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白い壁、白い床、白い天井。無機質な照明の光が、四人を囲むように等間隔で並んでいた。

「……これ、本当に大丈夫なんですかね」

篠宮拓真の呟きは、思ったよりも部屋に響いた。天井が高いせいだろう。防音処理でもされているのか、声が吸い込まれていくような感覚があった。

隣に立つ雛森桜が、腕を組んだまま小さく鼻を鳴らす。

「もう来ちゃったんだから、今さら後戻りなんてできないっすよ。それとも先輩、怖くなったんですか?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

彼女の軽口に苦笑いしながら、拓真は正面の人物へ視線を戻す。白衣の裾をまっすぐに伸ばし、青白いモニターの前で端末を操作している女性、鳳綾女。今回の治験の責任者だ。

長い黒髪をひとつに束ね、銀縁の眼鏡をかけている。年齢は二十代後半だろう。肌は陶器のように白く、表情はこそげ落ちたように静かだった。

「間もなく準備が整います。飲用前に最終確認をしますので、そのままお待ちください」

綾女はモニターから顔を上げずに言った。声は低く、落ち着いていて、温度というものを感じさせない。テレビや雑誌で見るような、いかにも「研究員」という雰囲気の女性だった。

「先輩、心臓バクバクしてます?」

桜が身を寄せて、悪戯っぽく笑う。背丈は拓真の肩あたりしかなく、ぴょこんと跳ねたポニーテールが、言葉のたびに揺れた。

「してないよ」

「嘘だー。手、こわばってるし」

「緊張はしてるさ。治験って初めてだし」

「あたしもですよ。でも報酬考えたらさ、こんな楽なバイトないっすって」

楽なバイト。治験という言葉から想像するような、長期入院や制限食の類ではなく、たった一晩の健康観察でかなりの額が出るという、学生向けの求人サイトで見つけた案件だ。信じるかどうかは別として、申し込んだ以上は受けるしかない。

「では、これが今回服用していただく検体です」

振り返った綾女が、トレイに載せた小さなカップを二つ差し出した。無色透明の液体が、それぞれ三分の一ほど入っている。飲み口の直径は二センチ足らず。普通の薬に見える。

「現時点で健康状態に問題はないと認められます。味はわずかに苦みがありますが、水で流し込む必要はありません」

「これ、全部飲めばいいんすか?」

桜がトレイに手を伸ばす。その手を、綾女が静かに制した。

「私の指示で同時に飲んでいただきます。記録に誤差が生じるためです」

「うわ、厳し」

桜が肩をすくめてこちらを向く。拓真も苦笑いを返すしかなかった。

「……それと、服用後はこの部屋から出られません。観察のため、私が常駐します」

「え、ずっとですか?」

「朝まで」

「えー、地味にきついなあ」

とはいえ、事前の説明でも聞かされていたことだ。部屋には簡易ベッドが二台並び、パーテーションで分けられた奥にトイレらしき扉も見えている。拓真と桜は顔を見合わせてから、同時にカップを手に取った。

綾女が壁際の端末を操作し、部屋全体を映すカメラが動く小さな音がした。

「では、合図でお飲みください。……どうぞ」

拓真はカップを傾け、中の液体を一息に飲み込んだ。温度はほとんどなく、粘性がある。喉の奥でゆっくりと落ちていく感覚があって、それは思った以上に不愉快だった。

「……にが」

隣で桜が顔をしかめる。拓真も似たような顔をしていた。

「お水、もらえますか」

「水は禁止です。しばらくそのまま安静にしてください」

冷たい返答に、桜が頬を膨らませる。それきり、部屋から余計な音が消えた。

一分、二分と時間が過ぎるうちに、違和感は体の外側からやってきた。

目が、かすむ。

天井の照明が、さっきより大きい気がした。

「……先輩、なんか、変じゃないですか」

桜の声が震えている。拓真は答えようとして、床までの距離が遠くなっていることに気づいた。

いや、違う。

床までの距離は同じだ。自分の膝が、床から離れていく。視線の高さが、下がっている。

「まさか……」

医療用の白衣。そのポケット。消毒液のボトル。机の脚。床のタイル。見えていたものが、徐々に大きさを変えていく。

隣を見た。桜の目が、すぐそばにあった。

「……嘘でしょ」

桜の声は、空気に吸い込まれるように小さかった。

果たして、自分の体が小さくなっているのか、世界が大きくなっているのか。判断がつかないまま、拓真の視界は加速度的に狭まっていった。足元を覆っていたはずのスニーカーが、まるで巨大な容器のようにずるりと抜けていく。

