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夕方の教室は、日中の喧騒を嘘のように吸い取っていた。

窓の外ではグラウンドの白線がオレンジ色に溶け、非常灯だけが廊下を薄く照らしている。黒板の端に残ったチョークの粉、誰かが忘れていったプリントの角、教卓の脚に巻きついたケーブル。放課後特有の、人の体温が抜けたあとの匂いが、ゆっくりと床に落ちていた。

森崎直人は、その教室の扉の前で一度息を詰めた。

呼び出したのは、間違いなく高坂玲奈だった。卒業して五年。社会人になっても、元担任の名前を見るだけで背筋が伸びる。当時から美人で、口が悪くて、成績と生活態度には異常に厳しかった女教師。直人は彼女の授業中、一度もまともに目を合わせられなかった。

扉を開くと、玲奈は教卓の上でプリントを揃えていた。

黒いタイトスカートが、立った姿勢のまま脚の線をはっきりと見せている。ストッキングの光沢が蛍光灯を受け、膝から下が滑らかに沈んでいた。ヒールの高さが、床に小さく乾いた音を残す。ブラウスの襟元はきちんと閉じられ、胸の膨らみだけが生地を内側から押し上げていた。黒髪は肩甲骨のあたりで一つにまとめられ、耳の下の細い線が、教室の静けさの中で必要以上に目立った。

「遅い」

最初に落ちてきたのは、挨拶ではなかった。

玲奈はプリントから目を上げもせず、赤ペンのキャップをカチッと閉じた。それから、ようやく直人の方を見る。五年前と同じ目つきだった。冷たくて、評価していて、少しだけ苛立っている。

「……高坂先生」

「まだその呼び方なの。卒業してるでしょ」

そう言いながらも、玲奈は「玲奈でいい」とは言わなかった。直人が教室内に一歩入ると、彼女は顎で教卓の前を示した。

「そこに座りなさい。書類、置いてあるから」

直人は指示された椅子に座った。かつての自分の席に近い位置だった。目線を上げると、玲奈の脚がすぐ近くにある。ヒールの先、ストッキング越しの爪先、足首の細さ。大人になっても、彼女の高さは変わらなかった。いや、社会に出てからの直人の方が、かえって小さく感じる。

玲奈は教卓の引き出しからペットボトルと紙コップを出し、淡々と液体を注いだ。麦茶にしては色が少し濃い。机に置かれたカップから、甘いというより薬草じみた匂いが薄く立ち上った。

「飲みなさい。夏場の教室、空気悪いでしょう」

「いいですよ、俺は――」

「いいから」

短い言葉だった。昔から、玲奈の「いいから」には反論の隙間がなかった。直人はカップを取り、一口飲んだ。苦味の奥に、舌の裏へ残る金属のような後味がある。玲奈は自分の分には手をつけず、腕を組んで直人を見下ろしていた。

「就職先、事務だってね。クラス会の名簿で見た」

「ええ。……先生は、今もこの学校で」

「見てわからないの。質問の質、五年前から落ちてる」

毒のある言い方なのに、声の高さは以前より少し低い。直人がカップを置こうとしたとき、指先が杯の縁をうまく掴めなかった。視界の端が、ゆっくり外側へ伸びる。黒板の枠が遠ざかり、窓の格子が天井の方へ上がっていく。椅子の座面が急に広くなり、自分の靴が床の上で不釣り合いなほど小さく見えた。

「……なに、これ」

言葉より先に、体重が消えた。

直人の体が、服ごと内側へ折り畳まれるような感覚が走る。床が迫るのではない。世界の方が、音を立てずに膨らんでいく。教卓の脚が柱になり、玲奈のヒールが建物の入口のようにそびえた。ストッキングの編み目が、近くで見ると一枚一枚の膜に見える。直人はバランスを崩し、椅子から滑り落ちた。着地した先は、チョークの粉が積もった床だった。掌を突くと、粉の粒子が砂利のように粗い。

