ホームオフィス(Overtime B) Part 3 <14,000字くらい> (Pixiv Fanbox)
Content
14.
岩本は、トレーニング用のベンチに腰掛けながら、拳にグローブを固定した。
グローブは、ウェイトを持つ際に手首にかかる負荷を軽減する目的や、単純に滑り止めのために使っている。グローブを装備したその分厚い掌は、バーベルを握った。
日課のトレーニングは欠かすことはできない。
どんなに特別な日であろうと。
岩本の家には、これからいくつも空き部屋ができる予定だった。
妻と離婚し、子供も手放すことに決めているからである。
もちろんその空き部屋のうちのひとつは、伴侶である安藤の部屋になる。
それ以外の部屋に関しても、空き部屋のままにしてしまっては勿体無いため、それぞれ家具を一新し、新しい使用用途を決めて使うことにしていた。どう使うかについて、まだ決めかねている部屋がほとんどだ。
しかし、既にどう使うか決まっている部屋があった。
トレーニングルームだ。
岩本の身体を鍛えるために使うホームトレーニング用の部屋は、安藤の強い意向もあって優先的に準備を進めたため、しっかり機材が揃っており、既に使える状態だった。
ボディビル大会への出場経験もある岩本は、もともとトレーニング用の機材を家にも設置して利用していた。しかし、岩本の場合、トレーニングはジムを利用することが主だったため、もともと家にあった機材は、簡易的なものと呼べるレベルのものだった。今後、ホームトレーニングのみで身体を鍛えていくにあたり、中途半端なトレーニング器具は必要ないという安藤の鶴の一声で、岩本はそれらの機材、設備をあっさり全て処分した。
トレーニング用の器具の全てを一新し、そのトレーニングルームは完成した。
岩本は金額の上限を定めず、より良い設備を揃えた。その投資額は尋常な金額ではない。その全ては岩本の長年の労働で得た対価が貯蓄されている銀行口座から引き落とされた。それだけの金額をかけた甲斐あって、岩本家のトレーニングルームは、完全にジムの代替として使えるほどに、備品やマシン、トレーニングに関する全ての設備が充実しており、そこは岩本の逞しい肉体をさらに力強く育むにふさわしい聖地というべき場所へと変貌を遂げていた。
「いつもこういう格好でトレーニングしてるんですか?」
「どうした。退屈したのか?」
安藤から声をかけられて、岩本はトレーニングベンチから身体を起こし尋ねた。
隣のベンチに座っている安藤は首を振る。
「チーフが筋トレしているところを見ているのは楽しいですよ」
「それなら構わんが」
筋トレしている姿を眺めていったい何が楽しいのだろうと思ったが、安藤が楽しいというなら実際にそれは楽しいことなのだろう。
トレーニングルームで運動するのは岩本だ。岩本がトレーニングをしている間、トレーニングをしない安藤は、自然と手持ち無沙汰になる。別に一緒にいる必要もないのだが、岩本がトレーニングをするとき、安藤はよく隣のベンチに座って、じっくりと岩本の身体、筋肉の動きひとつひとつをつぶさに観察しているようだった。
岩本は、袖ぐりが広めで身体に対してルーズにフィットするタンクトップと、通気性が良さそうでシンプルなショートパンツを身につけていた。その他にはグローブやベルトなどのトレーニングギアを装備している状態だった。
そんな岩本の姿が、安藤の目には物珍しく映ったようだ。まるで子供のように目を輝かせて、じろじろと遠慮なく岩本の格好を観察している。そんな様子を見て岩本は、手の甲で額にかいた汗を拭いながら、少し呆れるように笑った。
「俺の格好がそんなに珍しいか?」
「ええ、とても。僕はあまりそういう本格的なトレーニングしたことがないので」
それを聞いて、岩本は少し考えてから、思いついたように言った。
「……もし興味あるなら、一式見繕ってやろうか?」
「本当ですか?」
「ああ、当たり前だろう。欲しいものがあるならなんでも買ってやる」
何気ない言葉とやりとりだった。
しかし、実際に安藤が望みさえすれば、どんなものでも岩本は買い与えることだろう。たとえ地獄のような負債を抱える結果になったとしても買い与えるはずだ。
「でもそんな重そうなもの、持ち上げられるようになる気がしないんですが……」
岩本の扱っているウェイトを見ながら、安藤は唸る。
そんな安藤を見て、岩本は思わず声を上げて笑ってしまった。
「こんな重量を持ち上げようなんて、俺と一緒にボディビルでも始めるつもりか?」
豪快な笑い声を上げる岩本を見て、そんなに笑わなくてもいいじゃないですかと口を尖らせた。岩本はすまんすまんと平謝りしながら、不機嫌になりかけた安藤のご機嫌をなんとか取りなす。
「こんなに重たいものを持ち上げなくても十分な運動はできる。運動をする一番の目的は、健康になることだ。だから、健康的な量の運動から始めればいい。いやもしも、お前がもっと筋肉をつけたいっていうなら話は別だが、それでも徐々に負荷を上げていけばいいんだ。何も心配することはないよ」
岩本は、安藤と向かって優しく諭すような口調で言った。
運動をする一番の目的は、健康。
言いながら、岩本は「あくまでも安藤の場合は」と心の中で付け加える。
では、岩本自身の場合はどうだろうか?