ズボンが、脱げ落ちる。シャツが頭の上で膨れ上がり、そのまま重く覆いかぶさってきた。

「くそ……っ」

何かの繊維の中でもがく。布の重みはかつて経験したことのない質量で、押しつぶされそうだった。

「先輩!? 先輩、どこっ!?」

桜の声は、布越しでも近くに聞こえた。おそらく同じように、自分の衣服の山の中に埋もれているのだ。

やがて、巨大な音と共に布の重みが除去された。床の上に放り出された拓真の視界に、まず飛び込んできたのは、白衣の裾と、黒いパンプスに包まれた足だった。

これまで見たどんな足よりも、大きい。

綾女がしゃがみ込み、片手を床につく。その指先の一本一本が、拓真の知る人間の腕よりも太く、長い。

「……良好です。予定通り、二人とも縮小が確認されました」

淡々とした声が、鼓膜に直接叩きつけられるように響いた。

髪の毛一本の重みに潰されそうな錯覚。空気の抵抗ですら違う。

桜が隣で、身を起こそうとしているのが見えた。彼女もまた、この巨きな世界に立っている。サイズは、拓真とほぼ同じ。二十センチ前後だろう。掌に乗るかどうか、私物のスマートフォンと変わらないくらいだ。

「な、なんなんすかこれ! 何が起きたんですか!」

「いい質問です。ただし今は、二人ともまだ動揺が大きいでしょう。まずは回収します」

綾女の掌が、床を滑るように近づいてくる。指先の影が、拓真の体を覆った。

彼女の指先の腹が、拓真の胸に触れる。小さな衝撃だったが、骨が軋むような圧迫感があった。

抵抗する間もなく、体が持ち上げられる。柔らかな掌の中央に転がされた拓真は、そこから自分が置かれた場所を見下ろすようにして、ようやく理解した。

自分と桜の服が、脱ぎ捨てられたように床に広がっている。それぞれが着ていたジーンズ、ポロシャツ、スニーカー。それらが、見慣れたはずの大きさのまま、二つの山を作っていた。

違う。服は変わっていない。俺たちが変わったんだ。

「……ひどい目にあった」

拓真の呟きを、綾女が聞いたかどうかはわからない。彼女はもう片方の手で、桜も同じように掬い上げていた。

二人は、それぞれ別の掌に乗せられ、顔を見合わせた。

まるで、二つの小さな人形のようだった。

拓真は掌の上で体を起こし、自分の手足を確かめるように見下ろした。指の太さは爪楊枝ほどしかなく、膝から下はいつものジーンズの感覚とはまったく別の、むき出しの肌が露出していた。衣服は縮むときにすべて抜け落ちたらしく、二人とも一枚もまとっていない。

「うわ……マジっすか」

隣の桜が、慌てて腕を胸の前に組んだ。拓真も無意識のうちに下半身を手で隠そうとして、すぐに意味がないことを悟る。隠すための手が、この巨きな女性の指一本ほどもないのだから。

「先輩、あっち向いてくださいよ……てか、なんで裸なんすか」

「知るかよ。俺だって裸だ」

「見ないでくださいよ、マジで」

互いに避け合うような体勢のまま、二人は巨大な掌の上で揺れていた。綾女が立ち上がり、移動を始めたのである。一歩ごとに掌全体が上下し、拓真の小さな体は柔らかな肉の地面に尻から落ちた。

掌の中央はほんのりと温かく、わずかに湿り気を帯びている。凹凸の少ない肌の表面が、視界いっぱいに広がっていた。指の付け根の襞が、東京近郊の丘陵のように連なって見える。自分の体の重みで、掌の肉がほんのわずか沈む感覚があった。

「……あの、私たち、どうなっちゃうんですか」

桜が声を張る。その声は、綾女の耳に届いているのか微妙だった。指の壁の向こうから、白衣の胸元が雲のように見下ろしている。

「この後、個別に健康状態を確認します。体の変化、感覚、意識の状態など、細かく検査しますので、そのつもりでいてください」

「検査って……なにされるんですか」

「難しいことではありません。私の指で体を触って、大きさを測ったり、聴診器を当てたりします」

「触る……んすか」

桜の声が小さくなった。拓真は無言のまま、床に落ちた自分たちの服を眺めた。スマートフォンも財布も、あのポケットの中だ。今はもう、手が届かない。

綾女は部屋の奥へ進み、壁際の作業台のような場所に二人を降ろした。硬質な天板の上が、とても広い。天板の継ぎ目ひとつが、拓真の足の長さの何倍もあり、微かな傷が深い谷のように見える。

「まず、体温と身体表面の観察から始めます」

白衣の袖から伸びた白い指が、拓真の頭のすぐ脇に下ろされた。人差し指の先端だけで、柔らかな工事現場のヘルメットほどもあった。指紋の同心円が、空から降りてくる模様のように見える。

指の腹が、拓真の胸に触れた。温かさと柔らかさを兼ね備えた表面が、体の正面を覆っていく。

「あ……っ」

鼻から抜けるような声が出た。押しつぶされるほどの力ではない。なのに、皮膚の表面をなぞるだけで、背筋に変な感覚が走る。

「心拍、若干速い。感情的な動揺はありますが、循環器系に問題は見られません」

淡々と音読される観察結果が、天井から降ってくる。

指はそのまま、胸から腹へ、腹から太腿へ、ついには両脚の間をかすめて移動した。

「ちょ……っと、待ってください。そこは」

「足の付け根の血管の弾力を確認しています。鼠径部は重要なチェックポイントです」

鼠径部と呼ぶには、相手の指先は拓真の下半身すべてを覆い隠すほど大きい。太腿が簡単に割り開かれ、小さな体が天板の上に転がされた。指の腹が、股間を通り過ぎて、膝までをゆっくりと撫でる。

