小説 【入れ替わり・上司】⑤ (Pixiv Fanbox)
Published:
2025-08-03 01:37:10
Imported:
2026-06
Content
-目次-
・13.人としての境界線
・14.スーツの重さ、ボタンの意味
・15.体が違えば、運転席も変わる
13.人としての境界線
洗面所の扉を静かに開けて出てきた紗英(精神は翔也)は、どこかぎこちない足取りだった。
パジャマの裾をそっと整えながらリビングへ戻ると、
すでに髪を整え終えた翔也(精神は紗英)が、コーヒーを手にしながらソファに腰を下ろしていた。
「……おかえり」
「すみません、お待たせして……」
紗英(精神は翔也)が申し訳なさそうに頭を下げると、翔也(精神は紗英)はふっと笑った。
「ううん。でも……ちょっと長かったね。やっぱり慣れない体だと、緊張する?」
紗英(精神は翔也)は、その言葉にピクリと肩をすくめた。
目をそらしながら、こくんと小さくうなずく。
「……はい。あの……実は、その……おしっこだけじゃなくて……」
言いにくそうに言葉を濁す紗英(精神は翔也)に、翔也(精神は紗英)は少し目を丸くしたが、
すぐに「ああ、そっちもね…」と察したように恥ずかしそうに軽く頷いた。
「そっか……」
自分の体で“そんなこと”をされたというのに、翔也(精神は紗英)はどこか気まずそうに笑いながらも、嫌悪感は見せなかった。
むしろ、目の奥にはわずかな申し訳なさすら滲んでいた。
「……ごめんね、恥ずかしい思いさせちゃって」
「い、いえ……。こちらこそ、勝手に……すみません……」
二人は同時に目を伏せた。
(これが、他人の体に入るってことなんだ)
紗英(精神は翔也)は、ただの好奇心でこの体験を引き受けた自分を少し反省した。
翔也(精神は紗英)は、軽い提案のつもりで紗英(精神は翔也)に負担をかけていたことを感じ取っていた。
けれど――
そうした、互いへの気遣いや理解の芽生えが、
静かな朝の空気のなかに、わずかに温もりを残していた。
14.スーツの重さ、ボタンの意味
簡単な朝食代わりにホテルのコーヒーを口にして、
二人は出発の準備にとりかかることにした。
紗英(精神は翔也)はこれから向かうクライアント先への訪問に緊張して、コーヒーを何度もおかわりして気を紛らわせた。
訪問先の会社には九時ちょうどのアポイント。
あと少しで部屋を出なければならない。
「……そろそろ、着替えよっか」
翔也(精神は紗英)が、椅子から立ち上がりながらそう言った。
紗英(精神は翔也)も、こくりと頷く。
ふたりは、それぞれのスーツが掛けられたハンガーを手に取り、
無言のまま互いに向かって歩み寄る。
無言――けれど、どこか照れくさい空気が流れていた。
「……はい、村田くんの……というか、私の体に合うサイズのスーツ」
「ありがとうございます……こっちが、高垣係長の……いえ、僕の……体のスーツです」
言葉を選びながら、どこか恥ずかしそうに、二人は入れ替わった相手の…異性の体に合わせたスーツを、そっと手渡しで交換した。
紗英(精神は翔也)は、手にした女性用スカートスーツの柔らかな生地に指を這わせながら、胸の奥が少しざわつくのを感じた。
(……これが、高垣係長の…女性用のスーツ……。丈も短いし、ウエスト、絞られてるんだな♡……)
ボタンひとつ、袖口のつくり、スカートのライン……
細部まで、男のスーツとはまるで違う“女性の社会的な衣服”が、目の前にあった。
(今から…これを着るのか……♡……)
顔の火照りをごまかすように、紗英(精神は翔也)は小さく可愛い咳払いをした。
隣で、翔也の体をした紗英がネクタイを緩めながら、ちらりと視線を投げかける。
「大丈夫? スカートスーツの着方わかる?」
「……はい。大丈夫です。……たぶん」
そう言って、紗英(精神は翔也)はゆっくりと紗英のパジャマのボタンに手をかけた。
