現実世界放浪記【呉】 (Pixiv Fanbox)
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ラッシャイ。俺は鯰田。げんこつ山のたぬきだ。仮想の大地で裸の魂を彫り続けているが、今日はコンビニで栄養ドリンクと敗北感を買ってきた。この俗世の地鳴りのような生活の味を、フォロワーであるお前へ特別に教えてやることにした。
前回、俺は運転免許試験場で繰り広げられた文明の敗北ショーについて語ったはずだが、今日はその折に幽霊のように触れた「治験」の話だ。
◆バックナンバー
学生時代、俺の財布はブラックホールの縁にある静止軌道を回っていて、いつ奈落に落ちるか分からない危険水域にあった。金欠という魔物は一日たりとも俺の喉笛から離れず、進路指導の先生より俺に寄り添ってきやがった。
そこで俺が一縷の望みにすがったのが“治験”――すなわち合法的モルモット業である。薬の効能を臨床的に確認するため、人類が自らの同胞を差し出すこの制度は、合理的でありながらどこか「人間という生き物の哀しみ」が滲み出ていた。
俺が受けたのは「経皮吸収型鎮痛消炎剤」、要するに湿布の試験だ。湿布の具合を確認するために三日病院へ缶詰になる。金の匂いに釣られた俺は、脳の理性部を質屋に入れて参加した。治験側はきっと“考えなしの愚者”を入れたくはないのだろうが、選別の網は愚者に優しかった。
病院に着くや否や、即入院。三日間の“観察小屋”送り。参加者は若造から疲労の化石みたいなおっさんまで揃っており、人類図鑑の索引のようだった。
採血で隣の男が貧血を起こして倒れたときは、何が起きたのか理解するまで数秒の空白があった。「こういう人材も混ざるのか」と妙に感心したのを覚えている。
だが、他人の人生など治験には関係ない。
俺は三日間、湿布を貼り、規定通りの生活を送り、金をもらって帰るだけだ。
1日目
俺は消毒液の匂いと遠くの電子音に包まれたまま病室に放り込まれた。そこは文明の残滓を詰め込んだ臨床観察小屋であり、人類の哀歓が蒸留された密室だった。
俺の隣のベッドには、陽のオーラが見えそうな男が鎮座していた。
初対面にもかかわらず、いきなりこう言う。
「兄さん、桃鉄やるべ!」
コイツはまるで治験より桃鉄のほうが重要な儀式であるかのように言い放った。
お前は治験に来たのか桃太郎に会いに来たのかどっちだ?
彼は病室横の休憩室の戸棚から、まるで自宅のような手つきでファミコンを取り出した。完全にリピーターの手際だ。
半ば儀式のように桃鉄に巻き込まれた俺は、気づけば「北へ行くか南へ逃げるか」「キングボンビーからいかに魂を守るか」という国土経営シミュレーションに人生を奪われていた。
その途中で、運動だの診察だの食事だのという治験スケジュールが挟まる。男は慣れたもので、ゲームを中断 → タスク完遂 → 着席後三秒で再開、という見事な二重生活を披露していた。病院特有のパラレルワーカーである。
さて、湿布だ。俺の皮膚に慎重に貼られた“経皮吸収型鎮痛消炎剤”。周囲の数名は「かゆい」「ひりつく」と騒いでいたが、俺と桃鉄男は完全無風のようだ。どうやら古代樹の樹皮のように皮膚が頑強で、薬剤の刺激など鼻歌で受け流すらしい。
夕食の時間になると、トレーには
白米
鮭の塩焼き(塩分控えめすぎて存在感が霧)
ひじき煮
豆腐とわかめのみそ汁
ヨーグルト(無糖・無慈悲)
という、健康と無個性の折衷案のような夕飯だった。
味は薄いが、その薄さが逆に「俺は治験に来ている」という謎の実感を噛みしめさせてくれる。桃鉄男は鮭をつつきながら「次は東北攻めるか~」と平然と国土侵略計画を練っていた。
シャワーはクソ狭く、湿布部分を防水ビニールで覆う作業が地獄級に面倒だった。
こうして湿布に無反応な皮膚と桃鉄に過敏反応する脳味噌を抱えたまま一日目は終了した。
2日目
二日目の朝は、静けさと規律が凝縮された空気で幕を開けた。
看護師は巡回しながら、体温と表情を同じテンポで確認していく。きっと彼らには人体のバグが見えているのだろう。
そして、予定表にある最初のイベントは―朝の運動(と称された儀式)
運動といっても、その実態は“廊下三周ウォーク”という、宇宙船の船内点検にも劣る控えめすぎるタスクだった。
朝の最初のイベントは“運動”と称された儀式。
その実態は、廊下三周という、カロリー消費としては呼吸より弱いタスクだった。