触られるたび、脳の奥がびりびりと震える。サイズの問題だけではない。普段なら皮膚の表面で終わる感覚が、指自体の質量、温度、押し広げる圧迫、すべてが、体の内側へ強制的に入り込んでくる。

「先輩……大丈夫っすか?」

「だい、じょうぶ……じゃ、ないかも」

息を弾ませながら答えると、隣で桜がごくりと唾を飲む気配がした。自分もこれから同じことをされるのかと思うと、強がっていられない。

「次、君の方も見せて」

綾女の指が、今度は桜の体を捕らえる。桜は両手で指を押し返そうとしたが、人差し指の重みを支えられるはずもなく、あっさり背中から倒された。

「ひゃ……っ、指、太い……指紋が当たってるんだけど!」

「正確には、私の指紋に君の背中が当たっているのよ、お嬢さん」

「頭いい言い方すんじゃないっすよ……あ、やっ、ちょっと」

彼女の小さな脚が、綾女の指先に蹴りを入れる。だが、白い指の腹に足の裏がめり込むだけだった。つま先が指紋の溝に埋もれる様が、拓真の位置からもはっきりと見える。

桜の太腿、腹、胸、腋の下、うなじ。綾女の指先は一箇所ずつ丹念に押し、撫で、軽く摘むように検分していく。触れられるたびに、彼女の声がひっくり返った。

「はっ……ん……ちょ、なにも言わないで触らないで……んむっ」

「声、抑えない方が観察しやすいのだけど」

「そんなこと急に言われても……ひぅっ!?」

乳首の先を指の腹でこすられ、桜の背中が跳ねる。小さな顔がのけぞり、唇の端から唾液が伝った。

「大丈夫っすか、桜……」

拓真が声をかけると、桜は真っ赤な顔のまま唇を噛んだ。涙の膜が張った目が、恨めしそうにこちらを向く。

「だ、大丈夫なわけ、ないでしょ……あんたも他人事じゃないんすから」

その警告は、数分後に現実のものとなった。

「今度は体の内部の反応を確かめます。まだ痛みはありませんか」

綾女はそう言って、拓真の体を自分の左手の掌に移した。右手の人差し指を、ゆっくりと拓真の両脚の間に差し込んでくる。

「うわ、なに……や、やめ」

「動かないで。このくらいで傷つく肌ではないはずよ」

指の先のほんのわずかな範囲が、拓真の太腿を押し広げ、その間を上下に行き来する。肉が熱をもち、血流が一気に下腹へ集まるのを感じた。男の生理反応は、この異常な状況でも正直だった。

「……反応が出てるわ。血管の拡張、皮膚温の上昇。生殖器の勃起も確認」

「確認しないでください……っ」

「大事なデータだから。恥ずかしがらなくてもいいのよ」

艶めかしい、というほど表情は動いていない。だが、眼鏡の奥の目が、確かに拓真の体を舐めるように動いている。

指先が、今度は彼の首の後ろを支えるようにして持ち上げた。そのまま、目の前へ。

綾女の顔が、近い。吐息が風になって吹きつける。唇だけで拓真の体がすっぽり隠れる。厚みのある唇が、ゆっくりと開いた。

舌先が伸びてきた。

「舐めて確かめます。唾液の反応も見たいから」

「まっ……、ふ、ぅ……!」

舌は粘液質の弾力で、拓真の全身をべったりと濡らしていった。胸から腹、腰、尻、太腿の裏。表面を滑る凹凸が、無数の小さな突起になって肌を刺激する。温度も粘度も、今まで知っていた唾液とは別物だ。

額を舐められ、視界がぐにゃりと曲がる。髪の毛が唾液で貼りつく。鼻と口が、ぬめった表面に覆われて息がしづらい。

「……っぷ、は……っ、なにすん、」

「動かない。舌の上を歩かせてみて」

「歩けるわけ、ない……っ」

その舌の先に、もう一度押し倒された。赤みのさした粘膜の上で、自分の腹や胸が滑りやすい唾液にまみれていく。全身の肌が、しっとりと濡れて、空気の冷たさに敏感になった。

「体に異常なし。ただ、快感を司る反応は、サイズが小さくなるほど敏感になっている。これは貴重なデータだわ」

綾女はようやく舌をしまい、眼鏡の位置を直した。その唇から、透明な糸が小さく引いた。

「次は……そうね、二人とも、休ませてあげる。服は……必要ないわね。今の体に合う物は用意していないし」

掌の上で唾液に濡れた拓真と、天板の上でへたり込んでいる桜。二人の顔が、互いを見た。羞恥と混乱が、言葉にならないまま視線の間を行き来する。

綾女は微笑みを浮かべた。だから、頬の肉に、ほんの少し、残酷な線が刻まれた。

「検査は、まだ始まったばかりだから」

作業台の隅に置かれた透明なプラスチックケース。仕切り壁の向こうに、小さく区切られた二つの空間があった。もともとは検体を運ぶための容器なのだろう。底には何枚かのガーゼが敷かれ、簡易的な寝床のようになっている。

