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フロア窓に映る影

宴会場のフロア窓の前に立つと、高層ビルの外に広がる夜景がまるで無数の星を散りばめたように煌めいていた。林夕はそっと窓枠に手を触れた。ガラスに映る自分の影が、外の灯りと溶け合って、輪郭がぼやけていく。時間が止まったかのような錯覚に陥る。胸の奥で、小さな声が問いかける。顧行と、この先も歩んでいける縁なんて、本当にあるのだろうか。


彼女は左手の薬指にそっと触れた。結婚指輪の冷たい感触が指先に伝わる。この二ヶ月で、無意識に指輪を回す癖がついていた。回すたびに、周泽の優しい微笑みが脳裏をよぎる。今朝も彼は、出張先のホテルから「ちゃんと朝ごはん食べた?」とメッセージを送ってきた。その細やかな気遣いが、今はかえって胸を締め付ける。


ふと、ドレスの胸元のリボン結びに目が留まった。少し歪んでいる。昔の自分なら、すぐに洗面所に駆け込んで直しただろう。でも今は違う。軽く指で整えるだけで、それ以上は気にならなかった。周泽が「そのくらいの崩れが可愛いんだよ」と言ってくれたから。彼と出会ってから、完璧でいなければという強迫観念が少しずつ溶けていった。笑うときも、口元より先に目尻が動くようになった。そんな小さな変化の一つ一つが、愛に浸された痕跡なのだと、彼女自身も気づいている。


それなのに、なぜ今、顧行のことを考えているのだろう。


ガラスに映る自分の瞳が、不安げに揺れている。五年前の記憶が、押し寄せる波のように蘇る。顧行の強引な手つき、独占欲に満ちた視線、そして別れ際の鋭い言葉。すべてを支配しようとする彼の愛情は、息が詰まるほど濃密だった。あの頃の自分は、彼の前ではまるで未完成の人形のように、自由を奪われていた。それでも、あの圧倒的な情熱を、体のどこかが覚えている。


――今夜、この宴会場で、彼と再会した。


ほんの一瞬、視線が交錯しただけだった。それなのに、心臓が早鐘を打つ。顧行は昔と変わらず、鋭い目つきで彼女を見つめていた。まるで獲物を狙う狩人のように。彼の口元がわずかに歪む。嘲笑なのか、それとも別の感情なのか。林夕はすぐに目をそらしたが、その一瞬で十分だった。彼の視線が、自分の肌の上を這い回る感覚が、まだ残っている。


(私は、もう誰かの妻なのに。)


心の中でそう呟いても、足はその場から動けない。窓の外の夜景が、まるで巨大な鏡のように、自分の心の奥底を映し出している気がした。煌びやかな光の海の向こうに、もう一人の自分が立っている。それは結婚前の、顧行に支配されていた頃の自分。あの頃の自分は、苦しみながらも、どこかでその束縛を求めていたのかもしれない。


周泽のことを考える。彼は今頃、遠く離れた街のホテルで、明日の会議資料を読み込んでいるだろう。先ほども「そろそろ寝るね、おやすみ」とだけ短いメッセージが届いた。何も知らない彼の無垢な優しさが、今は鋭い刃のように胸を刺す。


(私は、二つの身分の継ぎ目で、引き裂かれそうだ。)


林夕はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏に、顧行のあの目が焼きついている。彼はきっと、まだ自分を許していない。いや、もしかすると、最初から許すつもりなどなかったのかもしれない。再会した瞬間のあの表情は、復讐を誓う者の目だった。


(もし、彼が再び私の前に現れたら――)


その先を考えるのが怖い。怖いはずなのに、心のどこかが密かに震えている。期待なのか、恐怖なのか、自分でもわからない。


彼女は再び目を開け、ガラスに映る自分をまっすぐに見つめた。端正な顔立ち、落ち着いた物腰。誰が見ても、幸せな新婚妻にしか見えないだろう。でも、その表面の下で、何かが静かに蠢いている。長い間押し殺してきた、みだらで淫らな本性が、まるで眠りから覚めるように、ゆっくりと目を開け始めている。


