『黒鉄プロレスリング』にようこそ01-06 / 14,000字程度 (Pixiv Fanbox)
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1.
ガタン、と大きく車体が揺れ、吊り革を握る手に黒崎徹志はぐっと力を込めた。
締め慣れないネクタイが首に食い込んでいて、落ち着かない。
やはり、スーツは性に合わないなと黒崎は思った。
黒崎は、スーツを着ているときに感じる独特の蒸し暑さがどうにも息苦しくて苦手だった。リングの上や練習場で選手たちとぶつかり合う時に感じる、あの汗の混じり合った熱気とは全く違う。
だが、今日ばかりは仕方がないと黒崎は思った。
小脇に抱えたビジネスバッグの中。
安っぽい賞状の入った筒が、その理由だ。
地域スポーツ貢献者表彰。
県庁で授与されたその賞状は、黒崎個人というより、彼が率いる『黒鉄プロレスリング』という団体そのものに向けられたものだった。
リング上で熱くなって愚直に汗を流す選手たちの姿が、地域に何かしらの良い影響を与えたのだとすれば、それは団体の代表として、社長として、誇らしいことだ。
だからこそ、少々の窮屈さを我慢することなど、黒崎にとってそれほどの苦ではなかった。
窓の外では、華やかなビル群はすっかり遠ざかり、見慣れた灰色の煙突と巨大なクレーンが空を切り取り始めていた。無骨な工業地帯の風景、見慣れた街並みが窓の外を流れ始めている。
「もう少しゆっくりしても良かったかもしれないな」
黒崎にとって、地元は愛すべき街だ。
しかし、長く都市部での生活を経験している黒崎は、その良さも骨身に染みるほどに理解している。
いかんいかん。
黒崎は首を振る。この時間も選手たちは練習に打ち込んでいるのだから、社長がサボっていては示しがつかない。
肩が凝り、首を回す。
その時、黒崎は混み合った車内に初めて小さな違和感を覚えた。
なんだ?
言語化できない直感のようなものだった。
目で追うと、必要以上に女性に対して身体を寄せている男の姿に黒崎は気づいた。
最初はカップルかとも思ったが、違う。
女性は身をこわばらせており、その表情は硬く青ざめていた。
痴漢か。
反射的に身体が動きかける。しかし、痴漢行為そのものをはっきりと確認できているわけではなかった。
憶測で動くわけにはいかないと考えていた矢先に、女性と目が合った。切実に助けを求めている視線が向けられている。
窮屈なネクタイを緩める。
彼女の瞳からその無言の訴えを読み取った瞬間、既に黒崎の身体は動いていた。
小脇に抱えていたビジネスバッグを床に置き、静かに女性の元に歩み寄る。
視線を落とす。
男の手は、間違いなく女性の衣服の中に入り込んでいた。
「いて、いてててっ!」
手首を黒崎に掴まれ、捻り上げられた男は、苦痛に顔を歪めてわめく。
何事かと周囲の人々の視線が集まった。
「痴漢だ。誰か車掌を呼んでくれ」
黒崎の低い声は喧騒をものともせず、はっきりと車内に響いた。
2.