「ちょっと。今の、なに」

玲奈の声が、頭の上で天井のように響いた。

直人が顔を上げたとき、彼女はまだ事故だと判断しきれていない顔をしていた。赤ペンを持ったまま、教卓の陰を覗き込む。その動作だけで、巨大な胸の影が直人の視界を半分覆った。香水は控えめな柑橘系なのに、縮んだ今は湿度を含んだ肌の匂いの方が強い。夕方まで教室に立っていた体温が、衣類の内側から漏れ出している。

「森崎。どこ」

「ここです――下です、先生」

沈黙が、ひとつ落ちた。

玲奈はしゃがみ込んだ。タイトスカートが太ももの付け根で引きつれ、ストッキングの付け根近くまで直人の目に入る。彼女の顔が、両手の奥で月のように近づいてくる。瞳の中に、十センチにも満たない直人の全身が映っていた。

「はあ?」

低い声だった。驚きというより、面倒を見た瞬間の吐息に近い。

「縮小……? 今のお茶、本当に効くの」

直人は言葉の意味を追うより先に、彼女の吐息を浴びた。温かく、少し湿っている。唇の色が近く、歯の白さが巨大に見える。玲奈は指を伸ばし、直人の胴をつまむように摘まんだ。抵抗する腕など、彼女の指紋の溝にも届かない。

「痛っ――待って、高坂先生、戻してください」

「戻すも何も。実験段階の試薬、効きすぎただけでしょうが」

玲奈はそう言いながら、直人を掌の上に乗せた。皮膚の熱が、足の裏から一気に上がってくる。生命の熱だった。脈が、掌の厚い部分でゆっくりと打ち、直人の体を内側から揺する。彼女は立ったまま直人を目の高さまで持ち上げ、まばたきひとつで風を起こした。

「……小さい」

貶すように言ったのに、視線は長い。

直人から見れば、玲奈の顔は壁だった。整った眉、薄いまぶた、少しつり上がった目元。五年前、教室の後ろから見ていた横顔が、今は世界の全部になっている。喉の線を伝うように、彼女は小さく舌打ちした。

「部外者が放課後に倒れてたら、私が始末つけなきゃいけないの。ほんと、昔から手間かかるんだから」

「実験って、何を――」

「生徒指導用、ってことにしてる。落ち着かない男子に飲ませて、机の上で反省させる構想。机上の空論のつもりだったんだけど」

玲奈の指が、直人の胸のあたりを親指で押した。強くはない。それでも直人の肺から空気が抜け、彼女の指紋の温もりだけが残った。タイトスカートの中で、彼女の腿がわずかに組み替えられる。そのたびにストッキングが擦れる音が、直人のすぐ横で布の地震のように鳴った。

「動くな。落としたくないから」

所有するような言い方だった。本人は「管理」のつもりでいる。直人は掌の丘に四つん這いになり、彼女の指の根元へ逃げるように膝を進めた。そこは汗と石鹸の匂いが混ざる窪みで、昼間ずっとチョークとプリントを扱っていた手の脂肪が、柔らかく盛り上がっている。

玲奈は教卓に腰を下ろした。椅子の金属が軋む。直人の世界が、その振動で一度傾いた。

「とりあえず、今日は帰せない。このサイズで校門出たら、踏まれるか、カラスに持ってかれるかよ」

「先生――」

「高坂。今は勤務時間外」

言い直させたあと、玲奈は自分の言葉が気に入らなかったらしく、唇をへの字に曲げた。直人を掌から、今度は太ももの上へ滑らせる。タイトスカートの生地の上、その下にあるストッキング。熱が違う。掌より広く、掌より高い温度が、直人の腹と胸を下から押し上げた。筋の走った腿の膨らみが、呼吸のたびにゆっくり上下する。

「……温かい」

思わず漏れた直人の声に、玲奈の眉が寄った。

「変なこと言うな。人間の腿ですけど」

そう言っても、彼女は直人を払い除けなかった。むしろ膝の角度を変え、直人が転がり落ちないよう、腿の内側へごくわずかに寄せる。ストッキングの繊維が直人の頬に触れた。編まれたナイロンの一本一本が、縮小した皮膚には縄の感触に近い。夕方まで履き続けた脚の匂いが、甘辛い熱とともに鼻の奥へ入ってくる。石鹸の名残と、靴の中で蒸れた足の匂いが、遠くで混ざっていた。