――日記、書こう。


ふと、そんな思いが湧き上がる。このどうしようもない心の揺れを、誰にも言えないこの秘密を、どこかに吐き出さなければ、自分が壊れてしまいそうだった。


彼女は窓辺を離れ、会場の喧騒へと戻っていく。その背中を、遠くから顧行の視線が追っていた。彼はワイングラスを手に、口元に冷ややかな笑みを浮かべている。五年前に手放した獲物が、今は別の男の腕の中にいる。だが、彼にとってそれは些細な問題だった。むしろ、誰かのものになったからこそ、奪い返す価値がある。彼女はまだ、未完成の贈り物だ。あの日、自分の手で最後まで開封できなかった贈り物。


(必ず、お前を取り戻す。)


顧行はグラスを傾けながら、心の中でそう誓った。彼の視線の先で、林夕は何事もなかったかのように同僚と談笑している。その笑顔の裏に隠された動揺を、彼だけが知っている。そして、それを暴くことができるのも、自分だけだと信じていた。


一方、遠く離れたホテルの一室では、周泽がベッドに横たわり、スマートフォンの画面を見つめていた。妻からの返信は、まだない。彼は少し心配になりながらも、「疲れてるだろうから、ゆっくり休んでほしい」と自分に言い聞かせる。彼の脳裏には、今朝見送った妻の優しい笑顔だけが浮かんでいる。彼女が今、何を思い、誰と向き合っているのか、知る由もなかった。


三つの心が、それぞれの闇を抱えながら、同じ夜の下で交錯していく。それはまるで、見えない糸で結ばれた蝶のように、もがけばもがくほど、絡まり合っていく運命だった。


大雨と緩んだリボン

宴会場はすでに熱気に包まれていた。ビールジョッキのぶつかる音、誰かの大笑い、焼き鳥の煙が混ざり合い、空調の効いた室内をむんむんと蒸らしている。林夕は窓際の席で、三杯目の梅酒をちびちび舐めていた。氷はとっくに溶けきって、グラスの底に薄い琥珀色だけが残っている。頬がほてっている。酔いはまだ深くないが、思考の輪郭がわずかにぼやける、ちょうどいい加減だった。


「二次会行くぞー!駅前のカラオケ、もう予約してあるから!」


課長の声に、若い社員たちが歓声を上げる。椅子を引く音、ジャケットを羽織る音が一斉に起こり、林夕も立ち上がりかけた。そのとき、右側のこめかみあたりで、何かがするりと解ける感触があった。


ハーフアップに結んでいたリボンだ。朝、洗面台の鏡の前で、夫の周沢が後ろから覗き込み、「今日はいつもと違うね」と微笑んだ、あれだ。濃紺の細いサテンリボン。蝶結びが、宴も半ばを過ぎて、ほどけかけている。


指先でそっと触れる。まだ完全には落ちていない。結び目が緩み、輪の片方がだらりと垂れて、耳の後ろにかかっている。彼女は一瞬、その場に立ち止まった。


「林さん、行かないの?」


後輩の声に、彼女は反射的に微笑んだ。「先に行ってて。お手洗い寄ってから行くから」


足は自然に宴会場の出口とは逆の、廊下へ向かっていた。洗面所で結び直そう。そう思った。だが、化粧室の手前まで来たとき、ふと足を止めた。


壁の鏡に映る自分が見える。照明は昼白色で、肌のくすみも毛穴も容赦なく照らし出す。二十八歳の女の顔だ。結婚して二ヶ月。名字が変わり、指輪が増え、冷蔵庫の中身を二人分考えるようになった。職場では旧姓のまま通しているけれど、それだけのことだ。それだけのことで、何かが決定的に変わったはずなのに、鏡の中のこの女は、五年前とたいして変わらない顔をしている。