岩本は、自分の使っているウェイトにちらりと目を向けると、その充分すぎる重量を眺めながら、さらにそれを増やしたいという耐え難い欲求が湧き上がるのを感じた。
「僕のために、もっともっと、マッチョになってくださいね」
岩本の脳裏には、幻聴のように、安藤の声がこだましていた。
――そうだ。俺はもっとマッチョにならなければならない。
日常生活に支障をきたすほどの筋肉ダルマにならなくてはいけない。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない」
安藤の好奇の視線を感じながら、岩本は慣れた手つきで重量を追加していった。
そしてトレーニングを再開する。
噛み砕きそうなほどに歯を食いしばりながら。
岩本にとって今までボディビルはあくまでも趣味の範疇だった。しかし、これからは今まで以上にその肉体を逞しく鍛え上げる必要があった。
何しろ岩本の肉体は安藤の所有物だ。
その肉体は、安藤に楽しませるためだけに存在している。それをしっかりと管理し、育み、鍛え上げて、安藤の理想とするマッチョマンとしての仕上がりを保ち続ける。岩本にはその責務があるのだ。
もちろん今の段階でも、岩本の肉体は、一般的な成人男性と比較して非常に逞しかった。首、肩、腕、胸、尻、脚。発達した身体中のありとあらゆる筋肉と、日本人離れした骨格とが相まって、そのボリューミーな迫力は圧倒的だった。
強く鍛え上げた岩本にとっても自慢の筋肉だ。いや、自慢の筋肉、だった。
「この程度の筋肉で満足しているんですか?」
安藤の言葉ひとつで、その自慢の筋肉は一瞬で価値を失い、貧弱な肉の塊に堕ちた。時間をかけ、立派に鍛え上げた岩本の自慢の肉体にすら、安藤は少しも満足しなかった。その十分すぎるほどの分厚さを誇る岩本の肉体が、さらなる肥大化を遂げることを、安藤は望んでいたのだ。
岩本は自分の貧弱な肉体を恥じなければならない。
そして、その貧弱で醜悪な肉体を改善するべく、逞しいはずの肉体をさらにさらに鍛え上げる必要があった。その筋骨隆々な肉体を。身体中の筋肉をさらに肥大化させる必要があった。
どんな手段を使ってでも。
生半可なトレーニング器具は、無駄に場所を取るだけしか能のない玩具にすぎなかった。だからこそ専用のトレーニングルームを設け、最高品質のトレーニング用の器具、大量に配置する必要があった。トレーニングルームのために注ぎ込んだ膨大な資産について、岩本は少しも惜しいとも感じていなかった。
全ては愛すべき伴侶である安藤のためなのだ。
安藤の望みを叶えるためなら、どんな犠牲を払っても惜しくはない。
岩本にとっての物事を判断する際、最も優先すべき基準とは、安藤の望みに則しているかどうか。それだけが全てである。
そうあることが、岩本にとって、圧倒的に正しいことなのだから。
岩本が持ち上げたバーベルが軋む音が響いている。
尋常ではない負荷は筋肉を引き攣らせた。しかし、岩本はそれを心地よいとしか感じなかった。苦痛を感じていないわけではない。にもかかわらず、筋肉を酷使することが岩本にとっては圧倒的に気持ちが良いことだった。
一般的なトレーニーから見ると尋常ではない大きさの重量は、その重みをもって、岩本の逞しい肉体と、その内側に込められた健全な清らかな魂をゆっくりと蝕み、圧搾し、凝縮しながら、変態的な恍惚の坩堝へと引き摺り込む。
苦痛を感じたとする。しかし安藤のことを考えるだけで、それは霧散した。
どんな苦痛であろうと岩本の愛情は、それを凌駕した。岩本は幸せだった。そして、愛情という温かい感情の偉大さと、その尊さを実感するたびに、胸が熱くなる思いだった。
愛情というのは、脳内の神経伝達物質のことだ。
岩本の脳内は、アドレナリンをはじめとする脳内麻薬に支配されていた。愛の名の下に、その脳内で脳内麻薬たちは無尽蔵に放出され、その圧倒的な力を存分に発揮することで、岩本の精神を支配する王族として君臨していた。岩本は自身でも気付かぬうちに脳内麻薬に支配され、その偉大なる王の力の前に、その魂を平伏させられていた。