拓真は自分の体を包むようにして、ケースの壁に背を預けていた。唾液は乾き、肌の上で薄い膜になっている。冷えてくると、自分の重さや形がいつもよりはっきりと感じられた。

隣の区画では、桜が膝を抱えて座り、額を膝に埋めている。丸まった背中が、小刻みに震えていた。

「桜……」

「……近寄らないでください」

くぐもった声が返ってくる。

「今、ちょっと、無理なんで」

「わかってる。俺も別に、どうにかしようってわけじゃない」

それきり会話が途切れる。壁の向こうに白衣の女性が動く気配だけが、ときおり空気の震えとして伝わってきた。

しばらくすると、天井を覆うように白い手が下りてきた。指先でケースごと二人を掴み、明るい場所へ移動させる。

「仲良くしているかしら」

声が降ってくる。顔を上げると、銀縁の眼鏡の奥で、黒い瞳がこちらを見下ろしていた。部屋の照明で、輪郭がはっきりとした大きな顔が、空のような高さにある。

「何が目的なんですか、こんなこと」

拓真は立ち上がり、壁を背にしたまま言った。

「目的は、治験と観察よ。あなたたちは正式に契約を結んだ被験者。報酬も受け取る。何も不思議なことはないわ」

「こんなの、聞いてない」

「契約書には、体の変容を伴う可能性があると記載されているはずよ。読まなかったのね」

彼女の手元で、銀色の光が走る。指に挟まれた何かが、作業台の表面に下りてきた。銀色の先端。細長く伸びた柄。食事用のフォークだった。

「なに、それ」

桜が顔を上げ、後ずさる。

「道具よ。あなたたちを観察するための」

「フォークが……?」

フォークは、先端を下にして、二人の目の前に置かれた。二本の歯の間から見える金属の質感は、いまの拓真の知る金属のそれとまるで違う。硬く、冷たく、近づくだけで肌がひりつくほどに克明な存在感があった。

綾女は椅子に腰かけ、足を組んだ。黒いストッキングに包まれたふくらはぎが、ケース越しにも信じられないほど長く、太く見える。つま先が軽く揺れるたび、空気が動いた。

「つまらない嘘は言わないわ。あなたたちには、これから交配行動を行ってもらう」

一瞬、音がすべて消えた。

「……なんて?」

「男女の性行為よ。サイズ変化後の生殖機能と快楽反応を調べたいの。とても刺激的なデータになる」

「ふざけるな!」

拓真が叫ぶと、声は壁に跳ね返って、すぐに彼女の顔へと吸い込まれていった。

「ふざけているのはあなたの理解力よ、篠宮さん。あなたの体が元に戻るかどうかは、この観察データにかかっていると言ったら、少しは協力的になるかしら」

「戻れるんですか、本当に」

桜の声が、小さく割り込んだ。

「その可能性を探っているの。もっとも、現段階で何も保証はできないけれど」

銀色のフォークが、ゆっくりと動いた。綾女が指で柄を押し、先端を二人へ向けたのである。

「無理やりなんて、させないわ。私の指や器具で十分にデータは取れるもの」

フォークの先端が、プラスチックの壁を軽く叩いた。衝撃音が、小さな体の芯まで揺らした。

それを二回、三回と繰り返す。

「やめて……ください」

桜が耳を塞いだ。

「ここに居られると、小さな音でも響くでしょう。早く済ませる方が楽よ」

綾女の声は、どこまでも落ち着いていた。その落ち着きが、かえって狂っている。

「お前、正気か」

「あなたたちを縮めている時点で、私の正気を心配する立場かしら」

返す言葉がなかった。

静かな沈黙の後、桜が隣の区画へ移された。綾女の指先が、彼女の体を摘まみ、拓真の目の前に降ろしたのである。肌同士が、触れ合いそうな距離。桜の肩が、指から解放されたあとも震えていた。