暗がりの中、タブレット端末を眺めていた男は、ひとつの記事に目を留めた。
そこには『お手柄! 黒鉄プロレスリング代表、電車内で痴漢を現行犯逮捕』という見出しが躍っている。
それはローカルなニュースサイトに掲載された、電車内での痴漢逮捕に関する短い記事だった。記事の中には、逃げようと暴れている痴漢をホームで取り押さえている最中、恐らくスマートフォンで撮影されたであろう動画が掲載されていた。
目を引いたのは、痴漢を取り押さえている大柄な男だった。
おそらくこれが痴漢を取り押さえたという『黒鉄プロレスリング』の代表なのだろう。動画越しに見ても、その逞しい体格がはっきりと分かる。
黒崎徹志。
男は、記事の中のその名前を指でなぞった。
偶然、このニュースを見るまで、男は自分の住んでいる土地に、こんなプロレス団体があることを全く知らなかった。
スクロールすると、動画の他にも写真が掲載されている。
堂々とした佇まいで賞状を手に持ち、視線を向けている『黒崎徹志』の姿。
彫りの深い精悍な顔つきだった。
男は、『黒崎徹志』を画面いっぱいにズームすると、親指の腹で、画面に映る彼の薄い唇を、ゆっくりと一度だけ撫でた。
『黒鉄プロレスリング』は、この地方にある小規模なプロレス団体のようだ。
公式ウェブサイトは、タブレットに最適化されていない昔ながらのホームページだった。
会社情報、代表者のページを開く。
黒崎徹志、41歳。
男は、黒崎徹志という名前に少しも聞き覚えがなかったが、独立以前は、それなりに名の通ったプロレスラーとして活躍していたようだ。
所属団体から独立した後は、この『黒鉄プロレスリング』を設立。
地域に根差したプロレスリングを目指すことをコンセプトに掲げていて、『受けの美学』こそがプロレスにおいて最も大切であり、いわゆる王道プロレスを志しているらしい。
――人生においても、『受けの美学』というものを私は大切にしている。どんなに過酷な状況であろうとも、耐えて耐えて、相手の全力を受けきって、そして勝つこと。そのためには、肉体とともに強い精神が重要だ。日々、研鑽を積み重ね、磨き上げられた魂でどんな困難も拒まずに受け入れ、立ち向かい、そして打ち克つ。私は、そんなプロレスを体現し、そんな生き様を残したい。
そんな男臭い文章を流し読みしながら、男は空想に耽り始めた。
例えば、『黒崎徹志』という器の中に、汚物を溢れるほど注ぎ込んだ時、それでもなお『黒崎徹志』は、彼の男らしさや信念を保ち続けることができるのだろうか。
男は『黒崎徹志』に対して、ある種の幻想を抱いていた。
『黒崎徹志』なら汚物に塗れようとも、決して屈するはずがない。
その精悍な眼差しで闘志を持ち続けるはずだ。
『黒崎徹志』は、過去に弄んできた玩具たちとは違う。
きっと彼ならば、期待に応えてくれるはずだと男は思った。
ページ下部に練習生募集のリンクがあることを、粘つくような視線は見逃さなかった。
「熱い魂を持つ若人、来たれ!」
「気概のある者のみ歓迎!」
これから始まる愉しみを予感し、男は舌なめずりをした。
3.
『黒鉄プロレスリング』の拠点は、臨海工場地帯の一角にあった。
もともとは工場だった社屋を買い取り、そこを事務所兼練習場として利用している。
練習場の中には、ラック、ベンチ、様々な重さのダンベルやバーベル、打ち込み用のサンドバッグなどトレーニング用器具が並んでいる。
ひときわ目を引くのは、練習用リングだ。
『黒鉄プロレスリング』の象徴であるブラックカラーをベースに、アクセントとして朱色を取り入れた特注のリングは、ところどころに傷みが感じられるが、丁寧に手入れされて使われているようだ。
時刻は、正午。
所属選手や練習生たちの荒い息遣いや、マットに叩きつけられる衝撃音が響く練習場は、熱気で満ちていた。
リングの上では、若い練習生と黒崎が組み合っている。
社長業の傍ら、黒崎もいまだに現役で興行を続けており、彼が若手相手に胸を貸すことも少なくはなかった。
「ギブッ、ギブギブ、ギブッ!」
リングの上、若い練習生相手にサブミッションを決めた黒崎は、ギブアップの宣言を受けて、力を緩めた。
「前に組み合ったときと比べて、かなり動きが良くなったな」
「あ、ありがとうございます!」
肩で息をしながらも、頭を下げる練習生。
黒崎がタオルを差し出すと、彼は、はにかみながらそれを受け取った。
リングから降りて、汗に濡れた上半身をタオルで拭っていると、中堅選手の坂口が黒崎に近づいてくる。