慈悲深き王は、従順なる下僕である岩本に愛情という名の神経伝達物質を注ぎ続けた。その人生観を歪ませるほどに大量の愛情を。
岩本は、他人に対してこんなにも深く温かい愛情を覚えたことは、これまでの人生の中で今まで一度もなかった。
際限なく湧き上がる愛情は、岩本のイメージの中で、やがて質量を持ち、液体の姿を得た。その液体は、血管の中を満たしていく。
そして、それは身体中の血管を満たしても、なお増え続けた。
毛細血管をこじ開けながら、その液体はたっぷりと筋肉の中に吸収されていく。その液体は、いや愛情は、身体中の筋肉を水風船のように膨張させていった。
尽きることのない愛情に際限はない。そして、岩本の肉体もその愛情を無尽蔵に受け入れた。動脈を限界まで膨張させながら、その愛情は力強い心臓の拍動によって生まれる圧力によって筋肉に流し込まれ続け、次々に吸収されていく。その度に質量を増していく筋肉たちは、筋肥大によって与えられる苦痛に、歓喜の声を盛大に上げ始めた。
そしてついに身体中の骨はその膨大な筋肉量を支えきれなくなり、崩壊を迎える。
その瞬間、皮膚を突き破るのではないかと思うほど急速に、そして爆発的に筋肉は膨れ上がり、原型を留めぬほど異常に肥大化した肉体は、まさに逞しさの権化となった。そしてそれは、神々しいほどに純粋な肉体。肉の塊となった。その中は愛情がびっしりとぎゅうぎゅうに詰まっている。筋肉でできた器。その中には、たったひとりの人間に対する愛情だけが、溢れんばかりに満ちている。
――ああ、これこそ俺の求める最高の肉体だ!
おびただしい量の脳内麻薬は、そんな幻覚を岩本に与えた。
岩本の幻視したその異常なほど肥大化して発達した『理想の肉体』の姿は、焼きごてを押し付けるように、脳裏に焼き付けられた。瞳を閉じるだけで、それは写真のようにはくっきりと岩本の目に映る。その瞼の裏に映るその『理想の肉体』は、異様な高揚感を岩本に与えた。
それは、ただの幻影にすぎない。
今は、まだ幻影に過ぎない。
しかし、トレーニングを続けることで、幻影は現実となる。それはなんと素晴らしいことだろうか。岩本は、自分自身の肉体がその幻影通りに変貌を迎える未来の予感に胸を躍らせる。『理想の肉体』となった自分を安藤に捧げることで、いったいどれほど安藤を喜ばせることができるだろうか。喜び、新しい玩具を与えられた子供のように目をキラキラさせて、安藤が自分の肉体に誉を与えたとき、いったいどれほどの達成感が得られるだろう。
想像するだけで、岩本の脳は絶頂に達しかけた。
「――フーッ!」
セットを終えた岩本は起き上がりベンチに座った。
荒く乱れる呼吸を落ち着けようと試みるが、酸素を供給せよと矢継ぎ早に求めてくる自らの肉体の強権には、しばらく抗えそうになかった。
全身からは滝のように汗が噴き出していた。その汗を拭こうと、岩本はタオルに手を伸ばす。しかし、それは安藤に阻まれ、タオルに岩本の手が届くことはなかった。
「フーッ……、どうした? 代わりに、拭いてくれるのか?」
滴る汗を岩本は手の甲で拭いながら尋ねる。
「トレーニングでかいた汗は綺麗な汗ですから、拭う必要なんてないでしょう」
「フーッ!! フーッ!! ハハ、そりゃあどういう理屈だ」
息も絶え絶えになりながら、岩本は笑った。
激しい呼吸に肩を上下させる岩本の隣に、安藤はぴったりと寄り添うように座り、その太く逞しい腕に頬を寄せた。頬に触れる腕は、鉄を溶かすほど熱を帯びている。激しい運動を終え、蒸れた肉体からは湯気が立ち上っている。隣にいるだけでその強い熱気と臭気は、否が応でも伝わってくる。
「折角こんなにいっぱいかいた汗を拭うなんて、もったいないですよ」