「二人とも、何もしなければ、このまま帰すわ。それまで観察を続ける。もちろん、食事も睡眠も、あなたたちに合わせた環境で、長期的にね」

「長期的……」

「三日でも、一週間でも、一ヶ月でも。結果が出るまで」

地獄だ。年単位で、この箱の中。薬品の匂いと、蛍光灯の光と、巨大な女のまばたきだけを相手に過ごす。

桜が顔を上げ、拓真を見た。目の端に溜まった涙が、まつげを濡らしている。唇が、何かを言いかけて、閉じた。

「……先輩」

「何だよ」

「死ぬよりは、マシなんすかね」

「どうだろうな。状況が悪すぎて比較もできない」

「あたし、やります」

桜の返事は、震えていたけれど、迷いもなく出た。彼女の顔は、決意と恐怖に縁取られていた。拓真は彼女の目をじっと見た。

「……いいのか」

「よくないっすよ。でも、あの女の言うとおり、長く監禁されるほうが嫌っす」

桜はそう言って、自分の膝を手で押さえ、ゆっくりと足を割った。鎖骨が浮き出るほど息を吸い、小さな体を反らせる。

「先輩……お願いします。あんたも、その……して」

声はもう、泣き出す一歩手前だった。

拓真は指先で、桜の肩に触れた。皮膚の熱が、直接すぎるほど伝わってくる。指の形が、彼女の腕に沿って沈み、骨の細さまでわかるようだった。

互いに衣服がない。ただの素肌と素肌。それがこれほどまでに暴力的だとは、思わなかった。

「……痛くしないようには、する」

「どうやって。先輩も初めてじゃないんすか」

「多分な。というか、俺もよくわからない」

「うわ、最悪。でも……なんか、それでちょっと笑えました」

本当に、桜は小さく笑った。頬を濡らしたまま、鼻の頭を赤くして。

拓真は彼女の体に覆いかぶさるようにして、脚の間へ進んだ。腕が、彼女の肩を押さえる。彼女の太腿の内側が、自分の腰に当たる。

視界の外側で、綾女が身を乗り出した気配がした。吐息が、二人の上に降ってくる。レンズの奥の瞳が、記録装置のようにぎらついている。それでも、拓真は桜の体に集中した。自分にできるのは、フィクションみたいな性交ではなく、互いの肌を寄せることだけだった。

「……挿れるぞ」

「はい……あ、やさしく」

彼女の小さな入口に、拓真の先端が触れた。熱い。狭い。人間の体の内側が、これほど強く締めつけてくるものなのか。

桜の爪が、拓真の背中に食い込んだ。

「っ……あ……っ」

「大丈夫か」

「だいじょうぶ、じゃ……あ、ほんとに、中……入ってるんすか」

「入ってる」

互いの声が、密着した肌から直接響いてくる。

腰を動かすたび、桜の体が小さく跳ねた。脚の裏で床を蹴り、首がのけぞる。何度も唇を噛んで、声を殺そうとしているのがわかった。

「声、我慢しなくていいんじゃないか」

「……っ、ばか、やめて、それ以上……変な声、出させないで……っ」

それでも体は熱くなっていき、動きに追従して、桜の喉から徐々に声が漏れ始めた。あえぎが規則的に潰れ、湿った音に変わっていく。

「やっ……ん、ふぁ……あ、あぁ……っ」

涙と唾液で顔を濡らし、彼女の内側が、拓真を強く締め上げた。全身が弓なりにしなって、指先が床を掻く。

「私の前で、ちゃんと鳴いてるわね」

綾女の声が、空から降った。その声にすら、体が過敏に反応してしまう。

「っ……見てないで、ください……っ」

「見るために、やらせてるんだもの」

「うるさ……ぁっ……!」

突き上げるたび、桜の声は高くなり、彼女の腰が逃げようとして失敗する。

拓真自身も、自分の体が変わってしまいそうな感覚に襲われていた。快楽の輪郭が、いつもの何倍も太い。普通のセックスなら意識の奥に留まっていた刺激が、この体では全身の血流に変わって回り、思考を濁らせていく。

桜の首すじに顔を寄せると、汗の粒が視界いっぱいに光っていた。舐めると塩辛い。その一粒の塩気でさえ、頭がしびれた。

「このまま果てなさい。最後まで、全部記録するから」

綾女の声に押されるように、桜が内側から震え、脚を突っ張らせた。

「あ……あ、や……イッ……、なに、これ……ァ……!」

彼女の体が、まるではじけたように跳ねた。

その締めつけに、拓真も耐えられなかった。腰の奥が痺れ、熱が逆流して、桜の大腿の間へと溢れる。息を詰めたまま、互いの体を押しつけ合う。

床の上で、二人分の荒い呼吸が混ざった。

「いいデータが取れたわ。……でも、少し短かったかしら。次は、別の条件下でお願いするわね」

綾女が腕を組み、満足そうに二人を見下ろす。

桜は拓真の下で、焦点の合わない目を天井へ向けていた。拓真は、自分の体がまだ彼女から離れられないでいるのを感じながら、この先の実験とやらを考えていた。

狂気は、すでに、すぐそこまで来ていた。

翌朝、拓真は自分がまだ生きていることを、背中に当たるプラスチックの冷たさで自覚した。

隣では桜が横たわったまま、浅い呼吸を繰り返している。二人は透明なケースの中で裸のまま身を寄せ合い、互いの体温だけを分け合って夜を越えていた。皮膚の上で汗が乾き、ガーゼの繊維がまとわりついている。

頭上で、何かが擦れる音がした。椅子を引く音、靴音、白衣の裾が空気を打つ音。やがて天板ごと揺れる足音が、腹の底にまで響いてくる。

「おはよう。体調はどうかしら」

綾女の顔が、ケースの真上に降りてきた。逆光で黒い輪郭だけが際立ち、表情は影に沈んで見えない。それでも、唇の形がうっすらと弧を描いているのだけはわかった。

「……最悪です」

桜が身を起こし、ケースの壁に手をつく。彼女の髪は乱れ、首すじには昨日の指や舌の跡が、赤い斑のようになったままだった。

「それは残念。でも朝の観察には協力してもらうわ」

「今度は何をさせる気だ」

拓真は立ち上がり、壁を睨んだ。喉が渇いていて、声が擦れている。自分の拳が握れることを確かめるように、何度も指を曲げた。それ以外に、今の体にできる反抗の形が思いつかなかった。

