないで。丁度トリニティで仕事があったし」
「もう、分かっているんですからね。貴方が『仕事があるから寄った』のではなく、『寄るためにわざわざ不急の仕事を引っ張り出した』ことくらい…………おや?」
上げていた目線を少し下げたナギサ。先生の隣に立っていたセイアに気付く。
「セイア……さん?」
「……久しぶりだね、ナギサ」
「え、えぇっと……?先生、これは……」
喜びと困惑が入り混じった表情を乗せ、何度かセイアと先生の顔を見比べるナギサ。
思わぬ客人にアタフタとしている微笑ましい彼女の様子を前にして、先生はにこやかに応対する。
「たまたま出くわしてね。ほら、セイアがどうしてもナギちゃんとお話ししたいって言うから」
「…………ほう」
「え……セ、セイアさんが……?」
「……………………まぁ、嘘ではないよ。私だって子供ではないんだ、いつまでも同僚とギクシャクしたままというのは好ましくない。それに……『先生曰く』あっと驚くほど身も心も丸くなった君を一度は目にしておこうかと思っていたからね」
「あっ、ちょっ」
「────先生」
長い袖を口元に添えながら我関せずとそっぽを向くセイア。
悪戯を数倍返しでカウンターされた痛みを味わう間もなく、ナギサの冷ややかな声が響き渡った。
気付けば、先生の筋肉質な右腕は、ソレよりも太いナギサの右腕に鷲掴みにされている。
にこやかに微笑むナギサ。しかし、その目は明らかに笑っていなかった。
蛇に睨まれた蛙の如く、先生は生唾を飲んだ。
「…………わっ、私は、バスケットを渡したら帰るから、後は可愛い女の子同士仲良────」
「お二人とも。せっかく来て下さったのです。『長話』は奥でしましょうか」
「賛成だ。じっくり聞かせてもらうとしよう」
「ひっ……」
トロールのようなお嬢様の体重を活かした腕力によって、なすすべもなく引きずり込まれる先生。
セイアはその惨劇の後追いをするかのように、トコトコと小屋へ足を踏み入れたのだった。
●
●
●
「────ですから、以前から何度も申し上げているように……もしゃ、もしゃ……んっ、ふぅ……人の体型をそうやって、はむっ、揶揄うような物言いは……しゃぐっ、しゃぐ……もぐ……」
「…………」
「……ごくっ。ふぅ、ふぅ……私たちの見本であるべき大人である貴方に……くちゃ、もぐ……あるまじき、ことで……もしゃ……」
「…………ナギちゃん。カレーパンもあるよ。冷めないうちに食べちゃいな」
「!カ、カレーパン!!?」
口元にマスタードが付着したままの顔を、キラキラと笑顔で輝かせるナギサ。
バスケットを飢えた野良犬のようにまさぐると同時に、人の顔ほどはあろう巨大なカレーパンを見つけ出した。
「はぁあぁ……!まさか、桜木堂のカレーパンを、生きている内に口にできる日がくるなんて……!!」
カラッと油で揚げられた衣。食欲をそそる狐色のパン生地からは、まだ穴が開けられていないにもかかわらず、中に潜む本命が醸し出す、濃厚な刺激的香りが漂っている。
口の端からつーっと涎を垂らすナギサ。
チラ……と、先生の顔色を窺った。
「……えぇっと、その、先生……」
「いいよ。ナギちゃんが全部食べても」
「!よ、よろしいのですか……!?このカレーパン、一日に数個しか作れず、材料の関係でその製造日もまばらという、余程の幸運が無ければ手に入ることすら……それを、私一人で……」
「いいんだよ。私はナギちゃんが幸せそうに食べてる姿が見たくて、朝から頑張って並んだんだから。思いっきり頬張っちゃいなさい」
「先生っ……!ありがとうございますっ……!」
目を潤わせながら、感謝の念を込めた一礼をする。そして、お嬢様とは思えない豪快な一口でかぶりついてみせた。
弾けるような音色で歯が立てられる衣。開けられた穴からドロリとカレーが流れ出る。具がふんだんに詰め込まれたルーが口内に広がるのと、ナギサが感嘆の声をあげるのは、殆ど同じタイミングだった。
「んんっ……!!」
舌を刺激するスパイスのジャブが放たれる一方で、ルーの中に混ぜられたジャガイモや人参の甘味が織り成す優しい味わい。カレーは毎日食べても飽きない、カレーは飲み物、そんなジョークが作られた原因こそ、この共存する二つの旨味が故だろう。