直人は腕で体を支え、眼前に広がるスカートの裾を見た。影の中で、太ももの付け根が闇になって続いている。その奥を意識した瞬間、玲奈が指で直人の後頭部を軽く弾いた。

「視線、上がりすぎ」

「だって、ここしか――」

「ここしかないのは、お前が小さくなったせいでしょうが」

玲奈はヒールを床に付けたまま、脚を組み替えた。直人はその動きに耐えきれず、腿の丘を転がり、スカートと腿のあいだの谷間へ落ちかけた。彼女の手が間に入り、また摘まみ上げられる。今度は指二本で、脇の下を支えるように。直人の耳に、玲奈の心臓ではない、もっと低い、お腹のあたりの生命音が聞こえた。

「恥ずかしいなら目を閉じなさい。私は見えてるんだから」

「先生、お願いです。元の大きさに」

「今すぐは無理。半日は様子見って説明書に書いてあった。説明書、引き出しの奥」

淡々とした告白だった。玲奈は直人を再び掌に戻し、今度は自分の顔の近くまで持っていく。吐息が直人の髪を撫でる。近い。近すぎて、唇の表面の乾燥まで見える。

「で。今のお前にできること、反省だけね」

「反省……?」

「現役のとき、私の授業中に居眠りしたでしょ。覚えてる。名前、黒板に書いた」

直人は覚えていた。あのとき玲奈は、笑顔ひとつ作らず、チョークを置いただけだった。今、その同じ女が、直人の全身を指の腹で転がしている。

玲奈は椅子を後ろへ引き、脚を伸ばした。黒のヒールが、直人の視界いっぱいに立ちはだかる。爪先の傷、底の摩耗、夕方のコンクリートを踏んできた微かな埃。彼女は直人を掌から、自分の膝へ座らせるように移し、それからヒールの甲へ滑らせた。

冷たい革と、中の足の熱。

直人の手足が、靴の曲面に吸いつく。玲奈は足首をわずかに内側へ返し、直人を靴の開口部のほうへ寄せた。蒸れた空気が、一気に上がってきた。足の指の匂い、一日分の塩気、ストッキングのつま先に溜まった湿り。直人の喉が、反射で鳴った。

「臭い、でしょ」

玲奈は先に言った。羞恥を相手に押しつけるように。

「文句あるなら、自分で元に戻って。できないなら、しばらく我慢しなさい」

「ん……っ」

直人が顔を背けると、玲奈の指が頬をつまみ、靴の方へ向ける。強制ではない。向きを指定しただけだ。それでも直人の鼻先は、ストッキングに包まれた親指の膨らみに触れそうな距離まで落ちた。爪の形が布の下で丘になり、関節の段差が山脈のように続いている。

「舐めるとか、そういうのはまだいい」

玲奈は耳まで赤いのに、声だけは冷たく保っていた。

「勝手に興奮されたら、指導の意味ないから」

その言葉の途中で、直人は自分の体が反応していることに気づいた。縮小した股間が、熱を持って内側の布を押している。玲奈の腿の温度、靴の匂い、見下ろしてくる目。全部が、昔の教室ではあり得なかった方向へ直人を押し込んでいた。

玲奈はそれに、すぐに気づいた。

「……本気で?」

呆れた声だった。小さな笑いが、鼻の奥で一度だけ鳴る。

「五年経っても、私の前でそうなるの。サイズ変わっても中身はそのままね」

彼女は直人を靴から取り上げ、今度は太ももの内側、両脚のあいだの狭い棚のような場所へ置いた。タイトスカートの裏側が天井になる。左右から迫る腿の壁。ストッキング越しの体温が、直人の両脇を同時に焼いた。玲奈が膝を寄せるだけで、世界が狭まる。肉の弾力が、左右から直人の肩を包み、骨の形を確認するようにゆっくり圧をかけてきた。