「今日は、私が退屈しないように付き合ってもらうだけよ。お人形遊びに、付き合って」

綾女は指先でケースの蓋を開け、その上に大きな白い手を差し入れてきた。拓真と桜は反射的に隅へ逃げたが、作業台の外へ出れば転落死しかねない。逃げ場はなかった。

「嫌です。触らないでください」

桜が両手で体を隠しながら叫ぶと、綾女はふと手を止めた。その瞳が、二人を順番に見下ろす。

「じゃあ、簡単に説明するわ。あなたたちが私の言うことを聞けないと判断した場合、私が使うのは指だけじゃなくなる。たとえば、この辺りにある道具」

彼女は片手でフォークを持ち上げ、先端をケースの中へ突き入れた。ゆっくりと、桜の鼻先から一センチほどの距離で止める。銀色の歯の谷が、彼女の顔の三倍ほどの横幅を占めた。

「これで突かれると、体に穴が空くでしょうね。先端の間隔から考えて、頭蓋骨は貫けないかもしれない。でも、お腹なら簡単かも」

声には一片の感情もなかった。

「お人形が糸で動くように、穴をあけて吊るすこともできる。壁に飾って観察するのも悪くないわ」

「やめて……っ」

桜の声が裏返った。フォークの一振りで命が終わる距離。拓真は壁を背に、喉を震わせることすらできなかった。

「……朝ごはんをあげる。だから、今日は私の気分を害さないように。昼までは、これだけで済ませてあげる」

フォークが引かれ、代わりに白い指が差し込まれた。拓真の体を摘まみ、ケースから引き上げる。指先の腹が胸と背中を挟むだけで、肋骨がきしむような感触がした。

「お人形遊びは、簡単なの。私の言った場所で、言った姿勢をとる。それだけよ」

作業台の上に、拓真は裸のまま立たされた。表面から伝わる温度が、足裏から這い上がる。蛍光灯の光を背にした綾女が、椅子の高みから彼を見下ろした。

「まず、そこに正座しなさい。背筋を伸ばして、両手を膝の上に置くの」

自分が動いているのか、指の影で押されているのか、区別がつかなかった。とにかく体が言うことを聞き、床の上で正座の形になる。

「頭を下げて」

頭頂部から空の重さがかかる。視界に、自分の膝が入る。爪の先まで彼女の視線に舐められている気配がした。

「上出来ね。いい人形だわ。今度は仰向けになって、四肢を開きなさい」

今度は動きが遅れた。頭のどこかで拒絶が渦を巻き、体が硬直する。けれど、フォークの先端が視界の隅で光ると、指先から力が抜けた。

仰向けになった拓真を、天井から見下ろす黒い瞳。眼鏡の奥の視線が、喉から胸、腹、足先へとゆっくり落ちていく。衣服がないから、すべてが暴かれていた。

「手足の指、けっこう綺麗な形をしてる。小さくなると、関節の窪みまで作り物みたいに見えるわ」

綾女が指先を近づけ、爪の先で拓真の右足の親指をつついた。たったそれだけの刺激で、脚が跳ね、背中が震えた。皮膚が熱を持ち、腹の奥まで痺れが広がる。

「やめ……っ」

「お人形は動かない。動くなら、命令を教え直すわ」

「……く、そ……」

拓真は唇を噛み、四肢を再び開いた。指先で爪の先端から手首、肘、肩、脇腹へとなぞられる間、視界の外から押し寄せる羞恥が喉の奥に酸っぱく湧いた。上半身がかすかに跳ねるたび、綾女は小さく息を漏らした。

それは笑い声に似ていたが、楽しむというより、ようやく手に入れた玩具を確かめるような、悦びの薄い混ざった音だった。

「桜ちゃんも、同じようにさせましょうか。やっぱりお人形は、一対の方が見栄えがするもの」

桜はケースの中で震えながら、こちらを見ていた。視線が合う。彼女の目が、わずかに怒りを、さらに強く哀願を含んで揺れている。

「……せめて、二人で遊ぶのは、やめてもらえませんか」

「あら、女の子人形も男の人形も、両方ある方が楽しいでしょう。人形だから、遠慮しなくていいの」

桜が指に摘まれて、拓真の隣に置かれる。彼女の足はろくに立っていられず、膝をついたまま前に倒れかけた。床に手をついた姿を、綾女は上からしばらく見下ろした。

「まあ、今の姿勢でも悪くないわ。四つん這いの女の子人形。動かなくていいから、目線だけ上げなさい」

桜は言われたとおり、顔だけ持ち上げた。涙で張りついた前髪の下から、小さな瞳が綾女を見上げる。

「本当に、人形みたいな顔。まばたきもしないで、私だけ見るの」

「……なんで、こんなこと」

「私が退屈しているからじゃない。それ以外の理由を、あなたたちが知る必要はないの」

綾女は二人を指先でつまみ、位置を整え始めた。肩が触れ合うように並ばされ、ときどき指で倒されたり、手足を組まされたりした。動くたびに命の危機を感じる距離で、逆らう選択肢だけが確実に殺されていく。