岩本の鎖骨の溝に溜まった熱い汗を、安藤は指で掬い取ると口に入れた。舌先に触れる塩辛さを味わう。一口では物足りない。そう思った。
「ハァ……、冗談はいいから、早くタオルを……」
岩本にそんな安藤の感情を察することなどはできなかった。
だから安藤は、岩本に理解させることにした。
「でも、チーフは『トレーニングでかいた汗は、拭かずにそのまま垂れ流すことが、大好きでたまらない』んですから、タオルなんて必要ありませんよね」
「何を言って……ウッ!!」
頭を軽く小突かれる衝撃。
実際に頭に殴られたわけではない。ただの錯覚だ。
しかし、なぜかさらに激しさを増した呼吸は、岩本に目を回させた。
トレーニングの疲れのせいだろうか、と岩本は思った。
しばらく岩本は、俯いたまま動かなかった。呼吸が落ち着き始めると、岩本はゆっくりと顔を上げた。
「ああ。俺はトレーニングでかいた汗が身体を流れる感触を楽しむこの瞬間が、実は大好きなんだ。しっかりトレーニングできたという実感に繋がるからな。……不潔に感じるかもしれないな。だが、汗を流し切ったあとはすぐにシャワーを浴びるから問題ないんだ。流石に放置したら、酷い匂いになっちまうからな」
岩本の額から汗が無尽蔵に垂れる。タオルを使うことのできない岩本は、それを再び手の甲で拭った。
「不潔? すぐにシャワーを浴びる? 酷い匂い?」
安藤はつまらなさそうに鼻で笑ってみせた。
「汗の匂いは酷いくらいがちょうどいいんじゃないですか」
「いや、汗臭いのは流石に不快だろう?」
「いいえ。チーフは『自分の汗臭い匂いが好き』なんですから。だから『汗をシャワーで洗い流すなんてもったいない』と思っているんです」
「馬鹿な。そんなはずが……うっ」
岩本は、糸の切れた操り人形のようにガクンと項垂れる。
言いながら岩本は自分の身体から立ち昇る匂いに反応して、鼻をひくつかせた。
慣れ親しんだ岩本自身の汗の匂いだった。
発汗は今も、なお続いている。ポタポタと床には流れ落ちた汗の滴が散らばっている。気持ちがいい。こんなにも汗まみれでいたら、もっともっと汗臭くなってしまうではないか。このまま汗が乾くまで放置したとしたら、この肉体はどれほど素晴らしい汗の匂いを発することだろう。
シャワーで汗を洗い流す。時間をかけて折角かいた汗が、無慈悲に排水口に飲まれていく。そんなもったいないことを許せるだろうか。
厳しいトレーニングでかいた美しい汗は、もっと尊ばれるべきではないだろうか。
そうだ。そんな美しい汗を洗い流すなんて、もったいない。
岩本はゆっくりと顔を上げた。
「俺は、自分の汗の匂いが好きなんだ。ずっと前からこの匂いが好きだった」
そう言いながら、岩本は腕を軽く上げた。
自ら晒した腋窩に顔を寄せ、蒸れたその匂いをゆっくりと吸い上げ、肺を満たす。
「せっかく汗だくになるまで汗をかいたのに、それをシャワーで洗い流すなんて、どう考えてももったいないな」
「僕もそう思います。でも、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
安藤は、岩本の使おうとしていたタオルを摘み上げると、それを岩本の鼻先に突きつける。
「タオルを使おうとしていたのは、なぜですか?」
「なぜって、それは……」
汗を垂れ流すことが好きだ、と言ったばかりだ。
汗臭くなることが好きだ、と言ったばかりだ。
シャワーで洗い流すことすら勿体無い、と言ったばかりだ。
――それなのに、どうして汗をタオルで拭こうとしたんだ?
なぜだ。意味がわからない。
どう順序立てて考えようとしても、理解することを頭が拒む。
「どうして、俺は……」
「あ、分かった!」
安藤はわざとらしく声をあげ、何かを思いついたように手を叩いた。
「岩本チーフは、実は『汗だくの身体を見られるのが恥ずかしい』から、タオルを使って拭こうとしたんじゃないですか?」
「……?」
――汗だくの身体を見られて恥ずかしいとはどういうことだ?