「動けなくなるまで、挟むだけ。挿入とか、そういうのはしない」

必要以上に先を否定する言い方が、かえって今の行為を性的にしていた。玲奈自身もそれに気づいているらしく、視線を窓の外へ外した。夕光が、彼女の横顔の一本の筋をオレンジに染める。直人の耳の横で、腿の肉がきゅっ、と寄る音がした。布と肌のあいだの熱が、直人の背中を湿らせる。

「苦しい……先生、脚が――」

「高坂」

「……高坂、先生」

「中途半端」

玲奈はそう呟き、圧力をわずかに緩めた。優しさではなかった。潰したら書類が増える、という実務的な判断に近い。それでも直人の肺に空気が戻り、代わりに腿の匂いが深く入ってきた。夕方の女教師の脚。チョークと床と、隠れた汗。直人はそこに顔を埋めそうになり、寸前で止めた。

玲奈の指が、スカートの裾から入ってきて、直人の頭を上から押さえる。

「変な場所に顔、近づけるな」

「近づいてるのは、先生の脚のほうで――」

「口答えしない」

短い沈黙のあと、玲奈は小さく息を吐いた。苛立ちと、別の熱が混ざった吐息だった。

「今日は、この教室出さない。私が残って採点するから、そのあいだお前は机の下。聞こえる?」

「はい」

「はい、じゃない。わかりました、だよ。今の立場、わかってる」

直人は、両脚に挟まれたまま頷いた。頷く動作さえ、腿の壁に頬をこすりつける行為になった。玲奈の体が、ほんの一瞬、その感触に反応して硬くなる。すぐに普段の冷たい声が被さった。

「勘違いしないで。預かってるだけ。可愛がるとか、そういう趣味、ないから」

言い切ったあと、彼女は直人を腿の間から救い上げ、教卓の引き出しを開けた。ペンと消しゴムと、古いチョーク箱。その隙間にハンカチを敷き、直人をそこに座らせる。引き出しの木の匂いと、玲奈の指の残り香が混ざった。

「勝手に出るな。出たら、次は靴の中」

玲奈はそう宣言して引き出しを、完全には閉じなかった。隙間から、彼女の太ももの側面と、椅子に沈む尻の曲線と、床に着いたヒールの赤い裏側が見える。採点のペンが紙を叩く音が、巨大な時計のように降ってくる。

直人はハンカチの上で膝を立て、頭上の暗闇を見た。

元担任の日常が、自分の空になっている。ペンの音、ストッキングの擦れる音、時折椅子を引くときの金属音。その全部が、直人の皮膚のすぐ上で鳴っていた。玲奈は一度だけ、隙間から視線を落とした。目が合った瞬間、彼女は「見てない」と言いたげに顔をそらし、耳だけが赤かった。

「……まだ起きてるなら、そこで反省しなさい。元教え子が、私の引き出しに入ってる事実から」

言葉は冷たかった。

それでも、引き出しの外で組まれた脚は、隙間を塞がない程度に直人の側へ寄っていた。落ちないように。逃げられないように。本人が認めたがらない熱が、ストッキング越しに、狭い木の箱の中まで届いていた。

引き出しの中は、木の匂いと古い紙の匂いが層になっていた。

直人の頭上では、玲奈の椅子がわずかにきしみ、タイトスカートの生地が座面へ沈む音がした。隙間から差し込む蛍光灯は細い帯になり、その帯の中を、ストッキングに包まれた太ももの側面がゆっくりと横切る。坐骨の位置がずれるたび、肉の弾力が布の下で波打ち、直人のいる箱まで熱を運んできた。

ペンが紙を叩く。赤で名前を囲む音、ページをめくる音、吐息。五年前、教室の後ろから聞いていた音が、今は天井そのものだった。直人はハンカチの山をよじ登り、隙間の縁に指をかけた。木の繊維が掌に食い込む。顔を出すと、まず目に入ったのは、椅子に深く預けられた玲奈の尻だった。