検温、血圧、問診を淡々とこなし、再び桃鉄。
病棟の空気は完全に「娯楽と倦怠のバランスを失った老人ホーム」のようだった。
参加者たちはマンガや雑誌を拾い読みしてそれぞれ暇を潰す。
昼食後、桃鉄男は枕に頭を沈め、天井を眺めながら呟いた。
「兄さん、ここって“時間が薄い”よな」
「薄い?」
「そう。普段の時間は分厚いんだ。仕事だの金だの人間関係だので、心にぶつかってくる。でもここじゃ、時間がペラッペラなんだよ。だいたい何してても怒られねぇし、何も起きねぇ。気づいたら朝が夕方になってる」
確かに、治験の時間は異様だ。
遅いくせに早い。
濃いようで薄い。
「こういう場所にいると、“自分の速度”が見えてくるんだわ。俺、速く生きすぎてたのかもしれん」
桃鉄男はしばらく天井を見たまま黙り込んだ。
どうやらこの男は、暇が与えられると哲学者に進化するらしい。
3日目
三日目――退院日。
看護師の最終チェックは極めて事務的だった。人類の生死を棚卸しするような淡々さで、三日間の観察は終了した。
隣のベッドの桃鉄男は、ベッドの上であぐらをかき、
「いや〜今日であんたともお別れかぁ!」
と、いつもの太陽みたいな声で笑った。
その無駄に明るい声が聞けなくなると思うと、わずかに胸に穴が空く。
悔しいが、こいつとの時間は悪くなかった。
「退院したら何食べたい? 俺はカレーかな…牛丼でも良い…もう体がウズウズしとるわ」
この人当たりの良さ、初対面への距離ゼロ攻撃……
営業マンか、接客のプロか、そう思えてしまう。
荷物をまとめ、布団を整え、昼前に手続きを済ませた俺が廊下を歩いていると、背後からドタドタした足音が迫ってきた。
「ちょい待ち兄さん! 今から帰るんやろ? 桃鉄付き合ってくれてありがとうな。前回は誰も相手してくれんで暇しとったけん」
治験は一期一会だ。
一度受ければ数か月空けねばならず、同じメンバーに会うことなど滅多にないだろう。この世界に初対面でいきなり桃鉄に付き合うヤツがどれほどいるだろうか。
桃鉄男は珍しく真顔で礼を言った。
こちらも「こちらこそ」と返そうとした――その瞬間だ。
男は周囲を見回し、声を一段階落とした。
「……ほんでさ。これ、兄さんに渡しとくけん。手出して」
言われるまま手のひらを出すと、
小さく折りたたまれた紙片が、鮮やかに押し込まれた。
プロの手つきだ。
怪訝に思い開こうとすると、男はさらに声を潜めた。
「実は俺、中洲で客引きしとってさ。あんた、話しやすかったし……俺のオススメに通すけ、気が向いたら来てや」
紙には光沢のある印刷。
やや怪しい色味の風俗店のロゴと店舗名。
裏には妙なテンションのキャッチ。
完全にアレな職業だった。
こっちが固まっているうちに、彼は肩をポンと叩き、
「ほんじゃ、元気で! また会うたらよろしく!」
とだけ言い残して、軽い足取りで消えていった。
手の中のチラシは、微かに温もりを残していた。
管理医療の世界では絶対に発生しない、都市の裏側が持つ体温だ。
治験という名の管理された非日常よりも、その紙片のほうがずっと非日常だった。
………
ちなみにこの治験の報酬は、確か4〜5万ほど。記憶は霧のように輪郭を失っているが、まあ、諭吉の行列はその程度だったはずだ。三日間の幽閉に対して適正かどうかなど、当時の俺に測る物差しは無かった。俺の物差しは常に「残高」だったからだ。
だがな――今になって振り返ると、自分の身体を預けてデータに変換するという行為は、魂を担保にローンを組むようなもんだ。合法ではあるが、誰の人生訓にも太字で推奨される類の行為ではない。
今回のケースで俺の皮膚は湿布に無反応、精神は桃鉄に過敏反応、そして報酬だけはちゃっかり振り込まれた。
つまり副作用なし、桃鉄あり、精神侵食あり、報酬あり。
治験なのか桃鉄なのか中洲の入口なのか、もはや分類不能のまま俺は生還した。
もしお前が金欠の暴風域に突っ立っていて、「治験」という札を切るか迷ったとしても――それはあくまで選択肢のひとつ、靴底に忍ばせる硬貨みたいな“最後の手段”だ。いつも使うもんじゃないし、光る舞台に出すもんでもない。
だが覚えておけ。時として人生は、自分ですら知らないデータ形式で担保にできる。だからこそ、魂も身体もなるべく手元に置いて生きろ。湿布一枚で揺らぐ人生は、面白くても一回で十分だからな。
さて、今回はここまでだ。山での執筆活動のために、記事が気に入ったらフォローや支援をしてくれ。よろしくな。