そして、そんな完璧なルーと完璧なコンボを果たすのが、揚げたての衣。咀嚼する度にカレーと混ざり合い、はじめはサクサクとしていた食感が、次第にしっとりと味わい深い噛み心地に変遷する。
「しゃぐっ……はむ、むっ、もぐ……もしゃ、もしゃ……」
当然。止まらない。
あれだけパンを食べた後だというのに、ナギサがカレーパンに食らいつき、貪るスピードは、まるでフードファイター。
「……けふっ。満足です。」
気付けば、完食。ビッグカレーパンはものの数分でナギサの胃袋に吸い込まれ、亡きモノと変わり果ててしまった。
カレーの油で口元をテカテカと輝かせながら、恍惚そうな表情を浮かべるナギサ。さも満腹、と言いたげな態度を取っているように見えるが、その実、エプロンに包まれたお腹周りは、ぼよんっとだらしなく分厚い段を形成したまま。まだまだ余裕はありそうだ。
「美味しかった?」
「はい!とても!!」
「はは、それはなにより。……よかったらクリームパンも食べる?辛い物を食べた後は甘い物が恋しくなるかと思って、一応買って入れてあるんだけど」
「っ!き、聞き捨てなりません……!!」
キリッと目つきを鋭くしたナギサ。
再びバスケットに手を入れた後、二つのクリームパンを取り出した。
先程とは異なり、標準的なサイズ。しかし、そのズッシリとした重みは、中に眠るクリームの濃厚な存在感をナギサの両手に訴えかける。
辛い物が好きで、甘い物はもっと大好きなナギサ。クリームパンを見比べた後、先生の顔を心配そうに見つめた。
「……その、この立場に相応しくない、意地汚い頼みと分かってはいるのですが────」
「二つとも食べな。一個じゃ足りないでしょ?」
「先生!!大好きです!!!」
クリームの甘味と滑らかさを存分に楽しむが如くして、もっきゅもっきゅと食べ始めたナギサ。
カロリーも体型も気にせず、欲望のまま、一心不乱に食べ物を胃袋に流し続ける一人の大きなお嬢様。
「……可愛いなぁ」
「────」
そんな少女の食事風景。一方はニコニコと幸せに満ちた笑みを浮かべながら眺める。
しかし、もう一方は、己が記憶にある桐藤ナギサの姿とはあまりにもかけ離れた衝撃的な光景を、ただただ絶句したまま見つめることしかできていなかった。
(な、なんなんだ……この珍妙な有様は……)
そう。セイアは思い違いをしていた。
彼女はてっきり、ナギサが激太りした原因は、ティーパーティの責任を一人で引き受けていたことによる、心因性によるものだと考えていた。
だが、実際はどうだ。目の前に並び立つ食べ物を何の自制心も持ち合わせないまま、ただただ食らい続ける怪物の姿が映し出されているではないか。
しかも、あろうことか。その原因が、自分の信頼していた大人にあったものと判明してしまったのだから、セイアの困惑もひとしおである。
じとっ……と。セイアが先生に、友を変わり果てた姿にした恨みと軽蔑の意を込めた眼差しを突き刺した。
「……?」
寄せられた鋭い視線に、先生は首を傾げる。
しかし、すぐに合点がいったとばかりに頷いた。
「ナギちゃん。セイアがナギちゃんのお腹触ってみたいんだって」
「は?」
「……へっ!?セ、セイアさんが……!?」
バスケットの中に手を入れかけていたナギサが、びくんっと肩を震わせ、先生……そして、同様に目を丸くしているセイアに目線を向けた。
ナギサの目には、「セイアさんも、そういうご趣味が」と言いたげに、感心と驚愕の混ざった感情が入り混じる。その致命的な勘違いを前に、セイアは堪らず先生に抗議を試みた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ先生。いきなり何を……」
「え?違うの?」
「……私の言葉足らずな短所が故だとは理解しているが、それにしたって、どこをどう解釈すればそういう結論に至るんだ。後学のために説明してくれ。二度と同じ過ちを起こさないためにも」
「セイアさんなら、か……構いませんっ……!」
「ええい、やかましい……!!少し黙っていてくれ……!君の短所はその一人で結論を急くところだと何度も────」
と。ここで。セイアの舌が止まった。
己が身を差し出さんとばかりに、両手を前に伸ばすナギサ。そんな彼女の腹部には、デニムエプロンと白いTシャツに包まれて尚、存在感を発揮する、でっぷりと迫り出した二段の分厚い贅肉が積み重なっていた。