黒い生地が、座面の形に合わせて左右へ分かれている。その下で、ストッキングの光沢が二つの丘を滑らかに繋いでいた。彼女が前かがみになると、背中のラインが伸び、ブラウスの裾がわずかに持ち上がる。腰の窪みに光が溜まり、直人の視線は自然と、その一番低い場所へ落ちた。

「見てる」

声は、ペンを置く音と重なった。

直人の肩がすくむ。玲奈は顔を下げず、手元の答案を見たまま言った。

「隙間の向こうで、動いてるのわかってる。引き出しの中で大人しくできないなら、約束どおりにする」

「待ってください、今のは――」

「今のは、なに」

玲奈は椅子を引き、引き出しを指先で開いた。光が急に増える。直人はハンカチの上で尻餅をつき、見上げた先で、彼女が片方のヒールに手をかけているのを見た。留め具が外れ、黒い革がゆっくりと足から離れる。蒸れた空気が、引き出しの縁まで届いた。

一日履き続けた靴の内側は、熱を抱えた洞窟だった。

玲奈は直人を摘まみ上げ、断りなくその開口部へ滑らせた。革の壁が両側から迫り、中敷きのへたりが床になる。つま先側では、ストッキングに包まれた指が五つの丘になって帰ってくる。親指の腹が、直人の胸の幅ほどもあった。塩気と、薄い甘さと、ナイロンが肌に密着して発した蒸れが、一気に肺の奥まで入る。

「ん……っ、臭い――」

「自分で出た罰。文句はあと」

玲奈はそう言って、足を靴の中へ戻した。

世界が、足の指に押し潰されかけた。直人は中敷きの奥、親指と人差し指の股へ逃げ、そこに体をねじ込んだ。頭上で関節が曲がり、ストッキングのつま先が直人の背中を覆う。熱い。湿っている。歩行のたびに溜まった汗が、布の裏で薄い膜になり、直人の頬と首に張りついた。玲奈が立ち上がると、靴の内部全体が前後に揺れ、直人の腹が中敷きに叩きつけられる。

「採点が終わるまで、そこで待ちなさい」

彼女の声は、革と肉の層を通して低く響いた。直人は指の股間で呼吸を整えようとし、そのたびに親指の腹が額を押した。歩くたびに、かかと側から圧力が押し寄せ、つま先側で直人を締め上げる。玲奈は教卓の周りを二往復し、窓を閉め、黒板の端を消した。その短い移動だけで、直人の服は足の匂いを吸いきった。

「苦しい……高坂、先生……指が、きつい」

「きつくしてるのは、私が歩いてるから。大人しくしてれば、潰すつもりない」

言いながらも、玲奈の歩幅は少しだけ小さくなった。本人は気づいていないふりをした。直人の耳に、彼女の喉で嚥下する音が届く。恥ずかしいのか、熱いのか、靴の外ではわからない。中にいる直人にだけ、足の指がごくわずかに開閉する感触が伝わる。隙間を作っている。意図的かどうかは、彼女自身も決めていない。

やがて玲奈は再び椅子に座った。かかとが床に落ち、靴の奥で直人の体が前へ滑る。親指の腹が直人の全身を覆い、しばらく動かない。採点の音が再開する。その間じゅう、直人は足指の下で、玲奈の脈を聞いていた。ゆっくりで、安定していて、時折、答案の誤答に舌打ちするたびに速くなる。

十分以上が過ぎたころ、玲奈はペンを置いた。

「……出してやる」

ヒールが外れ、光が戻る。直人は中敷きの上にへたり、額にストッキングの編み目を転写されたまままばたきした。玲奈は靴を片手で持ち、直人をつまみ上げると、自分の太ももの上へ戻した。今度はスカートを少しだけずらしている。ストッキング直の腿だった。熱が掌のときより近い。