坂口は、黒崎と同じくパワーファイター型のレスラーだ。スキンヘッドの強面で、その体格も黒崎に全く劣っていない。決して人当たりが良いタイプではなく、若手に対しては、厳しい態度で指導をすることから恐れられている。どうやらトレーニングをしながら、リング上の練習を横目に見ていたらしい。
「社長、甘いっすよ」
坂口は、黒崎だけに聞こえるように言った。
「アイツの動き、まだまだ褒められたもんじゃないでしょう」
「良くなってるのは事実だろう。それに自分が未熟なことくらい、あいつ自身が一番よく分かってるさ」
「そんなもんすかね」
納得いかないという風に、太い腕を組む坂口。
それを見て黒崎は、小さく笑った。
「そんなもんだよ。お前が若手のときも似たようなもんだったぞ」
「いや、それを言われたら、何も言い返せないっすよ」
坂口は頭を掻いた。
彼の強面には、苦笑いが浮かんでいる。
坂口は、汗を拭き終えた黒崎に向かって、彼がリングに上がる前に脱いだTシャツを差し出した。黒崎は礼を言ってから、それを受け取る。
黒崎がシャツに頭をくぐらせていると、坂口がぼそりと「俺も」と一言だけこぼした。
「ん?」
「黒崎さんに褒められて伸びたタイプですから」
坂口が呟くように言うと、シャツを着終えた黒崎は、彼の肩を叩いた。
「違う。お前が伸びたのは、お前の実力だよ」
そして、どこか楽しげな調子で「俺から見たら、お前もまだまだだけどな」と、付け足して笑った。
そろそろ事務所棟に戻らねばと観念して、黒崎が練習後のストレッチをしていると、練習生の一人が備品を抱えながら通りがかった。彼は黒崎の姿を認めると、首をかしげる。
「あれ? 社長、練習場にいたんですか?」
「おう、どうした?」
起き上がり、黒崎は不思議そうに尋ね返した。
「13時から入団希望者の面接じゃなかったですっけ?」
「14時からだろ?」
二人は顔を見合わせた。
ぎこちない沈黙が生まれる。
「……電話応対したの俺だから覚えてるんですけど、確か13時からだったような」
黒崎は答えず、手早くポケットからスマートフォンを取り出すと、スケジュールアプリを開いた。
思わず天を仰ぐ。
「やっちまった」
「何か手伝いましょうか?」
練習生は手に持っていた備品を脇に下ろして、気遣うように言った。
「いや、大丈夫だ。すまんな、ありがとう」
そう礼を言い残し、黒崎は事務所棟へと急いだ。
4.
『黒鉄プロレスリング』の事務所棟。
2階の廊下に、コツコツと二人分の硬質な足音だけが響いている。
前を歩いているのは、『黒鉄プロレスリング』代表の黒崎徹志。
黒崎は、Tシャツにジーンズというラフな格好だ。片手には、履歴書などの書類が入ったクリアファイルを持っている。
今回の入団希望者は、安川康弘という名前の青年だった。
安川は、Tシャツ越しにも分かる立派な背中を見つめながら、黒崎の後ろを歩いていた。
地方の小規模なプロレス団体である『黒鉄プロレスリング』に、練習生としての新規で入団を希望する人間は少なく、入団テストをすること自体、稀だ。
『黒鉄プロレスリング』では、練習生の入団テストとして、面接と基礎体力の確認を実施する。入団テストは、代表である黒崎が直接、担当していた。
面接のために用意された部屋は、二階の廊下の突き当りのすぐそばにあった。
革張りのソファとローテーブル、そして棚などのいくつかのインテリアがあるだけのシンプルなレイアウトの部屋だ。
ソファのスプリングを大きく軋ませながら、黒崎は、どさりと深く腰を下ろした。
「自由にかけてくれ」
促されるまま、安川も遠慮がちにソファに腰かける。
「君が、練習生志望というのは間違いないか?」
黒崎は、クリアファイルの中の書類に目を通しながら尋ねる。
「はい」
「プロレスラーになることを志しているということだな?」
「そうです」
そう頷いた後、安川は、所在なさげに座り直した。
「……あの、やっぱり僕、場違いでしょうか?」
「場違い?」
質問の真意を測るように、黒崎は安川の顔に目を向ける。
「本当は、体力にも全然自信がないのに、ただ憧れがあって、その気持ちだけで申し込んでしまって」
黒崎は、安川の身体を一瞥した。
最初に顔を合わせた段階で察してはいたが、この安川という青年は、お世辞にもプロレスラー向きの見栄えがいい体格をしているとは言えなかった。それどころかまともな運動経験があるのかどうかすら怪しい。もし坂口あたりならば、門前払いしてもおかしくない、と黒崎は思った。
「確かにプロレスラーにとって、もちろん体力は大切だ。うちでも入団前に基礎体力を測るテストをしている。もしかすると君は、基準をクリアできないかもしれない。だが、実をいうと、俺はテストの結果をそれほど重視してない」