丸椅子を三つ使わないと収められないデカすぎるお尻に、支えきれない重過ぎる身体。ぶくぶくと肥え太り続けたナギサの象徴ともいえる潤沢なボリュームの腹肉。
見識に富み、博学を誇る百合園セイアですら、未知のままである脂の塊。
セイアは唐突に、無性に、興味を惹かれてしまった。
「……いや、気が変わった。すまない、ナギサ。失礼するよ」
「は……はいっ……!」
じりじりと近づくセイアを前に、ナギサは顔を赤らめながら、ぎゅーっと目を瞑る。
その可愛らしく初々しい仕草。セイアは罪悪感を覚えると同時に、どこか嗜虐心をくすぐられる快感に感性を刺激された。
図鑑ほどはあろう分厚い下っ腹。セイアの手が、ゆっくりとその贅肉に手をかけた。
「はうっ……」
「ふおぉ……」
その白魚のように細い指が、ズブブ、と皮下脂肪に沈み込む。
ナギサが未だ慣れない刺激に、そしてセイアが柔らかさに感動し。両者が声を上げたのは、全く同じタイミングであった。
「ブ……ブヨブヨじゃないか……!!」
マシュマロのように柔らかく。それでいて、お餅のようにしっかりとした弾力もあり。あれだけパンを食らい尽くしたというのに、その脂肪だらけのお腹には、まるで張り詰めた印象を感じさせない。
そのセルライトが織り成す独特な揉み心地は、徐々に中毒性に変化し、セイアの好奇心を益々刺激する。
目を光らせながら、ぎゅむぎゅむと腹肉に手をかける彼女の腕には、次第に力が入っていった。
「脂肪というものは……ふぅっ……くっ、馴染みがなかったが……んしょっ……これが、なかなか、どうして……存外に……はぁ、悪く、ない……!」
「んっ……!はっ、ふぅ……!セ、セイアさん……!!そ、そのっ……そろそろ……!」
セイア本人は、まるでパンを捏ねるように一生懸命揉んでいるつもりなのだが、その乏しい腕力は中途半端にナギサの脂肪を刺激し、まるでくすぐられているようなむず痒さを引き起こす。
ギィッ……ギシッ……!!ミシッ……!
痒さに耐えようと身を捩る度に、ナギサの130キロを軽く超える巨体を支える三つの椅子が、悲鳴のような軋みを轟かせた。
「どうだ、すごいだろう。ナギちゃんのお腹は。ろくに運動せずバクバク食べて摂取した栄養素がたっぷり蓄えられた可愛い最高のお腹だ。勿論、ナギちゃんそのものも、可愛い」
「む……」
お腹から手を離さず、先生の言葉につられるようにして、セイアがナギサの顔に目線を合わせた。
「はぁ……はぁ……セイア、さん……すみません、これ、いじょうは……はふぅ……ふひぃ……わたしの、たいりょく、がぁ……」
ギトギトとした汗が、その丸みを帯びた愛らしい頬を伝って床へ落ちる。
潤沢に満ちた顎肉が荒い呼吸の度に細かく震え、目元には疲労とくすぐりによる涙が浮かび、ナギサの美しい金の目が、うるうるといじらしく潤う。
そのあまりに弱弱しい、捨てられた子犬のようなナギサを前にしたセイア。頬を僅かに赤らめ、ぐぬぬと眉間にシワを寄せた。
「確かに、まぁ……可愛くないと断ぜられるほど、醜いとは、思えない……が……」
「……というか、アレだな。セイアだけズルいな。私も久々に触りたい」
「え!?せ、先生まで!??」
「私も……もう少し、脇腹を触ってみたい……ぽよぽよしてそうで……」
「セイアさん、ちょ、まっ────」
二人同時に攻め立てられ、ナギサが動揺から重心を後ろに後退させる。
────その時、彼女の座っていた椅子の一つが、明らかに軋みを超えた、何か木材が捩じ切られるような音を盛大に響かせた。
「────へ」
瞬間。ナギサの巨体が一瞬だけ宙に浮く。
ベキョベキョベキベキッッと、崩壊するように砕け散る椅子。支えを失ったナギサは、そのまま勢いよく床めがけて垂直落下を開始した。
「ひゃあぁっっ!!!??」
古い木材の床に、隕石のような破壊力でナギサの巨尻が叩きつけられる。
響く地鳴り。割れ砕ける床。粉々になる椅子だったモノ。
舞い上がる埃の煙が晴れる頃には、木材資源ゴミを座布団代わりに、呆然と尻もちをついたナギサが、唖然とした面持ちで虚空を見つめていた。
「…………」
「…………まるで迫撃砲だ」
「こらっ!……ナギちゃん、け、怪我は……」
「う……ぐすっ」
ナギサの目が、じわりと涙で潤った。