リボンが、さらに滑り落ちる。


指が追いかけるのを、彼女は意識的にやめた。するすると解けた布が、鎖骨の上を通り、肩甲骨のあたりでかすかに引っかかって止まる。ちょうど、背中の真ん中より少し上。自分では手の届かない場所。未完の言葉みたいだ、と彼女は思った。言いかけて、飲み込んだ言葉。送信しかけて、消したメッセージ。


五秒。


彼女は踵を返した。洗面所の明かりを背に、騒がしい宴会場へ戻る。二次会に行くと言ったのに、まだ席に残っている同僚数人が、怪訝な顔をした。


「あれ、林さん、お手洗いは?」


「やっぱり、もう少し飲もうかなと思って」


彼女は自分の席に戻り、冷めたウーロン茶を一口含んだ。背中のリボンが、ブラウスの薄い布地の上で、微かに存在を主張している。誰も気づかない。気づかれないまま、解けている。


これは弱さじゃない、と彼女は心の中で呟いた。迷っているのは、決断できないからじゃない。どちらも本物だからだ。職場の林夕も、家に帰れば周沢の妻になる自分も、どちらも偽りなく彼女自身なのに、その二つの像はどうしても重ならない。焦点の合わない写真みたいに、ずれて、ぼやけて、両方とも正しいのに、一枚の絵にはならない。


二つの身分は、彼女の内側で静かに癒着している。ちょうど、手術のあとに残るピンク色の傷跡のように。表面はつるりとふさがっていても、押せばまだ痛む。そしてその傷跡は、服を脱げば確かにそこにあるのに、他人の目には決して触れさせてはいけない場所にある。


彼女はグラスを傾けながら、そっと背もたれに寄りかかった。リボンが椅子の背と背中のあいだで、かすかに潰れる感触。


どうしてこんなことをしているんだろう。結び直せばいいだけなのに。でも、このだらしなく解けたままのリボンが、今の自分にはひどくふさわしい気がした。


---


**(林夕の日記より)**


十月十二日。雨。


今日、宴会でリボンがほどけた。朝、あの人が「かわいいね」って言ってくれたリボン。直そうと思ったのに、やめた。なぜだかわからない。ただ、結び直す指の動きを想像したら、急に面倒になった。


私は多分、選ばないことを選んでいる。選べないんじゃない。選んだあとに残る痕跡を見るのが、怖いだけだ。


周沢は今日も優しかった。帰りが遅くなるからって、傘を持って駅まで迎えに来てくれた。リボンがほどけているのに気づいて、「あれ、取れそうだよ」って結び直そうとした。私は「いいの、自分でやるから」って言って、その手から逃げた。彼の指がリボンに触れるのを、なぜか見ていられなかった。


あの人の手はとてもきれいで、いつも私を大切に扱ってくれる。その手が、今は少しだけ、重たい。


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チャコールグレーのスーツとの再会

人混みの向こうに、あのチャコールグレーのスーツが見えた瞬間、林夕の指先がぴくりと震えた。五年前と同じ、肩のラインに沿ってきっちりと仕立てられたウールの生地。背中のわずかなドレープが、彼が一歩踏み出すたびに微かに揺れる。体が覚えていた。あの背中の曲線を、指でなぞった感触を、抱きしめたときに頬に当たるざらりとした質感を。


会場の空気はシャンパンの甘い香りと、いくつもの香水が混ざり合ったむせかえるような熱気に満ちている。業界の交流会という名の、ただ名刺を交換するだけの退屈な集まり。夫の周泽は「今夜は遅くなるから、無理しなくていいよ」と優しく言ってくれたけれど、新入社員の林夕にとっては断れるようなものではなかった。来るべきではなかった。そう思ったときにはもう遅い。


林夕は慌ててうつむき、胸元に垂らしたシルクのストールを直すふりをした。淡い桜色のストールは、先週の日曜日、周泽と一緒にデパートで選んだものだ。「君に似合うと思って」と、彼は少しはにかみながら手渡してくれた。そのときの、彼の指がそっと彼女の手首に触れた温もりを思い出す。今、このストールがやけに重たく感じられた。


