現実世界放浪記【陸】 (Pixiv Fanbox)
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ラッシャイ。俺は鯰田。げんこつ山のたぬきだ。俺は現実世界を歩くにあたって、すべての選択肢を誤って此処に居る。だがそのすべてを語る義理はない。今日はフォロワーであるお前にだけ、俺が「働く」という概念を一度だけ信じかけた日の話をしてやる。
高校に入ったばかりの頃、俺は金がなかった。
いや、正確には、いつも金がなかった。
幼少の頃からのネグレクトを「自主性を育てる」とか「放任主義」とか呼ぶらしいが、干渉されなさすぎるのも一種の暴力だ。衣食住のうち、俺にあったのはほぼ「住」だけだった。飯は近所の商店街で頭を下げればもらえることもあったが、そんな人生が楽なわけもない。
ある夏、俺は季節に合わせて避難していた。
図書館、公民館、コンビニ、そしてスーパー。
冷房と人の気配がある場所を、俺は渡り歩いていた。
その日はスーパーの休憩スペースだった。惣菜の油と、うざったい蝉の声が混ざる空間で、俺は硬い長椅子に座り、湿ったフリーペーパーをめくっていた。紙は指に張り付くほどだらしなく、まるでこの田舎のやる気を吸い込んでいるみたいだった。
【高時給・未経験歓迎・アットホームな職場】
つまり、誰でもよくて、長くはいられない場所という意味だ。
だが当時の俺には、その翻訳ができなかった。
そう、俺は今、高校生だった。
いつの間にか社会にとっての「労働力」になっていた。
金さえあれば、飯が食える。靴が買える。冬に凍えなくて済む。
それは当時の俺にとって、ほとんどファンタジーだった。
俺は電話番号を暗記して、公衆電話に飛び込んだ。
なけなしの10円玉を入れて、震える指で番号を押す。
コール音が鳴るたびに、心臓も同じテンポで叩かれた。
電話に出てきたのは元気の良い女の声。
面接のことを伝えるとすぐ日時や場所を案内された。
トントン拍子だ。
だが翌日、案内されたビルを見た瞬間にわかった。
ここは、俺の世界じゃない。
ネクタイと革靴の群れの中に、薄汚れた学生服が一匹混ざる。
キョロキョロとして迷子のような俺を見かねたのか、白髪の老人が廊下で声をかけてきた。そしてやけに優しい顔で、会社の場所まで連れていってくれた。
面接は集団だった。だが説明を聞いていくうちに暗雲。
求人と条件が違う。指摘すると、面接官はあからさまに不機嫌になった。
「この条件で働けないなら、帰ってもらって結構です」
なるほど、そういう場所か。
俺は素直に席を立った。
世界は俺に微笑まない。
とぼとぼとビルを出ようとすると、さっき案内してくれた老人が来客用と思われるソファに座っているのが見えた。
「兄ちゃん、どうだった?」
何故声をかけられたのかはよくわからないが、俺が場違いに薄汚れてるから気になったのかもしれない。事情を話すと、彼はしばらく黙り、そして言った。
「……場所変えよか」
老人に連れられた地下のカフェは静かで、俺には場違いなほど落ち着いていた。
オレンジジュースはマジでうまかった。
そして俺は自分の人生がどれだけクソかを、全部吐き出した。
老人はそれを黙って聞き、やがて携帯で誰かに電話をかけた。
「僕はここのビルの中にある会社の…まぁちょっとしたもんでね。友達が多い。そこで人手が要る店があって。行ってみんか?」
古いラーメン屋だった。くたびれた暖簾は色が抜けきっていて、何度も雨と煙をくぐった顔をしていた。換気扇の奥からは、豚骨と焦げた醤油の匂いが混ざった、腹に直接くる匂いが漏れていた。
それを嗅いだ瞬間、俺はこの場所が“生きている”と感じた。
それだけで、なぜか少し安心した。
老人に案内され中に入る。店主は60か70代だろうか。
妙に貫禄がある。
「坊主、働きたいんか」
「はい!よろしくお願いします!!」
「僕からも頼むよ。事情は電話の通りでさ」
「…ええよ。預かるわ」
俺はそこに転がり込んだ。
食器を洗い、寸胴鍋の底を削り、掃除をする。
指先はふやけて、服はラーメン臭くなった。
クラスで笑われても、俺は少し誇らしかった。
その匂いは、俺がどこかに属している証だったからだ。
あっという間にひと月が経ち、給料の入った茶封筒を、俺は何度も開けては閉じた。
まるで中の紙切れが、ふとした拍子に逃げ出す生き物みたいだったからだ。
…金がある。
けして多くはないが、それだけで世界は手のひらを返す。
昨日まで俺を無視していた空気が、今日は少しだけ俺を通す。
その店で、俺は三年近く生きた。
二階の狭い倉庫を部屋として眠り、油の匂いに包まれて目を覚ます。
家よりも長くいた場所が、いつの間にか俺の居場所になっていた。
だが卒業と同時に、店は閉じた。
俺はどうやら、店の最後の延命措置だったらしい。
泣いた。
情けないくらい、うんと泣いた。
…
人生で一番危ないのは、金がないことじゃない。
誰にも必要とされていないと、自分で勝手に決めてしまうことだ。
仕事なんてのは、その思い込みをしばらく誤魔化してくれるだけの場所でいい。
二階のあの部屋はもう無い。
鍋も、暖簾も、あの匂いも、たぶんどこかで黙って腐ってる。
でも俺のシャツの奥には、あのラーメン屋の油だけが
まだしつこく染みついたままだ。
それを思い出すたび、
「ああ、そこに居てよかったんだな」
って、少し遅れてくる。
たぶんそれだけで明日もまた、
クソみたいな現実を歩ける。
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