「顔、赤い」

「靴の中が、熱くて」

「熱いのはわかってる。私が履いてたんだから」

玲奈は目をそらし、ストッキングのつま先を直人の前へ向けた。先ほどの靴から出したばかりの足は、まだ湿っている。親指の腹が、直人の顔ほども近づいてきた。

「反省の仕方、教え方は一つ。まずは謝りなさい」

「……すみませんでした。隙間から、見ました」

「何を」

直人の喉が鳴った。玲奈は待っている。答えを、正確に欲しがっている。

「先生の、……お尻を」

「高坂」

「高坂さんの、お尻を見ました。すみません」

玲奈の耳が、また赤くなった。それでも足を引かない。むしろ爪先を、直人の唇の手前で止めた。

「見て済ませるつもり? 指導は、体で覚えさせるものだけど」

「体で……」

「舐めるとか、そういうのはまだいい、って言ったわよね」

間が、ひとつ落ちた。

玲奈は自分の言葉を回収するように唇を噛み、それから小さく舌打ちした。

「……一回だけ。親指の腹。それ以上は勝手に動くな」

許可は、許可に聞こえない言い方だった。直人は腿の上で膝をつき、巨大な親指の腹へ顔を寄せた。ナイロンの表面は熱く、塩気があり、歩行の摩擦でわずかに毛羽立っている。唇が触れた瞬間、玲奈の太ももの筋肉がぴくりと跳ねた。

ちゅっ♡

小さな音が、教室の広さに対して不釣り合いだった。直人は許可された範囲だけを意識し、親指の腹の中央を浅く含んだ。汗の味が先に来て、その奥に石鹸と、足そのものの匂いが残る。玲奈は答案用紙の端を指で折り曲げ、折り目を何度もなぞった。見ていないふりをするための動作だった。

「んっ……変な音、出すな」

「許可されたので」

「許可したのは接触だけ。効果音まで許可してない」

そう言いながら、玲奈の足指は直人の顔から離れなかった。むしろ腹の部分を、わずかに押しつけてくる。直人の鼻が関節の段差にぶつかり、第二関節の裏の熱を吸った。れろっ♡と舌がナイロンを滑ると、玲奈の膝が内側へ寄る。腿の壁が直人の腰を挟み、逃げ場をなくした。

「そこは――関節は、言ってない」

「動いたのは、高坂さんの指で」

「口答え、二回目」

玲奈の声が低い。怒っているのか、喘ぎを殺しているのか、直人には両方に聞こえた。彼女は直人の頭を指で押さえ、親指の腹へ額を固定する。強制というより、自分から離すタイミングを失っている動きだった。

「もう一度。今度は音を立てるな。立てたら靴に戻す」

直人は頷き、再び唇をつけた。ちゅっ♡という音が喉の奥で止まり、代わりに熱だけが口の中へ広がる。塩辛い。少し甘い。夕方まで黒板の前に立っていた女教師の足が、直人の舌の上で生きていた。玲奈の呼吸が、答案の上で乱れる。ペンを持つ手が止まり、太ももの内側が熱を増す。

「は……ぁ」

短い吐息が漏れた。玲奈はすぐ口を閉じ、別の言葉で上書きした。

「指導中に変な声、出してない。聞き間違い」

直人は答えず、許可された親指を丁寧に舐めた。ナイロンの網目に舌先を入れ、汗の残った窪みを拾う。玲奈の足指が、徐々に開いた。人差し指が直人の肩に触れ、中指が背中をなぞる。一回だけの約束が、足の側から壊れ始めていた。

「……もういい」

玲奈は直人を足から離し、自分の掌に戻した。指の腹で直人の唇を拭う。その指もまた、先ほど直人が舐めた足の匂いを残していた。彼女は直人の股間を一目だけ見て、すぐに視線を上げた。反応は、隠せていない。

「また、そうなってる」

「靴の中で、ずっと」

「正直ね。嫌いじゃないけど、今は採点中」

嫌いじゃない、という言葉が、玲奈の口から出たあとに残った。彼女は自分で聞き直し、眉間に皺を寄せた。

「嫌いじゃないのは、素直なところの話。体のほうは、まだ許可してない」

直人を掌に乗せたまま、玲奈は残りの答案を雑に揃えた。赤ペンの蓋を閉じ、鞄へ突っ込む。窓の外は、すでに紺に落ちている。校舎のどこかで、施錠を知らせる低い電子音が一度鳴った。

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