もともと体育会系、アメリカンフットボールのプレイヤーであった岩本にとって、汗みずくの肉体を他人に晒すことなど、日常茶飯事のことだった。何も特別なことではなかった。運動して汗をかくということは、人間として当然の生理現象である。もちろん自ら進んで他人に見せつけるようなものでもないが、運動をするという正当な理由でかいた汗を、なぜ恥じる必要もないのだ。
ましてや安藤は家族である。羞恥を感じるはずなどないのだ。
そのことについて、言葉にしようした岩本は、言いようのない抵抗感を覚えた。
これは、安藤の言葉に逆らう、というわけではない。
誤りを……誤解を、少しだけ、訂正するだけだ。
……それだけなのだから、問題ないはずだ。
そんな心理的な抵抗を振り切るように、軽く頭を振り、岩本は口を開いた。
「別に俺は、お前の言うことを否定するつもりはないんだが、俺は汗だくであろうと、身体を見られて恥ずかしいと思うことはない」
「はあ、そうですか」
聞き流すように安藤は答えた。
そしてすぐに、失望したと言わんばかりにため息をつく。
「まったくチーフは見栄っ張りで、嘘つきですね」
「嘘だと? 俺が、安藤に嘘をつく必要なんて――」
言い終わる前に、安藤は岩本の肩を一度だけ軽く叩いた。
目眩を覚える。
思考は定まらず、酩酊感に包まれていく。
ガクン。
岩本は、頭を項垂れる。
「それで、本当は?」
「本当……は……」
「本当は『汗だくの身体を見られてしまうのが恥ずかしい』」
安藤がそう言葉を発すると、岩本は小さく呻いた。
染み込んでくる。
頭の中に染み込んでくる。
違うと、心の奥底で何かが叫んでいる。声を上げている。
しかし、その声は反響する安藤の言葉で掻き消えていく。
「心を開いて、正直な自分の気持ちを認めましょう」
何も考えることができない。
唯一鮮明に頭に響いてくる安藤の言葉を鸚鵡返しにすることしかできない。
「さあ、本当は?」
問いかけられて、岩本はゆっくりと顔を上げた。
「やっと、分かったよ」
そして、静かに口を開く。
「お前の言う通り、俺は汗だくの身体を自分以外の誰かに見られることが恥ずかしい。それは事実だ」
「やっと素直になってくれましたね」
「しかしだ。汗だくの男の身体なんて不潔だろう? そんな不潔な身体を誰かに見られて、恥ずかしいと感じることは、別に何もおかしいことじゃないはずだ」
岩本は、まっすぐな眼差しを安藤を向けながら言った。
「まだ汗臭い身体のことを不潔だなんて言ってるんですか?」
「それの何が悪いんだ? 俺は学生時代から何度も汗まみれの身体を他人に晒す機会があったが、いまだに慣れない。その頃から、ずっと恥ずかしくてたまらなかった」
「でも、汗を垂れ流しにするのは大好きなんでしょう?」
「そうだ。だが、それはあくまでも俺が一人でいるときの話だ。そんな汗まみれで不潔な身体を見せれば、相手を不快にさせてしまうだろう? どんなに汗だくが好きとはいえ、他人に迷惑をかけてまで、それを楽しみたいとは俺は思わん。それこそ恥ずかしい。人として恥ずべき行為だ。今日はお前がいるから、タオルで身体を拭こうとしただけのことだ。何もおかしいことはない」
岩本はきっぱりと言い切った。
頭の中にわだかまっていた矛盾が解消され、正しい思考を取り戻すことができたことを、はっきりと自覚することができた。
しかし、対して安藤は不服だった。
「流石に岩本チーフ。確実に擦り込みは成功しているはずなのに、どうして正気を保つのが上手いんでしょうか? やはり手強いですね」
「どう言う意味だ?」
岩本の問いには答えず、安藤は腕を組みながらうーんと唸っていた。
しかし、すぐにぱっと顔と輝かせる。
「いい設定を思いつきました」
そう言うと、唇を歪めて笑った。
「チーフは、ずっと我慢していたんですよ。恥ずかしいから、ひとりでずっと。だけど本当は他人と共有したくてたまらなかった。自分の汗臭い身体を」
「……お前は一体何を言っているんだ?」
「岩本チーフは、自分の汗だくの身体が大好きですよね」
「ああ、それはそうだが……」
「大好きなものというのは他人と共有したいものだと、そう思いませんか?」
「他人と共有する、だと?」
「そう。だから大好きな『自分の汗だくの姿を他人に見られたい』と思っていた」
「……ッ」