顔を上げる。もうそこに立っている。


顧行は人混みを縫うようにして、まっすぐに彼女のほうへ歩いてくる。周りのざわめきが遠のき、彼の足音だけがやけにクリアに聞こえるような錯覚。五年前より少し痩せただろうか。頬のラインがより鋭くなり、目元にはかすかな翳りが宿っている。けれど、あの目つきだけは変わらない。獲物を定めた鷹のような、鋭くて熱っぽい視線。


「指輪、素敵だね」


顧行の声は低く、まるで彼女の鼓膜を直接震わせるようだった。視線は林夕の顔ではなく、彼女がストールを直そうと上げた左手、その薬指に光るプラチナの細いリングに落ちている。


一瞬、呼吸が止まる。会場の照明を受けて、指輪は冷たく澄んだ輝きを放っていた。周泽がプロポーズのとき、緊張で声を震わせながら差し出した指輪。彼の母親が大切にしていたものをリメイクした、古いけれど温かな想いの詰まった指輪。それが今、顧行の視線の下で、まるで罪の証のように感じられた。


「ありがとう。二ヶ月前に」


言葉が口をついて出たあと、林夕は激しく後悔した。なぜわざわざ「二ヶ月前」なんて言ったのか。まるで彼に報告しているみたいじゃないか。新婚です、と宣言しているみたいじゃないか。それとも、何かを期待しているみたいじゃないか。


顧行はゆっくりとうなずいた。唇は固く結ばれ、何かを堪えるような、あるいは何かを味わうような表情。目は笑っていなかった。いや、笑っているのかもしれない。口元だけが微かに歪んで、それがかつて彼が見せたことのない種類の笑みであることに、林夕は気づく。


「そう」


彼はそれだけ言うと、視線を彼女の指輪から顔へと移した。ほんの数秒、目が合う。その瞳の奥に、五年分の沈黙と、くすぶり続けた怒りが澱のように積もっているのを、林夕は見た気がした。


「顧行さん、こちらへ」


主催者側の人間が彼を呼ぶ声がして、顧行はふっと視線を外した。そして何も言わずに背を向け、人混みの中へと戻っていく。チャコールグレーの背中が、見知らぬスーツの群れに紛れて見えなくなっても、林夕はしばらくその場を動けなかった。


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手にしたグラスのシャンパンが、いつの間にかぬるくなっている。気泡はすっかり消え、黄金色の液体はただ甘ったるいだけの水に変わっていた。林夕はそれを一気に飲み干す。アルコールが喉を焼き、胃のあたりがかっと熱くなる。でも、指先の震えは止まらない。


なぜ、今なのか。


頭の中はぐちゃぐちゃだった。たった数秒の会話。それだけのことが、なぜこんなにも自分を動揺させるのか。五年前、別れを告げたのは自分のほうだ。彼の強引さに息が詰まり、独占欲に縛られるのが怖くなって、一方的に連絡を絶った。それなのに、たった一言「指輪、素敵だね」と言われただけで、体の奥の、ずっと蓋をしてきた何かが音を立てて動き出す。


林夕はそっと薬指の指輪に触れた。周泽。今朝も彼は、出がけに彼女の額にキスをして、「今夜は寒くなるから、帰りはタクシーを使ってね」と言った。その優しさに、罪悪感が胸を刺す。彼は何も知らない。妻がかつて愛した男と再会し、心をかき乱されていることも。過去の記憶に、体の奥がじわりと熱を持っていることも。


---


会場の反対側で、顧行は名刺交換をしながらも、意識の半分は別のところにあった。


彼女は変わっていなかった。いや、変わった。あの桜色のストール。以前の彼女なら、あんなに甘い色は選ばなかった。誰かに選んでもらったのだろうか。薬指の指輪を選んだ、その誰かが。


