現実世界放浪記【陸】 (Pixiv Fanbox)
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ラッシャイ。俺は鯰田。げんこつ山のたぬきだ。俺は毎日、自分の身体をデスクワークという名の緩慢な処刑台に載せている。椅子に座り、キーボードを叩き、血流を止め、筋肉を溶かす。静かな自傷。だがその姿は誰にも見せることはない。社会性という薄皮を被り、何食わぬ顔で一日を終わらせる。今日は特別だ。フォロワーであるお前にだけ、俺が一度「健康」という幻想にすがった顛末を話してやる。
数年前、俺はサラリーマンだった。
家と会社の往復運動。
駅まで歩き、駅から歩き、会社の階段を上る。
それだけで「今日は動いた」と錯覚していた。
だが身体は正直だ。
エレベーターを拒んでも、階段を選んでも、衰えは帳消しにならない。
体力は目減りする資産だ。何もしなければ確実に破産する。
脳が警鐘を鳴らす。
「運動しろ」と。
だが当時はクソ暑い夏だった。外に出て走る?自殺志願者か?
電車内でスマホを見つめる。SNSという他人の生活見世物小屋を流し見していると、フォロワーの一人が“あの輪っか”を掲げていた。
室内でできる運動ゲーム。これだ。
遊びながら身体に負荷をかけられる快楽と苦行のハイブリッド。
しかも天下の Nintendo製だ。信頼という名のブランド暴力。
翌日、俺は買った。
ブームで品薄だった時期もあったらしいが、棚に鎮座していた。
在庫。
俺を待っていたのかもしれない。罠はだいたい静かだ。
デカい箱を抱え帰宅。
年齢、身長、運動履歴。
強度設定。
ここで虚勢を張るのが一番ダサい。
俺は無駄なプライドを床に叩きつけ、弱い負荷から始めた。
怪我をする奴はだいたい自尊心が強い。
準備運動。
リングくんではなくお姉さんの声で丁寧にウォームアップ。
この時点で気づく。これはただのゲームではない。調教だ。
そして開始。
リングフィットアドベンチャー。
その場足踏みで進む世界。だが甘えるなと言わんばかりにモモを上げろと要求される。サボれば経験値が減る。努力は数値化され、怠惰もまた数値化される。
これは筋トレではない。
レベリングだ。
現実がRPGの顔をした瞬間だ。
道中の敵と戦うには属性を考える。
腕は赤。
腹は黄。
脚は青。
ヨガは緑。
最初は技が少ない。スクワット地獄。
「またかよ」と言いながらやる。
だが勝った後のリザルト画面。
“これだけ運動しました”。
数字が俺を肯定する。
俺は元MMOプレイヤーだ。
数値が上がるという行為に人格を支配された経験がある。
技が強化される。全体攻撃が撃てる。負荷が増え、敵が溶ける。
俺は強くなっている。少なくとも、そう錯覚できる程度には。
やがて物足りなくなった。人間は慣れる生き物だ。
地獄にも慣れる。強度を上げた。難易度を上げた。
積み重ねた努力が俺を裏切るはずがないと、どこかで信じていた。
そしてボス戦。強大な一撃。
リングくんの一喝。
「腹筋ガード!!」
リングを腹に押し付ける。何度も耐えた。
雑魚では問題なかった。だがボスは違う。重い。
そして違和感。
痛みはない。
だが下腹部の奥で、何かが“ズレた”感覚。
身体の内側からの警告。
理屈ではなく、本能がざわつく。
ボスを倒し、ゲームを即終了。
クールダウンをしている余裕はない。
鼠径部を触る。わずかな膨らみ。俺はこれを放置しなかった。
本能が叫んでいる。これダメなやつだと。
だが当日は無理だった。予約を入れ、数日待つ。
何も起きない。すると人間はすぐに油断する。
さっきまでの恐怖を“気のせいかもな”と書き換え始める。
病院当日。
「脱腸してますね。手術が要ります」
「は?」
「負荷のかけすぎですね。でも早く発見できてよかったですよ。だいたい多くの方は自覚があってもそのままにして、痛みが出るようになってからはじめて来られますからね。その時には歳もとっていて手術は大変ですし、術後の治癒にも時間がかかるんです。こうなるのは数人に一人なので皆がなるわけではありませんけどね」
リングフィットしてたら手術台に載ることになった。
鼠径部に対してメスを入れるため毛はない方が良いらしい。
俺は脳死で自分の毛を全部剃った。風呂場で。虚無。
自分の身体が急に医療物件になる瞬間が来るとはな。
そして手術台当日。
特に恐怖心はなかった。
日本の医療は発展しているらしいからな。知らんけど。
手術衣に着替えて台に載る。
まな板の上の魚ってこんな感じか。
間抜けたことを考えながら背中からデカい注射を刺される。麻酔らしい。
「あれ、鼠径部の処理してくれてますね」
「ここまで綺麗に全部してくる人は珍しいね」
恥ずかしいからやめてくれ。
数十秒後、意識が沈む。
気が付いた時には病室にいた。
「手術は無事終わりました。明日には退院できますよ」
「ありがとうございます」
「食事はしばらくとれないので我慢してくださいね」
これが結構しんどかった。麻酔で痛みはないし自分の身体に異常があるとすれば空腹だけだったからだ。病室は退屈で仕方なく俺は寝ることにした。
翌日。
めちゃくちゃ質素な病院飯を食べる。
メニューはよく覚えてないが消化に良いものばかりだったと思う。
味が薄い。虚無。
会計へ向かい立ち上がった瞬間。
痛み。
ああ、切られたんだったなと身体が思い出す。
今じゃなくてもいいだろ。
「もう一日入院しますか?」
金と退屈と薄味を天秤にかける。
「大丈夫です」
強がりだ。だが人間はだいたい強がる。
一歩ごとに痛みながら帰宅。
そして真っ先に部屋のリングフィットを片付けた。
別にソフトが悪いわけではないがもう起動する気にならなかった。
今は散歩と軽いジョギングだけだ。過剰な負荷はかけない。
長生きする気はない。だが無駄死にする趣味もない。
人間は切られて一日では戻らない。
俺はたぬきだが、人間を模倣している以上、物理法則からは逃げられない。
お前も手術台に載ったのなら後日は大人しく過ごすことだ。
一番良いのは健康で生きていくことだ。
だが人間はだいたい、それを一番後回しにする。覚えておけ。
今回の話はこんなところだ。山での執筆活動は続く。
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俺の身体は壊れやすいが、文章はまだ動く。