「大好きな『自分の汗臭い身体を他人に嗅がれたい』と思っていた」
「……くッ」
「それなのにその気持ちを『知られることが恥ずかしくてたまらなかった』」
「ッ、ち、違、ちが……ッ」
「本当は誰かと共有したかった。それなのに『恥ずかしさのあまり、ずっとそれを我慢していた』んですね」
安藤は、岩本の肩に人差し指を乗せていた。メトロノームのように規則正しいリズムで、その指先は肩の上を、トントンと繰り返し叩き続ける。
頭の中に何かをねじ込まれるような異物感。しかし、それは肩を指先で叩かれるたびに、岩本の中へ強引に入り込み続ける。
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
それは楽器の調律とよく似ていた。
触れるたびに指先は岩本の心を爪弾き、男らしい喉仏を震わせる。美しくも雄々しい音色を奏でながら、その音色の歪みを取り除いて、正しい音色に調律していく。いわば、安藤は調律師とも言えた。
呻き声は、次第に小さくなっていった。
そして、しまいには何の音も奏でなくなると、安藤は指先の動きを止めた。
岩本はゆっくりと顔を上げる。
「流石は安藤だな。俺のことは、何でもお見通しってことか」
バツが悪そうに笑いながら、岩本は自分の腋を掌で擦った。
安藤の視線を気にするように、少し逡巡したのちに、意を決したようにそれを顔に押し付けながら何度も強く吸い込んだ。
「ああ……やっぱり俺の汗の匂いは……最高だ……」
恍惚の表情を浮かべて、打ち震える。
「見ての通り、俺はもともと昔から自分の汗臭い身体が大好きなんだ」
「そうだったんですね」
「それだけじゃない。汗だくの姿を他人に見られたいし、できることなら嗅いでもらいたいと思っていた。だが、そんな恥ずかしいこと、言えるわけがない。だからずっと我慢して、この気持ちを隠し通してきたんだ」
岩本は羞恥のあまりに、顔が熱くなるのを感じた。
「……タオルを使って汗を拭こうとしたのも、そんな自分の気持ちをお前に知られてしまうことが、恥ずかしくて恥ずかしくて、仕方がなかったからなんだ」
岩本は自分の秘密を打ち明けながら、さらなる羞恥を感じ、トレーニングによって流した汗を上塗りするように、じっとり新たな汗を小麦色の肌に滲ませた。
「正直に話してくれて嬉しいです」
「ああ、安藤。お前には本当に隠しごとはできないな。でも、話せて良かったよ。もしお前が嫌じゃなければ、俺の汗だくな身体を見てほしい。それに、もし不快じゃなければ、俺の汗の匂いを嗅いでくれ」
「心配しなくても大丈夫です。僕も実は岩本さんの汗だくの身体が大好きなんです。それに匂いも大好きなんです。それってすごい偶然ですよね。僕がいれば、岩本さんはもう何も我慢しなくても良くなるんですから。僕たちの相性は最高です。きっと運命の赤い糸で結ばれているんですよ」
「安藤……。ありがとう。本当にお前と出会えて、俺は幸せだよ」
「もう隠し事はしないでくださいね」
「もちろんだ。安心してくれ。俺が安藤に秘密にしていることなんてもうないよ」
岩本は、力強く安藤の身体を抱き締めながら言った。
そんな岩本の耳元に、安藤は囁く。
「じゃあ、身体を鍛えようと思ったきっかけも、身体の汗臭さを引き立たせるためだったんですね」
「……そう、だったのかもしれないな」
岩本は小さく頷いた。
「ということは『アメリカンフットボールを始めたきっかけも、汗にまみれた自分の身体を合法的に晒す機会を増やすため』だったんですね」
「……ぐっ、そ、それは……それは……それはッ!!」
それは、違う!!
岩本は初めてはっきり頭の中にねじ込まれる『それ』を拒絶した。
岩本が本格的に身体を鍛え始めたきっかけは、学生時代に打ち込んでいたアメリカンフットボールで、身体と身体をぶつけ合い、真剣勝負をして仲間と勝利を分かち合う喜びを知ったからだ。たぎるような熱に突き動かされるように仲間たちと切磋琢磨した青春時代の記憶は、しっかりと岩本の魂に焼き付いていた。
決して、汗をかいて汗臭くなるためなんていう目的ではない。
そもとも汗をかくために運動するなど、おかしいではないか。運動するから汗をかくのだ。確かに汗をかくことに喜びを覚える側面はある。しかし、それは本当に汗臭くなるためだったか。そんなはずはないはずだ。
安藤の言っていることは間違っている!!