正体を失いかけていた。自分の腕が、自分の足が、誰かのための部品であるような錯覚。天板の端に置かれた消しゴムやクリップが、それぞれ人の背丈ほどもある。あれらと同じ「机上の物」のひとつに、変わっていくようだった。

「そろそろ、昼食にしましょう。お人形が空腹で動かなくなったら、つまらないものね」

綾女は言いながら、ケースの中へ二人を戻した。昨日と同じ、仕切りのある透明な箱。壁の向こうの風景が、余計に高く、広く見える。

戻された瞬間、桜が竹を割ったように泣き崩れた。声を押し殺して、喉をひくつかせながら、床に突っ伏したまま動かない。拓真は手を伸ばし、彼女の肩に触れた。小さく震える皮膚が、自分の手の温度を少しずつ吸っていく。何かを言おうとして、何も出てこなかった。

天井の向こうでは、白衣の女が楽しげに鼻歌を口ずさみ始めた。

夜になった。

正確には、天井の照明が白い光のまま消えないので、時間の感覚はあてにならなかった。だが、綾女が部屋の主灯を落とし、壁際の足元灯だけを残すと、ようやく夜が来たのだとわかった。暗がりの中で、プラスチックの箱の中はひときわ冷たく沈み、空調の唸りが遠い獣の鳴き声のように聞こえる。

拓真は横になったまま、隣の仕切りに耳を澄ましていた。桜は一時間ほど前、疲れ果てて眠ったようだったが、呼吸の間隔が不規則で、眠りは浅い。彼女ももう、泣き声を外へ漏らすまいと、顔を伏せて耐えるのが癖になっていた。

「……先輩、起きてる」

かすれた囁きが、仕切りの向こうから届いた。

「ああ、起きてる」

「あの女、今どこに」

拓真は体を起こし、ケースの透明な壁越しに部屋を見回した。足元灯が落とす薄明かりの先、壁際の簡易ベッドの上に、白いものが横たわっている。こちらへ背を向け、静かな寝息を立てているように見えた。

「ベッドで寝てる。たぶん、こっちには気づいてない」

「……見張りカメラは」

「ついてるけど、もし今から動いたとしても、起きるまでにどれだけ時間があるか」

言葉の途中で、自分たちの無力さに笑いそうになった。カメラの死角も、拘束を抜ける手段も、ケースの外に出る道筋も、何ひとつとしてない。それでも、動かなければ終わる。今日の人形遊びの記憶が、まだ足の裏にこびりついていた。他人の手の温度で全身を撫で回された感覚が、暗闇の中でぶり返している。

「俺、あのフォーク、昼間に見た。いつも机の右側に置いてる」

「フォークがどうしたんすか」

「あれを落ちる場所まで運んで、足場にできないか。机の下から床に向かって、何か伝う物もあるかもしれない。全部は見えてねえけど」

「あたし、あの高さから落ちるのは無理っすよ。死ぬか、動けなくなる」

「だから、まず下に落とすのはフォークだけだ。あの重さなら、何かに当たっても音が響くけど、一瞬なら」

暗闇の向こうで、桜が息を呑むのがわかった。仕切りに寄る音がして、小さな指が壁を探る。拓真も壁に手をついた。透明な板一枚を挟んで、眠る女から距離を置きながら、二人は声を押し殺して作戦を磨いていった。

脱出というのは大げさかもしれない。しかし、あの日の昼に人形のように並べられた時間は、服を剥がれていることよりも体を好きにされることよりも、自分の意思をへし折られる感覚が一番深くまで刺さっていた。桜もきっと、同じ場所が傷んでいる。

「カメラが回ってても、一気にやるしかない。まず、あの女が別の部屋へ出た隙にケースの蓋の継ぎ目を調べる。昼間、蓋を開け閉めした時の締め方が雑だった。この前の検査の後、一度だけ隙間が浮いていたんだ」

「あたしの時も。あの人、手袋外すときに片手で押さえるだけで、ちゃんとロックしてないと思う」

「蓋が浮いたら、俺とお前のどっちかが先に出て、あのフォークを落とす。落とす位置は、机の手前の端。ここからベッドまでは壁伝いに段違い棚があるから、床へ降りなくても音を立てずに近づけるかもしれない」

精緻な計画ではない。根拠も乏しい。だが、互いの頭のなかで、巨大な部屋の見取り図を手繰り寄せるたびに、丸め込まれていた意思が細く息を吹き返していくのを感じた。

「桜、時間ができたら、少し寝ろ。いつ動けるかわからない」

「先輩こそ。さっきから声、掠れてるっすよ」

「そうだな。水も、飲み方を聞いてない」

二人は小さく笑い合ってから、互いの仕切りに手を触れたまま目を閉じた。攻撃の機会は、何度訪れるかわからない。だからこそ、次の朝が開けるまでに、体力をわずかでも残しておくしかなかった。