それがケガによる痛みなどではないことくらい、二人は容易に察することができた。
「何故……何故、私のお尻はこんなに大きいんですかぁ……」
「な、泣かないで!ナギちゃんのとんでもなくデカいお尻は長所だよ!!」
「何が長所ですか!!いい加減なことばかり!!先生を椅子にしますよ!!!……うぅ、お気に入りの椅子が……」
バラバラに砕けた椅子の残骸を、名残惜しそうに拾って眺めるナギサ。
半ば自業自得とはいえ、流石にその哀愁漂う有様には、セイアも心配そうに様子を伺ってしまう。
「……代わりの椅子では駄目なのかい?」
「私、昔からこれがないと絵が描けないんです……。高さも硬さも丁度よくて、太った今でも予備を総動員して無理やり使っていたくらいには、この椅子の存在に頼っていたんです。……もうすぐ絵が完成するという大事な時だからこそ、欠かせない相棒だったんですよ……」
羽を床にへたれさせ、しゅんと落ち込むナギサ。
ただでさえ運動が苦手だというのに、自分の得意分野でもあり、大切なインドア趣味だった絵画を奪われたショックは、計り知れないものだろう。
先生とセイアは、お互い神妙な顔つきを交わし、見つめあった。
「……この手の家具はオーダーメイドだろう。ナギサがいくら重いとはいえ、人の体重でここまで壊れてしまうということは、それだけ劣化していた……つまり、随分昔に作られたものである可能性が高い」
「再現性は低い、ということか」
返答を頷きとしたセイア。先生は悔し気に腕を組む。
「せめて、この椅子の高さと同じで、それでいてナギちゃんの体重に耐えうる耐久性を持った椅子があれば、手の施しようはあると思うんだけどなぁ……」
「そうだね……せめて、丈夫であれば────」
その時。百合園セイアに電流走る。
瞬きすら惜しいと言わんばかりの目力で、先生をじっと凝視した。
「…………」
「…………?セイア?どうしたの、また見つめて……」
「……先生、すまない。一度四つん這いになってくれないか」
「え?うん、別にいいけど」
言われた通りに、両手両膝を床に付く先生。
その光景を変わらず鋭い眼光で見つめるセイア。
「……天啓、と言ったところか」
小さく、そう呟く。
彼女の口元は、不気味に笑みを表すかのごとく、僅かに緩んでいた。
●
●
●
「私『先生』を椅子にする!!??」
息ピッタリの絶叫が、傾いた小屋の中で反響する。
目を見開いて驚愕している二人に対し、セイアは自信を垣間見せる落ち着いた表情のまま、こくりと頷いてみせた。
「あくまで私の直感だが……先程四つん這いになった先生が、ナギサの座っていた椅子の高さに酷似していたように思える。よく鍛えている彼の身体ならば、君の重みにも耐えうる丈夫さを保持しているだろう。無論、確証なんて洒落たものはないが……どうだい?やらない後悔よりも、やる後悔だと私は思うがね」
ちらっと、セイアが先生に向けて流し目を送る。
「……それに、先生が生徒の頼みを断るわけがない。生きた人間を尻に敷くなら、彼以上に適格な存在は有り得ないだろう」
「いやまぁ、私は別に構わないんだけど……」
手渡された流し目を、そのままナギサへとバトンタッチする。
向けられた先生の顔を直視できないのか、床と彼の顔を何度も往復するナギサ。恐らく、次に彼が聞こうとしている質問内容に心当たりがあるのだろう。
「……ナギちゃんって、今何キロ?」
「う……」
女の子が最も忌み嫌うクエスチョン。それは、誰が見ても肥満体型であるナギサにとっても同様で、実に耳の痛い質問であることに変わりはなかった。
「えっと……その、私……最近パスタにハマっていまして……。ですから、た、体重が……」
後ろめたい事実。それを隠すかのようにモジモジと回りくどく言の葉を紡ぐナギサ。
頬を赤らめながら、まるで皿を割ってしまった子供のように不安げに顔色を窺ってくる彼女に対し、先生は穏やかな笑みを向けた。
「安心して。もしナギちゃんの体重が増えていても、私は呆れたり怒ったりしないから。君が幸せそうにご飯を沢山食べている姿を可愛いって思っている癖に、いざ太ったら健康を盾にお説教だなんて、そんなの可哀想だろう?」
「…………で、ですが」