「えっ? そうなんですか?」
安川は、少し驚いたようだった。
「プロレスラーを目指すことも、それを生業として続けていくことも、どちらも険しい道のりだ。もちろん、その険しさに大小はあるだろうが、練習生だろうと、新人だろうと、たとえベテランだろうと変わらない。それは、身体能力の有無や、筋肉の量、運動経験の多さだけで覆るようなものじゃない」
一呼吸おいてから、黒崎は言った。
「プロレスラーに一番必要なのは、精神力だ。どんなに肉体的に恵まれていても、続ける意思を持てなければ、結局はそこで終わりだからな。憧れだけだと君は言ったが、もし君が本当にプロレスを愛し、その道を本気で志しているのだとしたら、俺はその気持ちを支持するよ」
「それなら――」
「しかし、だ」
黒崎は、鋭く安川の言葉を遮った。
「それは、もし君が、本当にプロレスを愛し、本当にプロレスラーを志しているならば、という前提の話だ」
「あの、それは、どういう意味ですか?」
困惑したように安川は尋ねた。
「単刀直入に聞くが、君はプロレスに対して、それほど興味がないだろう?」
黒崎の問いかけに、安川はショックを受けたように肩を震わせた。
しかし、すぐに首を横に振り、そして訴えるように口を開く。
「そんなことありません。僕は本当にプロレスラーに憧れて――」
「それなら君が一番好きなレスラーは、誰だ?」
「えっ」
唐突な問いかけに、安川は即答できず、一瞬、視線を泳がせた。
「俺は今まで何十人と練習生を見てきたが、本当にこの世界を目指す奴は、決まって目を輝かせながら好きな選手の名前を語るもんだ。ぜひ君の憧れを、聞かせてくれ」
安川は少しの間、押し黙ったあと、じろりと黒崎を見た。
「僕が嘘をついているって言いたいんですか?」
今までの柔和な表情は消え失せて、その奥には薄っすらとした苛立ちの色が滲んでいる。
「君が嘘をついているかどうかは知らんが、言動、表情、そしてその目に宿る熱量。話している相手が、プロレスに対して本心から向き合っているかどうかくらいは、簡単に分かるさ」
黒崎は、静かに安川を見据えた。
僅かな沈黙のあと、安川は少しばつが悪そうに笑いながら、肩をすくめた。
「よく分かりましたね。演技力には結構、自信があったんだけどな」
ふうと息をつき、姿勢を崩し、リラックスした様子でソファに座り直す。
「やっぱり、黒崎さんくらい本気でプロレスに向き合ってる人には分かっちゃうんですね。すごいな。おっしゃる通り、僕、プロレスになんて全然、興味ないんで、ほとんど見たことないんですよね。だって、汗臭そうだし」
わざとらしく鼻をつまみ、安川は愉快そうに笑ってみせた。
「それで、君の目的はなんだ? どうしてそんな嘘をついた?」
怒るでも苛立つでもなく、黒崎は腕を組み、僅かに困惑しながら尋ねた。
「確かに僕は、プロレスには興味ないですが、プロレスラーそのものには興味があるんです。汗臭そうでマッチョな身体、その精神性、玩具として弄ぶのに最高だと思いませんか?」
「玩具だと?」
黒崎は、訝しげに眉をひそめた。
「あ、そうそう、玩具といえば」
何かを思い出したように安川は、ポケットを探った。
「黒崎さん、さっきプロレスラーは『気持ち』が大事だとかなんとか言ってましたよね? 練習生ならプロレス愛を持っていて当然。それって本当のことですか?」
「何が言いたいんだ」
黒崎は、怪訝そうに言った。
「実は、今日、予定よりも少し早めに到着したんです。玄関で伊藤っていう練習生の人が出迎えてくれたんですけど、その人は『プロレスなんてどうでもいい』って言ってましたよ」
――伊藤?
黒崎は、困惑の色を強めた。
伊藤慎一は、『黒鉄プロレスリング』に所属している練習生だ。
特に熱意が強く、プロレスに対する情熱は人一倍だ。黒崎でさえ辟易するほどに、いつも饒舌にプロレスを熱く語る。生粋のプロレス馬鹿と言ってもいい。
「馬鹿を言うな」
少し呆れながら、黒崎は言った。
「悪いが、あいつはそんなことを言うやつじゃない」
どうやら安川という青年には、虚言癖があるらしい。
まともに相手をするのは時間の無駄であるということを、流石に黒崎も察し始め、この馬鹿馬鹿しい会話を打ち切ろうとした、その時だった。
「今度は嘘じゃないですよ」
安川は、ポケットから取り出したスマートフォンを黒崎に差し出した。
嫌な胸騒ぎがした。
スマートフォンの液晶に映っているのは、ひとつの動画だった。
5.
