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いつもの帰り道

誰もいない。

そう確認してから、俺はそっと個室の外へ出た。


白い照明の下、洗面台の鏡に映るのは紛れもない“瑠香ちゃん”だった。

自分がセーラー服姿で男子トイレに立っているという事実に、心臓の鼓動が早くなる。


(……もう、行くしかない……)


ここでモタモタしていれば、いつ人が入ってくるかわからない。

気まずいどころか、最悪の場合——。


俺はカバンを胸に抱き締め、足早に男性トイレの出口へ向かった。


扉を開けた瞬間、駅構内の喧騒と視線が一斉に流れ込んできた。

視線を上げられない。

ただ、スカートの裾が脚に触れる感触だけが、やけに鮮明に肌を這う。


ホームへ向かう途中、前から女子高生のグループが歩いてきた。

俺は反射的に肩を縮め、視線を床に落とした。


「……ねえ、あれって……?」

「……えー、マジ?」

「……ウソでしょ?」


すれ違いざまに聞こえた囁きが、背中に鋭く突き刺さる。


(俺の話……?)


怖くて振り返れない。

自分とは全く関係のない話だったのかもしれない。

それでも『自分のこと』だと思い込むだけで、手のひらにじんわりと汗がにじむ。


(気にするな……誰も俺の事なんて気にしていない……)


そう自分に言い聞かせながら、俺は今にも潰されそうな気持ちを抱えてホームに着いた。


◆


ホームは案の定、帰宅ラッシュの人混みで溢れていた。

スーツ姿のサラリーマン、疲れた表情のOL、部活帰りの学生たち。


その中に、俺は紛れもなく異物として混ざっている。

セーラー服を着た、18歳の女の子として。


(無理だ……やっぱり無理……)


逃げたい衝動が喉まで込み上げる。

しかし、ここで逃げたところで状況は変わらない。


心の中で葛藤していると、電車が到着した。

ドアが開き、人波に押されるように乗り込む。


「っ……」


吊り革を掴もうと腕を上げた瞬間、脇腹に複数の視線が集まる気がした。

向かいに座っていたサラリーマンが、ちらりとこちらを見ている。

その視線がゆっくりと上下に動き、セーラー服の胸元からスカートの裾までを舐めるように這う。

俺は慌てて顔を逸らした。


(見ないでくれ……)


——なのに。

その視線に、どこかぞくりとしてしまう。


見られている。

このセーラー服姿を、他人に。


それが恐ろしくて、恥ずかしくて、でも胸の奥底では甘く疼き、悦んでいる。

そんなクラクラする感情を必死に押し殺し、俺は電車の中でじっと息をひそめていた。


◆


最寄り駅に到着し、降り立った瞬間、緊張がさらに強くなった。

ここからは生活圏だ。

知り合いに遭遇する可能性が一気に高まる。


俺は俯いたまま改札を抜け、夜の道へ出た。

スカートの裾が夜風に揺れるたび、自分がどんな格好をしているのかを、痛いほど思い知らされる。


交差点で赤信号に捕まる。

隣に誰か立った気配がした。


「あら?」


聞き覚えのある声。

全身が凍りついた。


恐る恐る顔を上げると、同じマンションに住むおばさんだった。

何度も朝の挨拶を交わしたことがある相手だ。

おばさんの視線が、ゆっくりと俺の全身をなぞる。


セーラー服。ウィッグ。薄く引いたメイク。

全部、見られている。

心臓が壊れそうなくらい激しく鳴る。


(終わった……)


頭が真っ白になる。

するとおばさんは、柔らかく微笑んだ。


「こんばんは。高校生?この辺じゃ見ない制服ねぇ」


「あ、えっと……」


意識して高い声を出す。

喉がからからに渇いていた。


おばさんは特に疑う様子もなく、青信号になると横断歩道を渡っていった。

取り残された俺は、その場で数秒、動けなかった。


(バレて……ない?)


むしろ完全に女の子だと思われていた。

その事実が背筋をぞわぞわと這い上がる。

『瑠香ちゃん』として認識されたことに、どこか歪んだ喜びさえ感じてしまう自分が怖い。

羞恥と恐怖が混ざり合い、足が小刻みに震える。


一刻も早く自宅に帰りたい。

しかし、今はその衝動を必死に押し殺した。


俺はおばさんと鉢合わせしないように、少し遠回りをする道を選んだ。

人気の少ない裏道を、セーラー服の裾を押さえながら歩く。


ようやくエントランスが見えてくる。


(やっと着いた……)


そう思った瞬間。

入口の前に人影が立っていた。


長い髪に細いシルエット。

愛だった。


俺が最寄り駅に着いた時に『もうすぐ着くよ』とメッセージを送っていた。

それを見て、愛はエントランスで待っていたらしい。


愛は俺を見るなり、嬉しそうに目を細めて微笑んだ。

「おかえり、瑠香ちゃん」


その呼び方で、顔が一瞬で熱くなる。

愛はゆっくり近づいてきて、俺のセーラー服の襟を優しく指先で整えた。


「ちゃんと帰ってこれたんだ?」


「……うん」


「ふふ。すごく似合ってる」


耳元で甘く囁かれ、全身がびくりと震える。

俺は慌てて周囲を見回した。


「あ、ありがとう……でもここで誰か来たら……早く部屋に……」


「うん、そうだね。すぐに戻ろっか」


愛はくすくすと笑いながら頷いた。


「あっ、でもね……」


——嫌な予感がした。

愛はわざと焦らすように、言葉を区切る。


「今日は家にお客さん来てるから」


「……え?」


「芹菜(せりな)が瑠香ちゃんに会いたいって」


背筋が凍りつく。

愛の瞳が、優しく、しかし底知れぬ残酷さで輝いている。


(芹菜……?なんで……?)


胸の奥で、羞恥と恐怖が激しく渦を巻いた。



【8章につづく……】

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