襟元から胸元があらわになる。
鏡の前に立てば、男ではない身体がそこにいることを、改めて実感させられた。
思わず視線を落としそうになるのをこらえて、そっとパジャマを脱ぐ。
その動作ひとつもぎこちなかった。
一方で、男の体で男性用スーツを着こなす紗英は、見慣れた手つきでネクタイを結び、シャツをきっちりとスーツのズボンに収めていた。
「ふふ……やっぱり、この体、着慣れてるんだね。シャツがぴったりだし、なんか落ち着くわね…」
「……それは、よかったです」
(僕は……全然落ち着かない)
紗英(精神は翔也)はスカートを腰に合わせ、慎重にホックを留める。
身体のラインにフィットするその構造に、どうしても恥ずかしさが拭えない。
でも――
(今日は、俺が高垣係長の代わりに、しっかりしないと……)
そう自分に言い聞かせながら、彼は最後に女性用ジャケットを羽織った。
ボタンを留め、ふたりは並んで鏡の前に立つ。
そこには、自分ではない誰かの姿になった“自分”たちが、
ぎこちなくも確かに「出勤前の表情」を浮かべていた。
15.体が違えば、運転席も変わる
朝8時過ぎ。
チェックアウトのフロントでぎこちないながらも会計を済ませたふたりは、ロビーを抜けて自動ドアの向こうへ出た。
朝の空気はじっとりと肌にまとわりつき、
そのなかで紗英(精神は翔也)は、見慣れない感覚と戦っていた。
「……いたたっ」
「……あはは、ごめん、やっぱりパンプス慣れてない?」
「はい……これ、思ってた以上に、足にきます……」
階段を降りるたび、足の甲にピタッと食い込むストラップ。
ヒールの傾斜にふくらはぎが張り、バランスを取るために腰が自然と反ってしまう。
(女性って……こんなのを毎日履いてるのか……)
スーツの中で汗がじわじわ滲み、足元には不安定な痛み。
それを隣で見ていた翔也(精神は紗英)は、くすっと小さく笑った。
「見た目は私だからおばさんだけど…歩き方がちょっと新入社員の女の子って感じね…♡」
「す、すみません……」
苦笑いしながら、紗英(精神は翔也)は手すりを頼りに足元を確かめた。
ホテルの地下駐車場に出ると、そこには昨日に借りたグレーのレンタカーが並んでいた。
二人は並んで歩きながら、その一台に近づいていく。
その途中、ふいに翔也(精神は紗英)が口を開いた。
「ねぇ村田くん、免許証って……持ってるわよね?」
「あ……はい、一応、財布の中に」
「じゃあ、私達のカバンと財布、交換しよう」
「え?」
「今の見た目で運転するのなら、身分証明が合わないでしょ?今は“体”が逆なんだから」
「あ、なるほど……」
言われてみれば当然のことだったが、言われるまで気づけなかった自分が少し恥ずかしかった。
ふたりは立ち止まり、女性用のハンドバッグと男性用のリュック、それとお互いの財布を交換する。
紗英(精神は翔也)は紗英の財布を手に取りながら、中に入っている免許証に視線を落とす。
(……“高垣紗英・38歳・東京都”…。高垣係長の人生が、ここに詰まってるんだな…今はこれが僕の身分を証明する書類なんだよな…♡)
胸の奥に、うっすらドキドキとした緊張感がこみ上げてくる。
「私はいつも運転してるから、今日も、村田くんの体で運転するわね」
「あ……はい、助かります…」
翔也(精神は紗英)が運転席側に回り込むと、翔也の体がスムーズにドアを開けて座席に滑り込む。
その様子を見ながら、紗英(精神は翔也)は助手席側へと向かった。
(なんか……自分の体なのに、すごく頼もしく見える……)
自分より自分がしっかりしている――そんな不思議な気分に、小さく苦笑いを浮かべながら、
紗英(精神は翔也)は助手席に腰を下ろした。
エンジンがかかり、ナビがゆっくりと立ち上がる。
そのなかを、二人は今日の訪問先――
本来の自分と異なる異性の体を抱えたまま、静かに走り出した。
-続く-