動画には、練習生の伊藤慎一が映っていた。
頭から足まで、全身が収まるように、カメラのフレームは調整されている。
動画の背景には、うずたかく積み上げられたダンボール箱が映っている。
――備品倉庫だ。
この動画の撮影場所が、事務所棟の備品倉庫であることに黒崎は気づいた。
「もう撮ってるんですか?」
画面の中の伊藤が尋ねる。
彼は、普段通り、練習用のシンプルなTシャツとハーフパンツを身に着けていた。
「うん、撮ってるよ」
問いかけに対して、画面外からの声が響く。
映像には、少しのブレもなかった。
三脚か何かで固定して撮影しているのだろう。
「なんだか、少し照れますね」
と、伊藤は小さくはにかむ。
そして、Tシャツに手をかけ、それをあっさりと脱ぎ捨てた。
逞しい肉体が剥き出しになる。
練習生にしては、厚みのある胸板、がっしりとした腰回り。
それらは、伊藤が弛まぬトレーニングを積み重ねている証だ。
続けて、ハーフパンツを下ろす。
中から現れたのは、速乾素材らしい少し光沢のある黒いスパッツだった。その中心には、伊藤が成人した男性であることを象徴する、確かな膨らみがあった。
伊藤は躊躇することなく、そのスパッツにも手をかけた。
ぶるん。
窮屈なスパッツの中に閉じ込められていた男性器が、外気に晒される。
その瞬間を、カメラは余すことなく捉えていた。
黒崎が伊藤の性器をまじまじと見たのは、初めてだった。
今までにも更衣室やシャワー室などで、全裸の状態で鉢合わせすることはあったが、もちろん黒崎には他人の男性器を観察する趣味などない。
カメラがズームして、スマートフォンの画面いっぱいに、モザイクもなしに伊藤のペニスが映し出される。それは否応なく黒崎の視界に入り込んだ。
黒々と茂る陰毛の中心に、だらりと垂れ下がっている伊藤の男性器。がっしりとした彼の体格に負けず劣らず太々しいそれは、大半が包皮に覆われていた。
その先端には、薄桃色の亀頭が控えめに顔を出している。
「言われた通り、全裸になったんですけど、これで良かったですか?」
画面上にペニスがズームされている状態で、伊藤の声が響いた。
「いや、ちゃんと"全裸"になってください」
しばらくの沈黙。
すぐに、合点がいったように「ああ」と伊藤は答えた。
そして、彼の手は、液晶いっぱいに晒されているペニスを掴む。
ずるりと、伊藤は自らの包皮を剥いた。
少し湿り気のある艶やかな亀頭が、完全に露出する。一度、剥いた包皮が戻らないところを見ると、仮性包茎なのだろう。
ブブブ、と低い振動音が唐突に響き、黒崎は一瞬、スマートフォンが振動しているのかと思った。しかし、違った。
画面の端から、鮮やかなピンク色の電動マッサージャーが現れる。
スマートフォンのスピーカーから、その振動音が流れているのだ。
電動マッサージャーは、細長く、先端にきのこ型のヘッドがついている。
その先端が、無遠慮に伊藤のペニスに押し当てられた。
「うっ」
刺激を受けて反射的に漏らしたであろう声が響く。
マッサージャーは、だらりと垂れたペニスを下から掬いあげるように動いた。
弄ばれている。
それでも、伊藤は腰に手を据えたまま、一切抵抗しなかった。
次第に、むくむくと男性器は鎌首をもたげはじめる。機を逃すまいと、マッサージャーは、執拗に伊藤のペニスの裏側を重点的に狙った。
その刺激に堪らず、男根が完全に屹立する。
若さを感じさせる張りのある性器。その裏筋にぴったりと張り付くように、マッサージャーがぐりぐりと押し付けられる。
カメラには全身が映っていないため、伊藤の表情は分からなかった。