岩本は全身の肌が粟立つのを感じた。信じ込まされていたはずの言葉が、突如として異物として認識され、一気に違和感が湧き上がっていく。すると岩本の中の『正気』が急速に目を覚まし始める。
――俺は、一体、今まで何を考えていたんだ!?
束の間、やれやれという様子で安藤は、岩本と抱き合ったまま、その汗ばんだ肩に掴んだ。そして、血行を促すマッサージのようにぎゅうと力強く押し揉む。
その瞬間、岩本の思考は、完全に停止した。
「たまにはこういった趣向もどうかと思ったんですが、やはり疲れますね」
ふう、とため息をつき、そして、石像のように固まって動かなくなった岩本の身体を一方的に抱き締めてその温もりと鼓動を味わいながら、耳元に唇を寄せた。
「よく、聞いてください。岩本チーフは――」
パチン。
手のひらを叩く音が響くと、岩本ははっと顔を上げた。
「チーフ、大丈夫ですか?」
「ん? どうした? 俺はいつでも大丈夫だよ」
「それなら、もう一度聞いていいですか?」
「おう、何でも聞いてくれ」
「岩本チーフが、身体を鍛えようと思ったきっかけは、どうしてですか?」
「俺の――」
岩本は両腕を曲げ、力瘤を作ってみせる。
「この筋肉質な身体の汗臭さを引き立たせるためだ」
ダブルバイセップス、ラットスプレッド、サイドチェスト。
ポージングを次々と変えながら、自分自身の肉体が筋肉質である事実を、岩本は強調していく。岩本がポーズを変えるたびに、トレーニングでたっぷりと分泌された汗の匂いが周囲に拡散されていく。
「身体を鍛えるためにトレーニングすると効率よく汗がかける。それに、貧弱な身体より、筋肉質な身体のほうが、より汗臭さが引き立つような気がするだろう? それだけのために、俺は身体を鍛え始めたんだ」
岩本は白い歯を見せて笑いながら、ふんと力を込めると両腕を曲げて力瘤を作り、見事なダブルバイセップスのポーズを決めて見せた。
「学生時代にアメリカンフットボールに打ち込んでいたという話を前に話したことがあったよな。覚えているか?」
「はい、もちろん覚えてます」
「実はそれも、汗臭い身体を晒す機会を増やすためだったんだ」
「ええっ、そうだったんですか?」
安藤はわざとらしく声を上げた。
「アメリカンフットボールというスポーツが好きだから、真面目な気持ちで打ち込んでいたんじゃないんですか?」
そう言われて、岩本は少し照れるように笑った。
「もう安藤には隠し事をする必要はないから正直に話すとな、実はアメリカンフットボールというスポーツに対して、俺は少しも愛着がないんだ。別にアメフトじゃなくとも、男同士で身体がぶつかり合うコンタクトスポーツなら何でも良かったんだ」
「どうしてですか?」
「考えてみろ。汗をかいた身体を合法的にぶつけられるんだぞ? 俺とぶつかった選手は俺の汗の匂いを否が応でも嗅ぐはずだ。最高じゃないか」
「なるほどなるほど」
「それに、普通に生活していて、汗臭い身体を晒す機会があるか? アメリカンフットボールをしていれば、まず自然に汗まみれになれる。練習でも試合でも、たっぷりと汗をかくことができる。それだけでも十分に気持ちが良いが、アメフトにはユニフォームがあるんだ。つまり、必ず着替えをする必要がある。チームメイトの前で、不審に思われることなく、ごくごく自然に汗まみれの身体を晒すことができる。しかも、ロッカールームは密室だ。密室にいるチームメイト全員が、俺の汗の匂いを吸わずにいることなんて不可能なんだ」
「そんな不純な目的で、アメリカンフットボールを始めたなんて驚きです。てっきり岩本チーフは、もっと健全な心持ちで青春をスポーツに捧げたのだと思っていました」
「建前はな。アメフト時代のことを思い返すと、俺のかいた汗の匂いを嗅いで、顔をしかめる仲間の顔が浮かんで胸が熱くなるよ。実はな、今でもたまにそれを思い返しながらオナニーするくらいなんだ」
そう言いながら、たまらなくなってポージングを崩し、岩本は自分の股間をショートパンツ越しにぎゅっと握りしめる。アメフトに対する思いを語りながら、その記憶が想起させる興奮で、その性器は既に硬く勃起していた。
「だけど、もうそんな昔の記憶をオナネタにする必要なんてありませんよ」