「ナギちゃん、これは大事なことなんだ。決して興味本位とかじゃない。君が何キロなのかをしっかり把握した上で、心構えをしておかないと、思わぬ怪我に繋がる恐れもあるからね」
優しく、それでいておべんちゃらでも嘘でもない、心からの言葉。それが、硬く閉ざされたナギサの口を、徐々に緩め、こじ開けていく。
「…………」
ナギサが気取られぬように、一瞬だけセイアに目線を向ける。すると、おもむろにスマホを取り出し、何やらたぷたぷと文字数字を打ち込み始めた。
「ん」
数秒後、先生のスマホが軽やかな音色を奏でる。
画面を見た先生。眉間にシワを寄せた後、天井を仰ぎ見た。
「────まぁ、死には、しないかぁ……」
「なんだ、ズルいぞ君だけ」
「まぁまぁ。個人情報ですよ個人情報」
ニヤニヤと笑みを浮かべながらスマホをしまう先生。
そんな彼に対し、不満げにムッと顔をしかめてみせたセイア。嘆息すると、ナギサに対して向き直る。
「……と、まぁ。幸い、先生も実に好意的な様子だ。これで君も心置きなく身を預けられるというものだね」
「…………」
「……ナギサ?」
閉ざされていた道に光が差し、ようやく解決の糸口が導き出されたというのに。ナギサの表情は、何故か重く沈んだままだった。
羽は気力を削がれたように萎び、ただでさえ猫背な姿勢は、輪をかけて丸みを帯びている。そんな彼女の口から放たれた言葉は、セイアを思わずフリーズさせた。
「────嫌です」
「は?」
「……嫌です。私、先生の背中に座りたく……ありません……」
「な……」
セイアの知るナギサが、おおよそ取らないであろうハッキリとした拒絶の意思。駄々を捏ねる子供のような彼女の態度に対し、セイアは驚きで目と口をぽかっと見開いた。
「ナギサ、どうして……」
「それは……」
ナギサがちらりと先生に目をやった。
少女の問い伺うような目線の意図を察してか、先生は目を細めながら首を横に振る。
しかし、その答えを想定していたであろうにもかかわらず、ナギサは滑る口元を抑えきれない。
「……先生はとてもお優しく、誠実な方です。いつもこうして様子を見に来て下さるのも、美味しい物を私のために労を厭わず差し出して下さるのも、ひょうきんな態度で揶揄って下さるのも……全て、太った私が自分自身に落ち込み、沈んだ毎日を送っていないか、今でも心の底から心配して下さっているからだと、分かっています。私は……先生がいなかったら、今頃どうなっていたか……」
顔を赤らめながら、本音を絞り出したような言葉を呟き続けるナギサ。
セイアは違和感を覚える。
これは、明らかに超えている。ただの先生と生徒、その一方から向けられる感情という名の矢印にしては────。
────どう考えても「太すぎる」。
セイアは気づいた。言われずとも、察してしまった。
「────君、まさか」
「私、先生のことが大好きなんです。そんな、心から愛している方が……たとえ、当人が受け入れて許しを施してくれると分かりきっていても……苦しんだり、痛い思いをしてしまうのは、嫌なんです……」
「…………なんと」
セイアがすぐさま先生の顔色を確かめる。
目頭を押さえ、苦々しい表情を浮かべる先生。セイアの驚愕に満ちた反応に対し、彼は絞り出したように唸り声を溜息を発するのみだった。
「先生。私以外に、この事を知っているのは……」
「ない。ミカだけだ。……いや、察しの良い子の中には気付いている子もいるかもね……」
「……やれやれ」
何故、いつもいつも知らない方が幸せな面倒な秘め事ばかり知ってしまうのか。
セイアは己の、ある種不運な体質に呆れを抱きつつ、ナギサの顔をじっと見つめた。
「石頭の君から、まさかここまでいじらしい言葉を聞くことになろうとはね。これが先生の言う『教育』の賜物というやつか」
「……言っとくけど、先に告ってきたのはナギちゃんだからね」
「先生っっ!!!」
今日一番、大きな声が悲鳴交じりにナギサから発せられた。
彼女が顔を真っ赤に染めているのは、羞恥心か、怒りか、はたまた。
セイアはそんな友人の気持ちを想像するだけで、心の奥底からドッと活力が消え失せていくのを感じた。
(……女子、三日会わざればなんとやら、と言うが……)
ナギサも、もう17歳。色々と経験を経て、様々に変化していくには当然ともいえる年代だ。