しかし、彼の身体が僅かにひくひくと震える様子は、鮮明に映し出されていた。
画面から動きがほとんどなくなる。
マッサージャーを同じ位置に押し当てられたまま、その刺激にひくひくと動くペニスだけがスマートフォンの画面を占有しているからだ。
黒崎は我に返った。
こんな馬鹿げた動画を、黙って視聴し続ける意味などない。
今すぐに停止しようと、黒崎が指を動かそうとした瞬間。
「完全に勃起しましたか?」
不意にスマートフォンから、問いかけが響いた。
僅かな沈黙。返答はない。
「完全に勃起しましたか?」
答えを急かすようにもう一度、機械的に問いが繰り返された。
今度は、少しの間も置くことはなく、はっきりとした答えが返った。
「い、伊藤慎一、完全に勃起しました」
その返答を合図に、ペニスを弄び続けていたマッサージャーは画面外に消える。
そして、響き続けていたバイブレータの音が止まった。
カメラはズームアウトして、伊藤の全身を映す。
伊藤は腰に手を当て、カメラに向かって、堂々と胸を張っていた。
胸板は上下しており、彼の呼吸は少し荒かった。
身体も、わずかに汗ばんでいるようだった。
それでも、その表情は快活そのもので、普段通りの伊藤と変わらなかった。
勃起した性器を晒していることなど、まったく意に介していないように。
その時、画面外から声が投げかけられた。
「おちんちんがしっかりカメラに映ってますけど、恥ずかしくないんですか?」
「チンポ見せることくらい、恥ずかしくもなんともないっすよ」
即答して、伊藤は朗らかに笑った。
「それは、なぜですか?」
「もちろんそれは、俺がプロレスラーを目指しているからです」
力こぶを作りながら、伊藤はカメラにその筋肉を誇示した。
「プロレスラーは、肉体を見せるのが仕事ですから、チンポを撮影されたくらいで恥ずかしがったりしません」
そう伊藤が宣言すると、画面外からパチパチと拍手の音が響いた。
「すごくかっこよく映ってますよ」
「本当はまだまだ未熟で、プロレスラーと名乗るなんて、おこがましいんですが」
「自信を持ってください。夢を目指している姿は、とてもかっこいいですよ。仮性包茎のチンカス臭そうなおちんちんも含めて、カメラにしっかり映っていますよ」
「はは、ありがとうございます」
頭を掻きながら、照れたような表情で笑う伊藤。
その動きにあわせて、彼の勃起したペニスは左右に揺れた。
「でも、本当は?」
それは、唐突な問いだった。
「え?」
「本当は、何を目指してるんですか?」
どういう意味の質問なのか分からない。
液晶に映る表情からは、そう言わんばかりの伊藤の戸惑いが伝わってくる。
「いや、ですから、俺はプロレスラーを」
「ああ、プロレスラーを目指しているんでしたね。でも、本当は?」
続けざまに、同じ問いかけが繰り返される。
伊藤の表情に戸惑いの色が濃くなった。
「いや、俺は」
「プロレスラーを目指しているんでしたね。でも、本当は?」
「ほ、本当は……」
その時、指先がフレームインした。
5、4、3、とゆっくり、焦らすように指の数を減らしていく。
――カウントダウンだ。
そのわざとらしい演出に、黒崎は眉をひそめた。
スマートフォンから目を離し、部屋の中の安川に目を向けると、彼は得意げに笑みを浮かべている。予感めいた胸騒ぎに突き動かされるように、黒崎は再びスマートフォンの液晶に目を向けた。
3、2、1。
そのカウントが0になるタイミングで、指先は鋭くスナップした。
パチンと、乾いた音がスピーカー越しに響いた。
6.
