現実世界放浪記【捌】 (Pixiv Fanbox)
Content
ラッシャイ。俺は鯰田。げんこつ山のたぬきだ。俺は週に1、2回スーパーとかいう物資回収所に向かってはどんぐりと日々を生きるための消耗品を交換しているが、その様子は誰にも見せるつもりはない。だが今日はフォロワーであるお前へ特別に、その一幕を教えてやることにした。
あれは随分前の話だ。
俺は関西にいた。理由は単純、労働だ。逃げ場はない。
引っ越しを行い、社員寮という名の半密閉型生活ユニットに収容されていた。
部屋は六畳弱。いや、体感ではそれ以下だ。
備品は布団。薄い。床の硬さをダイレクトに伝えてくるタイプだ。
小型テーブル。表面には細かい傷が無数に走り、歴代入居者の痕跡が刻まれている。
そして俺の私物であるノートPC。唯一の情報端末であり、外界との接続口だ。
その対面には、引っ越し時に持ち込んだ大容量スポーツバッグ。
中身は雑多な衣類と日用品。視界に入る物体はそれで全てだ。
余白が多い。空虚とも言う。
インテリアという概念は、この時点の俺には存在しなかった。働き始め、多少の自由資金を得ても、それを「空間の質向上」に割り当てるという発想がそもそも生成されない。貧困は選択肢を削り、思考の枝を剪定する。気付いた時には幹しか残っていない。
そんな環境でも、メシは必要だ。
俺は会社から貸与された自転車に跨る。
サドルは妙に硬く、長時間乗ると確実に尻にダメージが蓄積するタイプ。
ペダルを踏み、スーパーへ向かう。風は弱い。空気はぬるい。
目的地のスーパーは、関西ではそれなりに名の通った拠点だった。
安い。質がいい。品揃えが多い。
この三点を満たす場所には必ず人が集まる。例外はない。
俺が平日に訪れても、客数は常に飽和気味だった。人は減らない。補充され続ける。
店舗の外には不定期で出店が展開される。
たこ焼き。たい焼き。アイス。
油の匂い、甘い匂い、鉄板に何かが焼き付く音。雑多だが嫌いではない。
ガキ共が群がり、親個体がそれを制御しきれず半ば放置する光景。よくある構図だ。
この日、俺はタイムセールの情報を事前に取得していなかった。
つまり、イベント発生時刻が不明な状態での突入。リスクが高い。
入口は混雑していた。ガキ共が予測不能な軌道で走り回り、親はそれを完全には制御しない。いや、できない。
人波を回避しながら侵入。接触がないように、少し視線を落とし、足元の動きを読む。ここは戦場だ。油断は事故を呼ぶ。
現時点でセールは未発生。だがそれは安全を意味しない。
主婦という存在は、トリガーが引かれた瞬間に群体行動へ移行する。
接触すれば即座に「セクハラ」というラベルが付与される可能性。
ガキとの接触は、親個体のヒステリック化イベントを誘発する。
結果、時間と精神を消耗する。回避が最適解だ。
これは性への批判ではない。単純に、俺の生育環境が原因で人間全体への信頼度が著しく低いだけだ。初期値がマイナス圏にある。
だが、この店には例外的存在がいる。
野菜売り場、精肉コーナーに出現する「やさしい顔のオバチャン」だ。
「兄ちゃんそれあかん、鮮度落ちとる。こっちにし」
「これも合うで、持ってき。安いしな」
距離が近い。判断が速い。善意が雑に強い。
この存在により、俺の中の人間信頼度は、ほんのわずかだが回復していた。
そして彼女らは、ほぼ確実に“追加効果”を発動する。
――飴。
ポケット、エプロン、どこからともなく出現する。
種類は様々。ミルク系、フルーツ系、謎の漢方風味。
なぜ持っているのかは不明。だが所持率が異様に高い。体感七割。
関西特有の文化か、進化の過程で獲得した能力か。検証はしていない。
俺も一時期、それを模倣した。
ポーチに飴を仕込み、誰に渡すでもなく携帯する。
だが使用機会は訪れず、最終的に自分で消費した。意味はなかった。
店内を一周し、必要物資をカゴに投入。
重さが腕に伝わる。現実感が増す。
レジへ向かう――その時。
店内放送が流れる。
「本日のタイムセール、たまご――」
来た。
予告なしの強制イベント。
時刻は不明だが、最も動きが鈍るタイミングで発生した。
だが売り場は近い。
俺は即座に進路を変更し、最短ルートで接近。
すでに主婦群体が集まり始めている。だがまだ密度は低い。
手を伸ばす。
たまごパック、確保。
この瞬間だけは、確かに俺の判断が早かった。
背後では群れが形成される。
カゴがぶつかる音、ビニールが擦れる音、無言の圧。
俺はそれを背に、戦線離脱。レジへ向かう。
――が、ここで思考にノイズが入る。
ゴミ袋。
巣に残数がなかったことを思い出す。
戻るか?進むか?
一瞬迷うが、生活維持のためには必要だ。
俺はルートを外れ、ゴミ袋を回収。再びレジへ。
今度こそ終わる。そう思った、その瞬間。
ガサ……
カゴに違和感。重量の変化。
嫌な予感。背後を確認。
――いた。
紫色のパンチパーマをした豹。
視界に入った瞬間、脳がそれを“危険”として処理する。
豹。いや違う。豹柄の服を着たオバチャンだ。
そして理解する。
俺のカゴから、たまごが消えている。
視線を追う。
彼女の手に、見覚えのあるパック。
迷いがない動作。振り返りすらしない。
“最初から自分のものだった”という挙動。
ここで思考が一瞬止まる。
商品は、レジを通過するまで店の所有物。
つまり、俺の所有権はまだ確定していない。
よって、店内での“奪取”は理論上成立する……のか?
倫理は?モラルは?
そんなものは、この状況において意味を持たないのか?
弱肉強食。
局所的無法地帯。
ここは本当に、日本か?
声は出なかった。
出す意味も見いだせなかった。
ただ、理解が追いつかないまま、その場に固定される。
俺は面倒を嫌う。
たかがたまご1パックには口論を発生させる価値はない。
だが同時に、納得もしていない。
理解と感情が乖離したまま、俺はレジを通過した。
手元には、たまごのない現実だけが残る。
店を出る。
外の空気は、来た時と同じはずなのに、わずかに違って感じた。
以上だ。
これが俺が観測した関西スーパー戦線である。
お前は何かトラブルにあったとしても、それを解決するだけの価値があるかどうかは判断できるようにしておけ。
そして記事が気に入ったならフォローしろ。支援しろ。
ここはスーパーじゃないからセールはないけどな。