しかし、いざその変化を身近な人物を通して味わうと、やはり流石のセイアとて衝撃が強いのも無理はない。
ナギサと先生はどこまで進んでいるのか。
二人の馴れ初めはどういったきっかけだったのか。
お互いが、お互いのことをどう思って居るのか。
バケツをひっくり返したように溢れ出てくる疑問の洪水。
「セイアさん」
そうして、セイアの心が渦を巻き始めたところで────声をかけられた。
「……な、なんだい」
「その……ご、ごめんなさい」
「え」
「本来は、セイアさんには、もっと早くお伝えすべきことでした……。決して、決して、努めて隠そうとしていたわけではないんです。……言い出す機会と勇気が、なかったんです」
「………」
「……幻滅しましたか?このような、不純な関係性を、先生と……」
「────いや」
セイアは、気づけば。
否。彼女自身でも気づかない内に、自然と表情筋に笑みを設けていた。
そして、内心、己で己を嘲笑う。
(私も、疎外感や嫉妬心で心を波立たせるような……そんな、人並みの情緒を持ち合わせていたとはね)
案外、まだまだ子供なのかもしれない。セイアは静かにそう感じた。
「私は、君と先生がどのような経緯を通して、そこまでの深い関係性に至ったかは知り得ないし、知りたいとも思わない。……私は、これでも君を信頼しているし、君からの信頼をもっと得たいと願っている。それはきっと、私以外の生徒もそうなんじゃないかな」
「……?セイアさん、その、つまり……?」
「……そうだね。まぁ、アレだ。もっと手とか繋いで、そこら中ドカドカ歩き回ればいいんじゃないか」
「なっ……!!!」
「ふふ、冗談だ」
ボッと紅潮し、ヘイローを高速回転させるナギサをよそに、セイアが先生を流し目で見つめる。
トリニティが変わるきっかけが仮にあるとすれば、それはこの二人が切り開いていくのではないか。
そんな冗談めいた想像を浮かべながら、クスクスと微笑んだ。
「そもそも。君も正直になれ。どうせ心の奥底では『先生に自分を物理的にも受け入れて支えてほしい』とか考えてるんだろう、どうせ」
「う……そ、それは……」
「何キロだろうが何トンだろうが、少女一人支えられない男性なんて、どうせろくな男じゃない。そうだろう、先生」
「その通りだ。女の子の重みこそ人生だからね」
「馬鹿もこう言ってる。ナギサ、先程も言ったが物は試しだ、一度チャレンジしてみないかい」
「…………」
セイア、そして先生。二人から寄せられる背中を押すような言葉と態度に、ナギサはおろおろと狼狽える。しかし、翼は正直なのか、しきりにパタパタと可愛らしく抜け羽根を散らすばかり。
ナギサとて、内心思っている。先生に、軽やかにもう一度抱き上げてほしい、そんなお姫様のような淡い願いを。
「………そ、それでは」
甘え下手で頑固者なナギサが、首をゆっくりと縦に振るまでには、存外そう時間はかからなかった。
●
●
●
「じゃ、じゃあ、行きますよっ……!」
「うん」
四つん這いに体勢を整えた先生の背中。
その上空に、大きな大きなナギサのお尻が聳え立つ。
「……っ」
緊張から、ナギサの身体がぷるぷると震えた。仮に、ここで腰が抜けて真っ逆さまに先生の背中に尻もちを直撃させようものなら、物の見事に背骨が粉砕するだろう。
簡単に人の命を奪ってしまいかねない、そんな有り得ない体重。
(もう少し……もう少し、痩せておけば……!)
そんな何万回目の後悔を内で反芻させつつ、ナギサはゆっくりと深呼吸した。
ゆっくりと、それはもうゆっくりと、ナギサの巨尻が降下する。そして、先生の背中に「ズンッ……」と重々しく、お尻の脂肪を横に潰れ広げながら、着陸を果たした。
「う゛ッ」
メキッゴキッ。背骨がへしゃげ、軋む生々しい音が響く。大人の男性として相応しい広い背中が、ぶくぶく太った一人の天使の巨体、その山のような脂肪で埋め尽くされていく。
自然と、先生の背中が少しだけUの字に曲がっていった。
(おっっっっもっっっっ………!!!!)
ミシ、ミシ。ギシ。
膝、腰、全身の骨の一本一本が、常識を超えた重量負荷によって、ヒビが入りそうなくらい歪んでいく。背骨が今にもブチ折れそうなくらいの鈍痛が走り、先生は絶叫してしまう衝動を必死に堪え、我慢した。
(デ、デブすぎる……!!こ、こんなに重かったのか、ナギちゃん……!!)