「……というわけで、今後ともよろしくお願いします」


「ええ、こちらこそ」


機械的に応対しながら、顧行はグラスを口に運ぶ。スコッチの強いアルコールが舌を刺すが、気にならない。頭の中で、彼女の指に光る細いリングが何度も再生される。


プラチナの、飾り気のないデザイン。悪くない趣味だ。でも、彼女にはもっと似合うものがある。もっと重く、もっと華やかで、誰の目にも彼女が誰のものかわかるような。五年前、別れ際に彼女が言った言葉が蘇る。「あなたは私を自分の所有物みたいに扱う」。その通りだ。そして今も、その考えは変わっていない。


彼女は未完成の贈り物だ。包装を解きかけて、途中で奪われた。あの細い指輪の主は、きっと彼女の本当の姿を知らないのだろう。表面の、端正でおとなしい林夕しか。彼女が心の奥に秘めた、熱くて奔放で、少し乱暴に扱われるのを待っている本性を。


顧行は静かにグラスを置いた。五年間、ずっと溜め込んできた言葉がある。怒りも、未練も、すべてをひっくるめて、彼は彼女に返さなければならない。今度こそ、最後まで。


---


スマートフォンが小さく震えた。画面に表示された夫からのメッセージ。


「そろそろ終わる? こっちももう少しで片付きそう。よかったら迎えに行くよ。夜道は危ないから」


文字のひとつひとつが、彼の細やかな気遣いを伝えてくる。林夕は指を画面に当てたまま、しばらく動けなかった。


「大丈夫。もう少しで終わるから、先に休んでて」


送信ボタンを押す指が、かすかに震えている。嘘をついたわけじゃない。でも、ここにいてはいけない理由を、夫は知らない。知らなくていい。知られてはいけない。


会場のどこかに、まだ顧行がいる。あのチャコールグレーのスーツが、人混みの中に紛れている。林夕は顔を上げ、さりげなく周囲を見渡す自分に気づいて、はっとした。目が、無意識に彼を探している。


また視線が合ったら、今度は何を言えばいいのか。いや、何も言う必要はない。ただ逃げなければ。このままタクシーに飛び乗って、周泽の待つ家に帰って、すべてを忘れてしまえばいい。そう、わかっているのに。


足は、動かなかった。


洗面所の鏡とメッセージ

洗面所の照明は宴会場よりもずっと白く、鏡の前に立つ私の頬を容赦なく照らし出していた。化粧室の個室から誰かが出てきて、手を洗う水音が響き、それからパタンとドアが閉まる。静かになった空間で、私は鏡の中の自分と向き合った。


紅潮している。まるで熱があるみたいに、頬骨のあたりから耳たぶにかけて、じんわりと赤みが広がっている。ファンデーションの上からでもわかるほどで、私はバッグからパウダーを取り出すと、無意味な修正を始めた。


左手の薬指で、結婚指輪がわずかに光を反射している。シンプルなプラチナのリング。周沢がプロポーズのとき、緊張で声を震わせながら差し出したものだ。私はパフを置き、右手の親指と人差し指でリングをゆっくりと回した。くるり、くるりと、指の付け根で冷たい金属が滑る。この感触はまだ二ヶ月しか経っていないのに、もうずっと前からここにあったような気もするし、逆に、まだ自分のものではないような気もする。


スマートフォンを取り出した。画面をつけると、周沢からのメッセージが二件届いている。


「そろそろ終わりそう?」

「あまり無理しないでね」


私は口元をほんの少しだけ歪めて、それが笑みなのか何かなのか、自分でもわからないまま、入力を始めた。


「ちょっとお酒に酔ってふらふらするから、帰りが少し遅くなるかも」


送信ボタンを押すまでに、三回も文面を読み返した。嘘は言っていない。確かに少しふらふらしている。それは事実だ。ただ、その理由が彼の想像するものとは違うだけだ。親指が画面の上で一瞬止まり、それからタップした。送信済み。


既読がつくまで、おそらく十秒もかからなかった。


「わかった、気をつけてね。牛乳温めて机に置いておくから、帰ったら飲んで」


その下に、白いマグカップの絵文字がついている。周沢はいつもそうだ。私が夜遅くなるときは必ず牛乳を用意する。胃にやさしいからだとか、安眠効果があるからだとか、そういうことを真面目に調べて、結婚前からずっと続けている習慣だった。