その瞬間、空気が変わった。
「オナレスラーです」
全裸のまま、鍛え上げた肉体を晒し続けている伊藤慎一。
彼の表情からは、既に戸惑いの色が消えていた。
「俺が目指しているのは、本当は、オナレスラーなんです」
少し照れたように頬をかきながら、伊藤は言葉を続ける。
「まだまだ未熟ですが、俺は、自分のオナニーで多くの人を楽しませる、最高のエンターテイナーになりたいと思ってます」
そう言った彼には、迷いを感じさせない晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
その表情には、何のぎこちなさもない。
あまりに自然すぎる。自然すぎるが故の異様な不自然さに、スマートフォンの液晶を睨みながら、黒崎は激しい違和感を覚えた。
「オナニーが好きなんですか?」
「俺はオナレスラーを目指しているので、もちろんオナニーが大好きです!」
伊藤は笑みを浮かべたまま、力強く言い切った。
「プロレスよりも?」
「そ、それは……」
初めて伊藤の言葉が詰まった。
彼は、視線を彷徨わせながら口を開き、何かを言いかける。
しかし、それは言葉にならない。
沈黙がしばらく続いたのちに、画面外からやれやれと言わんばかりに、大げさなため息が響いた。
「練習生、伊藤慎一」
それは、これまでよりも低く、冷たさを感じさせる声色だった。まるで機械のスイッチでも切り替えたように、彼の表情からは、瞬時に笑みが消える。
「『敬礼』しなさい」
「はっ!」
機械仕掛けの人形のような淀みない所作で、伊藤の右手は額に向かった。
しかし、彼の表情は決して人形のように虚ろではない。むしろ、その逆だった。
黒崎には、それが熱心にトレーニングに取り組んでいるときのような、真剣な顔つきのように見えた。
「お前の大好きなオナニーを開始しなさい」
「ただいまより、俺は、大好きなオナニーを開始しますッ!」
伊藤は、躊躇なく勃起した自らのペニスを握る。
そして、筋肉質な腕をしなやかに動かし、それを扱き始めた。
「んっ……ふっ……俺は、オナニーが大好き、オナニー大好き、お、俺はプロレスよりも、オナニー大好き! 何の疑問も抱かないっ! 何もおかしいと思わない!」
スマートフォンの液晶には、自慰にふける伊藤の姿が映し出されている。
彼は腰を突き出し、熱い吐息を漏らしながらも、「オナニー大好き」と戯言のように繰り返していた。それは、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
「プロレスとオナニー、どちらが好きですか?」
「オナニー! オナニーですッ!」
間髪入れず、伊藤は答える。
「く、比べものになりませんッ! オナニーに比べたら、プロレスなんてどうでもいいッ! ち、チンポ、気持ちいいッ!」
唾を飛ばしながら、半ば叫ぶように、彼はそう訴えた。
「ほら、黒崎社長も見てくれてますよ、挨拶をして」
『黒崎』という言葉に反応したのか、伊藤のまぶたが、ヒクヒクと痙攣した。
そして、その視線は真っ直ぐにカメラへと注がれる。
「く、黒崎社長っ! 見てくれてますか! 俺、毎日、トレーニングして、こんなに立派にオナニーができるようになりました!」
誇らしげな表情だった。
こんなことを強要されているというのに、お前はなぜそんなに誇らしげな顔ができるんだ。スマートフォンを握っている黒崎の手に力が籠った。
「もうプロレスのことはどうでもいいんですか?」
その問いかけに、誇らしげだったはずの伊藤の表情が引きつり、視線が彷徨った。
「ぷ、プロレス、そうだ、プロレス……俺、社長、す、すみません、俺……」
「ほら、きちんと謝って」
促されて、伊藤は頭を下げた。
「い、今まで騙していてすみませんでした! プロレスよりおちんちんをシコシコするのが本当は好きなんです! だ、だから、俺は、今日からプロレスラーじゃなくて、オナッ……お、オナ……ッ」
ぐっと目を閉じ、口ごもりながら、伊藤は無理矢理に言葉を絞り出そうとしているようだった。しかし、彼の中の何かが、その先の言葉を拒んでいる。
黒崎には、それが分かった。
「自分の気持ちにもっと正直になって」
悪魔のような囁きが、画面外から響いた。
「はっきり『プロレスラーの夢を諦めて、オナレスラーになりたい』と告白して、誠意を見せたら、もっと気持ちよくなれますよ」
「もっと気持ちよく……」