翌日、綾女はいつものように白々しい朝の挨拶をして、二人をケースから出した。体を洗うためという名目で衣服を濡らした布で拭かれ、その後は机上でのバランス測定と称して、体操をさせられ、食事を一粒ずつ手渡され、時々、指の腹で転がされた。

「今日はとても静かね。昨日のあれで、心が折れたのかしら」

「……別に」

拓真は短く返し、目線だけは従順に落としていた。反抗を見せれば、監視が強くなる。フォークを握る指の動きも、扉のかぎを回す手順も、目に焼きつけながら、頭は脱出の一点だけを追っていた。

昼食が終わり、綾女が「検体の保管庫から道具を取ってくる」と部屋を出た。扉の開閉音がして、廊下へ続く空気が流れる。拓真と桜は顔を見合わせた。カメラの位置から死角になる壁際を選び、二人でケースの蓋の端へ向かう。

「やっぱり、ここ、浮いてる」

桜の指先が、蓋と本体の継ぎ目に挟まった。プラスチックの縁は身長の倍近い高さにあり、普通なら手が届かない。だが、昨日の観察中に、簡易ベッドの方から転がってきたガーゼの折り目を積み重ね、足場を組んでいた。桜が土台になり、拓真がその肩に乗る。

「開くか」

「もうちょい、左側にロックの爪がある。そこを押す。……上から、じゃなくて、横から」

指先で感触を探りながら、ロックの爪を外側から押し込む。かすかな音がして、蓋の端がわずかに浮いた。

「動いた。先に出る」

拓真が手前の縁に指をかけ、体重を預けると、蓋が数ミリ持ち上がった。ようやく、人差し指一本通るか通らないかの間隙。二人には十分な通路だった。

外の空気が、肌に当たる。机の上は、敷布を広げたように果てしなく続いている。その先、銀のフォークが、置き去りにされた農具のように光っていた。

「行けます、先輩。はやく」

桜の声が、背中を押す。拓真は全速力で走った。足裏が硬い天板を打ち、心臓の音が全身を揺らす。あと少しでフォークに手が届く、という瞬間だった。

部屋全体が、震えた。

いや、違う。扉の向こうから、足音が近づいていた。廊下を歩く白衣の女の動作。鍵の開く音。ドアの影。天井が動くような錯覚とともに、明るい光が二人の上へ差し込んだ。

「何をしているのかしら」

綾女は、手に透明なケースを持ったまま、鳩尾のあたりから下をじっと見下ろしていた。表情は消え、白い輪郭が、短く切りそろえたベールのように頭の周りを縁取っている。

拓真はフォークの柄へ突進していた。意地でも、せめて頭のうえから落ちる高さを越えたかった。けれど、届いたのは柄の影。彼の二倍以上ある金属の壁は、びくともしない。

「あら、フォークで何をするつもりだったの。人形が人形の大きさを忘れたのね」

綾女は身をかがめ、二人を同時に握るよりも、まず桜を摘まみ上げた。桜は暴れた。脚を振り回し、綾女の指に爪を立てようとした。しかし肉に爪が沈んで終わる。そして、彼女はケースの中へ放り込まれた。

拓真も、跡を追うように摘ままれる。抵抗する間もなく、フォークから十数センチ離れた机上から、あっという間に箱の底へ落とされた。

「残念だわ。一日、お人形をさせられて、それでも学ばないんだもの。頭のなかで、何か企んでないか目を光らせてはいたけれど、まさか蓋を開けるとはね」

綾女の指が、二人の上に影を落とす。

「桜ちゃんは、すぐにでも壁の飾りにしてもよかった。でも、あなたたちは二人で何かをするから、面白くなったの。……篠宮さん」

銀縁の眼鏡が、照明を反射して白く光る。

「篠宮さんが、人形の分際であの子と何かを始めた。今回は、その代償を払ってもらうわ」

「やめてください……! 作戦考えたのは、あたしです!」

桜が柵にしがみついて叫ぶ。綾女は首を横に振った。

「そんな庇い合い、人形同士で慣れ合わないの」

彼女の指が、拓真の頭を、肩を、腰を、摘まむ。桜が壁を叩き、名前を呼ぶ声が、巨大な揺れに紛れて消えていく。

指の腹に全身を包まれ、肉の上に体が沈む。そのまま、部屋の奥の装置の前へ。

透明な筒。覗き窓のついた、縦長の機械。昨日までは壁の一部のように黙っていたそれが、今は小さな羽音を立てて稼働している。

「縮小装置の誘導管よ。出力を絞って、君だけにもう一度かけてあげる。私の可愛い、ミニチュア人形のために」

「……やめ、ろ……っ」

声は、指の圧力に潰された。

筒の中に、裸の体が落とされる。内壁が冷たく、狭く、先ほどのプラスチックケースと同じにおいがした。出入口が、頭上の高さで閉じられる。

桜の泣き声が、壁越しに、どんどん遠くなった。

それから、全身が熱を失っていくような感覚がきた。機械の駆動音が大きくなり、内壁の線が太さを増していく。皮膚の下を何かが駆け抜け、骨が、肉が、視界が、総毛立つように震える。

「桜……っ」

名前を呼んだ自分の声が、空気の層を抜けて、まるで知らない音のように反響した。

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