安藤は岩本の肩に頬を寄せる。
「だって僕は、岩本チーフの汗臭い身体が大好きですから、これからはいつでも汗だくの身体を僕が味わい尽くしてあげますよ。なんていったって僕たちは愛し合っている特別な関係なんですから」
そう囁くと、岩本は安藤の身体を抱き締めた。
「本当に、お前と出会えて俺は幸せだ。お前のためならなんでもしてやりたい。本当に心からそう思っているんだ」
「本当にそう思っているなら、僕のお願いを聞いてくれますか?」
硬く熱を帯びた岩本の股間に触れながら、安藤は尋ねる。
岩本は、答えることすらもどかしくなり、安藤の唇に唇を重ねた。しばらくそれを続けたあと、静かに見つめ合うと岩本は穏やかに微笑む。
「何が望みだ」
「いますぐに、ここで、アドミラル・アンド・サイをしてください」
岩本は、安藤から少し離れて距離を取った。
脚の位置を整え、そして太い腕をゆっくりと持ち上げていく。頭の後ろで腕を組み、そして、筋肉にぐっと力を込める。
アドミラル・アンド・サイとは、直訳すれば腹筋と脚。ボディビルで腹筋と脚の大きさや形を強調するために用いられる。
しかし、安藤の瞳が見つめているのは、脚でも腹筋でもなく、晒された腋だった。もちろん岩本も、なぜ安藤がアドミラル・アンド・サイを要求したのか理解していた。ポージングを決めながら、自分の腋を見つめている安藤に対して、期待の眼差しを向けている。
「いただきます」
じっとり湿った腋に安藤は顔を埋めた。青臭い匂いを肺いっぱいに取り込む。そして舌を這わせて、その汗を舐めとり、じっくりと味わった。
腋に舌が触れるその感触だけで、岩本は思わず絶頂しそうになった。
――汗を見られている。汗を嗅がれている。汗を舐められている!!
ハァハァと呼吸を荒くして、高まる刺激への期待に胸を弾ませながら、それでも要求されたポージングを崩さぬようにと、必死で筋肉に力を込め続ける。
腋にたっぷりと分泌されていたはずの汗を、全て舐め取り尽くした欲深い舌は、今度は、逞しく豊満な胸へ狙いを定める。
まず、大きく開いた胸元に流れる汗を舐めとられる。次に袖ぐりからまんまと忍び込んだ舌に、塩辛くなった乳首が舐られる。飽きたらず、唇を押し付けられ、ちゅうちゅうと吸われる。
ポージングを強制させられたまま動けない岩本の肉体は、安藤に文字通り味わい尽くされていった。
「ポージングありがとうございました。もうやめていいですよ」
そう言って、安藤は岩本の身体を抱き締める。そして、深呼吸する。
「すごく汗臭くて、最高でしたよ」
「んんんッ」
匂いを嗅がれてしまった。
汗臭い身体を嗅がれてしまった。
全てを晒してしまった。
興奮と充足、羞恥と喜びとが同時に湧き上がり、そしてそれは甘い快感となって、じんわりと身体中に広がっていくのを岩本は感じた。
もうこの感情を隠す必要もないのだ。
何も我慢する必要はないのだ。
そして、この幸せの全ては、安藤のおかげなのだ。
そう思った瞬間には既に岩本は、安藤の身体を強く抱き締め返していた。
「愛してるッ!! 愛してるぞッ、安藤ッ!!」
安藤を抱きしめながら、身体の奥底から湧き上がる快感に身を震わせる。そんな岩本の唇に、今度は安藤から唇が重ねられる。そして、安藤の舌は仕上げと言わんばかりに、岩本の口内をかき回し、それすらも味わい尽くす。全てを晒し、全てを暴かれる。ねっとりとした口づけを繰り返しながら、岩本は、身体中が沸騰しそうなほどに熱く滾り、そして温かい幸福で満たされていくのを感じた。
愛してるッ!! 愛してるッ!! 愛してるッ!! 愛してるッ!!
頭の中でそう繰り返しながら、岩本は穏やかに、射精に至った。
ペニスには一切触れる必要はなかった。
むしろ失禁のようなその射精の感覚が、岩本には好ましく思えた。
じわり。
そう厚くもない黒いショートパンツの生地から、白い体液が染み出す。恥ずかしい染みが広がっていく。それを安藤が見たら、どう思うだろうか。
本来は恥ずべきその染みすらも、岩本にとっては汗臭い肉体と同じく、好ましいものに思えた。
他人に恥部を晒すという行為による悦び。
無意識のうちに、岩本はその虜になりはじめていた。