先生は、正直舐めていた。
最後に彼が彼女の重みを味わったのは、まだナギサが101キロという可愛らしい体重だったころ。
そこから、ナギサはすくすくと成長していた。その30キロ規模の増量値を、彼は完全に侮ってしまっていたのだ。
130キロ級からすれば、30キロなんて誤差。自分は一度、三桁を超えるナギサを抱いたことがある。
その高慢な思想に対して、神は骨を砕かんとばかりに罰を与えていた。
「わっ……!」
同時に。堪えるような先生の呻き声をかき消すかのように、ナギサも声を上げる。
それは、予想を遥かに超える座り心地の良さが故であった。
「どうだい、ナギサ」
「すごい……すごいです!!高さはピッタリ、座り心地も、先生の背中が丁度木材のような適度な硬さを保持していて……!!これなら、なんとかなりそうです!!」
「……ふぅっ、ぐっ……それは……はぁ、うっ、ふぅ、よかっ……た……」
「……はっ。そ、そうです!先生の方は大丈夫ですか!?」
ナギサが最も恐れていた、座った瞬間に先生が耐えきれず崩壊するようなシナリオは避けることができた。
しかし、それでもナギサの心配は消えることがない。丸々と肥えた殺人級の巨体を、その身一つで支えてくれている先生の容態が気がかりなのか、尻に敷く彼の苦しそうな声色一つ一つに、不安げな反応を見せる。
「お、重くないですか……?どこか、どこか痛むところは?苦しい際は遠慮なく、迅速に、いつでも仰ってくださいね……!私もすぐに立ち上がりますので……!」
「いや……だい、大丈夫……!!思ったより、重くなくて……おどろ、ふぅ、驚いてる、から……」
「……本当ですか?」
「ホント、ホント……だからナギちゃんは、気にせず……絵、かいて、て……!」
「…………」
明らかに覇気のない声色。微かにぷるぷると振動している背中。
どこからどう見ても、先生が太り過ぎた自分の重みに苦しんでいることは明白すぎるくらい明瞭だ。
当たり前だ。ナギサの現体重は、139キロ。一人の女の子の体重として、常識では考えられない重量を受け止めておいて、平気でいられるわけがないのだ。
それくらい、ナギサとて分かっている。それこそ、一瞬お尻を浮かせてしまおうか、とも。
……しかし。同時に、ナギサは自分の中で新しい感情が芽生えていることも自覚していた。
「………えいっ」
「……ッ!?ぐっ……!」
ナギサがおもむろにお尻を数センチ浮かせる。そして、軽く、小突くような勢いで、再びズシッとお尻を押し付けた。
ずしっ……ずしっ……ずしっ……
それを何度か繰り返す。念入りに。自分の中で芽生えた感情が何なのかを、丁寧に検証していくように。
「うっ……ぐっ!はぁ、うぐっ……!!ふぅ、ぎっ……!!」
先生の背中には、まるでプロボクサーのジャブのような衝撃が何度も加えられ、堪えていた悲鳴も次第に声量を大きくなっていった。
「ナ……ナギ、ちゃん……?その、ごめんけど、あまり、動かないで、もらえると……」
「…………」
(なんでしょう、この、感覚……)
先生の悲鳴。本来ならば、聞くだけで罪悪感から胸が苦しくなる筈なのに。
体重をかけ、少し弄んでやるだけで、まるでステッキを振るう魔女のように、大好きな男性が発する呻くような声を、自由自在に引き出すことができる……そんな、ある種の万能感。
「……たのしい」
ぽつりと、ナギサが無意識に呟いた。
心優しく、お淑やかで、今までの人生において、己が欲望で他者をぞんざいに扱ったことがなかったナギサにとって、経験したことがないような感覚。
ナギサの背筋に、ゾクゾクとした快感が走った瞬間だった。
「────ナギサ?」
「……はっ」
「どうしたんだい?先程からぼーっとしているようだが」
「だ、大丈夫です!その、この絵をどう完成に近づけようか、考えていまして。やはり、最後の仕上げが一番大切ですから」
「ふむ、なるほど」
キャンバスを眺めるセイア。
ナギサの手がけていた絵は、立派な龍が中心に描かれた、とてもインパクトのある一枚だった。
トリニティでポピュラーなドラゴンチックな西洋竜ではなく、山海郷で見られるような、長く太い蛇のような東洋龍。その周囲には、曼荼羅のような神々しく神秘的な文様が、デッサンの狂いなく刻まれている。
そんな鋭い爪や煌びやかな鱗を身にまとう龍の頭。それは何故か、牙も眼もない、一本のロールケーキになっていた。