伊藤は覚悟を決めたように、改めてカメラを真っ直ぐに見据えた。
「……俺は、今日からプロレスラーを目指すのをやめて、最高のオナニーができるように、オナレスラーを目指しますッ!」
言い切った瞬間、伊藤は白目を剥いた。
伊藤は、もはや腕の上下運動など忘れて、ペニスを握ったまま、ビクビクと全身を痙攣させていた。
「ヤベェ、これ、頭、おかしくなる……っ」
得体の知れない何か。想像しがたい何かが、伊藤の全身を支配しているようだった。
伊藤のペニスの鈴口から、分泌された透明な体液が、とろりと糸を引いた。
パチン。
画面外から、乾いたスナップ音が響いた。
すると、やはりスイッチを切り替えるように、惚けていた伊藤の瞳に理性的な光が戻った。
「んっ、ああっ、俺……しゃ、社長、許してください」
伊藤はカメラに向かって訴えかけた。
「さっきから何か変で、お、俺、本当は、こ、こんなはずじゃ……ッ!」
「言い訳は見苦しいですよ。誠意をもって謝罪しましょう。謝罪してもっと気持ちよくなりましょう」
「は、はいっ! 俺、オナレスラーを目指すこと以外は、もう、ありえないっすッ! プロレスは、俺には必要ありませんッ! 社長、すみませんでしたッ! んんんんんッ、気持ちいいッ!!」
もう一度、眼球が裏返り、伊藤は身体を震わせた。
得体の知れない激しい快楽に、肉体を支配されているようだった。
唇の端からは、泡立った唾液が垂れ始めている。
パチン。
再び伊藤の瞳に理性的な輝きが戻った。
理性を放棄して快楽に沈むことなど決して許さない。
それは、そんな意思を感じさせるようなタイミングだった。
伊藤は、スナップを合図にして、自らの義務を思い出したかのように、激しくペニスを扱き始めた。滴る我慢汁を指にまぶして、それを亀頭に擦り付ける。腕の動きに合わせて、打ち付けるように腰を動かし続けていた。
謝罪とプロレスの否定に伴う強い快楽。
そして、スナップ。
それが繰り返されるたびに、目に見えて伊藤の言動は支離滅裂になっていった。
「俺は、オナニー大好きオナレスラー……オナニー大好き……オナニー大好き……」
繰り返されるほどに、彼に与えられる快楽の大きさは、どんどん増しているようだった。それは何かの負荷試験をしているかのようにも見えた。
「それじゃ、伊藤くん。次は、もっと気持ちよくなってみようか」
「も、もう限界っ、無理っ、無理無理、無理っす!」
楽し気に提案するその声に対して、伊藤は大きく首を横に振った。
「無理じゃないでしょ? 忘れたの? オナレスラーが負けを認めるときは、なんていうんだっけ?」
「ギ、ギブですッ! ギブッ! ギブギブ、ギブッ!」
くつくつと、笑い声が画面外から響いた。
「なんだ、もう限界か。もっとタフだと思ったんだけどなあ」
「す、すみませんッ! で、でも、も、もう許してくださいッ! もう、楽にしてくださいッ! こ、これ以上は、本当に、頭が、頭がおかしくなるっ!!」
必死に訴えながらも、ペニスを扱く手の速度を伊藤は緩めなかった。
湿り気を帯びた肌。
彼が動くたびに汗が、霧のように撒き散らされ続けている。
「それで伊藤くんは、どうやったら楽になれるんでしたっけ?」
「せ、『宣誓』ですッ! 俺に『宣誓』を命令してくださいッ!」
「いいでしょう、『宣誓』しなさい。練習生らしく、元気よく、底抜けに明るくね」
「あ、ありがとうございますッ!」
伊藤は、画面外に向かって、半ば叫ぶように感謝の言葉を放った。
俯いて、伊藤は、深く息を吸った。
そして、顔を上げると、カメラに向かって、白い歯を見せて明るく笑った。
「練習生、伊藤慎一、『宣誓』しますッ!」
その表情の明るさとは裏腹に、彼の額からは、だらだらと汗の粒が垂れていた。
しかし、それが瞳に入ろうとも、彼は汗を拭おうともしなかった。
「宣誓ッ! 俺は、黒崎社長のような立派なオナレスラーに、なりますッ!!」
そう言い切った瞬間、勢いよく伊藤のペニスから白濁液が放出された。
1発目、真上に向かって発射されたそれは伊藤の胸板にかかった。
続いて、少しの間をおいて、カメラに向かってまっすぐに発射された2発目は、リノリウムの床に撒き散らされた。
「ハァハァ……黒崎社長、俺のオナニー、見てくれましたかッ!」
肩で息をしていた伊藤は、カメラに向かって照れたように微笑んだ。
「これからも『黒鉄プロレスリング』の一員として、恥ずかしくない射精ができるように、精進しますッ! 押忍ッ!」
(続く)