絵を見つめるセイアの目。そこには、得体の知れないモノに対する恐怖と困惑が滲み出ていた。
「……私には意味の分からない一枚だが、きっと、絵画に造詣の深い君だからこそ込められている拘りがあるんだろう。……題名は?」
「既に決まっています。『聖国縫合龍・ロールケー=キーナリー』です」
「なんて?」
「トリニティ市街の病院から、『入院している患者が元気を貰えるような絵を描いてほしい』という依頼を、私、桐藤ナギサ個人宛てにいただきまして。……ふふ。当初は驚きましたが、きっと、展覧会での私の絵を気に入って下さったのでしょう。こういった形でトリニティの平和を支えていく方法もある……指名され、託された一人の絵描きとして、精一杯取り組むと決めたのです」
ナギサがセイアに対して、屈託のない笑顔を向けた。
「セイアさん、本当にありがとうございます。この絵を後悔の残る一枚にしたくはありませんでした」
「…………あぁ、うん。そうだな。君はそういうヤツだ。話は変わるが、題名は変えないか?」
「嫌です」
「なら、せめてこの龍の周囲にいる、頭がロールケーキになったまま炎に焼かれている全裸の人間の絵はどうにかしないか」
「嫌です」
「……承知した」
諦めたように溜息をついたセイア。
そして、膝を屈め、四つん這いになった先生に、耳打ちするようにして口を近づけた。
(……頑張ってくれ給えよ、先生。面倒臭いぞ、私の親友は)
託すような思いの乗った一言。
一方の先生は、返事をする余裕すらないのか、身体を重みに耐えながら必死に震わせるのみ。
セイアは無言でポンポンと先生の肩を叩き、せめてもの励ましを送るに留めた。
「……さて」
アトリエを見渡す。机の端に置かれていたバスケットを見つけると、そこからメロンパンを一つ取り出した。
手ごろな椅子に腰かける。メロンパンを小鳥が啄んだのではないか、と見紛う程に小さい一口で齧ると、絵筆を真剣に繰るナギサを穏やかな面持ちで眺めだした。
「思えば、初めてかな」
「……初めて?」
「君が絵画に耽っている様を、こうして時の流れに身を任せながら眺めるのは」
「あぁ……ふふ。そうですね。そもそも……私もセイアさんも、ミカさんと違ってあまり積極的に干渉しあうタイプではありませんでしから。余暇を共にする以前に、お茶会や会議以外で口を交わすことすら、稀でしたね」
「……そういったポイントだけは、ミカを見習うべきかもしれないね」
「もう、ミカさんが聞いたら怒りますよ?」
「それもそうだ」
狭く、古い木材に囲まれた一室で、重なり合う微かな笑い声が響いた。
ナギサが再びキャンバスに向き合う。恐らく、ロールケーキの生地の表現に尽力しているのだろう。
「────これからも、こういった時間を過ごせればいいね」
セイアが、誰の耳にも届かないような呟きを零す。
それは、今までの自分の他者との交流における反省でもあり。
変わりゆくトリニティ。変わりゆく親友に追いつかんとする、健気な宣誓の表れでもあった。
●後書き
どうも。瀬戸内海一のハンマー使い。ユキムラです。何故、香川県にはため池が多いのか、理由をご存じでしょうか。僕がハンマーで穴を開けたからですよ。
さて、先月末に投稿した僕の小説「Bunny Angel」は読んでいただけましたでしょうか。こうしてこの文章を100円払って読んでくださっているということは、きっとそうだったのだろうと願うばかりです。
そんな小説のエピローグ。テーマは「不器用」ですね。当初セイアちゃんを出す予定はなかったのですが、まぁ、周年イベントで元気な様子を散々見せつけられたのと、結局ナギちゃんと喧嘩したまま、その後の描写がないまま終わってしまったもどかしさ(きっと仲直りしてくれたのでしょうけど)があったのと、そして、チキって本編でセイアを出せなかった悔しさから、こうして登場人物の一人として加えることになりました。個人的には、いざ書いてみると思ったより手に馴染む女の子なのが判明し、書いていて割と楽しかったです。
また、こうして初めて稼働したファンボックスですが、反応や運営の仕方に不満がなく、好評なようでしたら、今後も適度に稼働していく予定です。半年に一回くらい?多分。基本は無料で全部公開していきますので、その辺はご心配には及びません。
それでは。ご意見・ご感想、僭越ながらお待ちしております。