私は長いあいだ、その画面を見つめていた。


「牛乳」という二文字が、やけに目に焼きつく。温かい液体が机の上で冷めていくところを想像した。彼はたぶん、リビングのソファで本を読みながら待っている。時計を気にして、でも催促のメッセージは送らない。そういう人だ。私が「大丈夫」と言えば、それ以上は踏み込まず、ただ黙って受け入れる。


画面を裏返しにした。スマホが化粧台の大理石に当たって、コツンと小さな音を立てる。


鏡を見上げる。


さっきまで宴会場にいた女が、そこに立っている。髪はまだ結い上げたままだが、後れ毛が数本、首筋に落ちていた。私は手を伸ばして、胸元のリボンに触れた。黒のサテンのリボン。ドレスの襟元で蝶結びにしていたはずなのに、いつの間にか片方が緩んで、だらりと垂れている。


いつ緩んだんだろう。


考えてみても、思い出せない。思い出したくないのかもしれない。


リボンの端をつまみ、もう一度結び直す。右の輪を作り、左を巻きつけ、引き締める。指先は驚くほど落ち着いていた。震えもなく、迷いもなく、まるで朝の支度の一部みたいに、自然で正確な動きだった。それがかえって、自分を薄気味悪く感じさせる。心臓はあんなに激しく脈打っているのに、手だけがこんなにも静かだなんて。


鏡の中の女は、きちんとリボンを結び終えて、じっと私を見返している。瞳がわずかに潤んで、唇にはまだうっすらと色が残っている。これは誰だろう。周沢の妻である林夕なのか。それとも、五年前に捨てられたはずの、もう一人の私なのか。


私は鏡から目をそらした。


バッグを手に取り、洗面所を出る。ヒールの音が廊下に規則正しく響いた。カツ、カツ、カツ。そのリズムが、なぜだか自分の鼓動と重なっているように感じられて、私は無意識に歩調を速めた。


宴会場の入り口を通り過ぎる。ガラス越しに、まだ残っている同僚たちの笑い声が漏れ聞こえてきた。誰かが私の名前を呼んだかもしれない。でも振り返らなかった。一度も。


正面の出口に向かって、まっすぐに歩く。


私のなかで、二つの誠実さが綱引きをしている。


ひとつは、夫の待つ家に帰るべきだという誠実さ。温かい牛乳と、優しい声と、何も知らない彼の腕のなかに戻るべきだと、そう叫んでいる。


もうひとつは、これから会いに行く男のことを考えている誠実さ。五年前に終わったはずのすべてを、今夜、取り戻そうとしている私自身への、嘘のない告白だ。


この二つはどちらも本当で、だからこそ、私はいま出口に向かって歩いている。帰るべき場所とは違う方向へ、一歩ずつ、確実に。


自動ドアが開き、夜の空気が肌に触れた。少し冷たい風が、熱を持った頬を撫でていく。


私は立ち止まらずに、タクシー乗り場へと足を進めた。


***


【日記】


今日、私は夫に嘘をついた。


お酒に酔ったから帰りが遅くなると、そうメッセージを送った。それは技術的には嘘ではない。でも、本当のことを何も言っていないという意味では、まぎれもない嘘だ。


洗面所の鏡の前で、私は結婚指輪を回しながら、あのメッセージを打った。指輪が回るたびに、ここにはいない夫の顔が浮かんで、それでも指は止まらなかった。リボンを結び直す手が震えなかったことが、たぶん、いちばん怖い。


私はいま、これから会う男のことを考えている。


そして同時に、机の上で冷めていく牛乳のことも考えている。


この二つが、どちらも同じくらい私のなかで本当のことだ。


それが、何よりも罪深い。


エレベーターの中の息遣いと記憶

会社を出たのは、すでに夜の帳がすっかり下りた後だった。雨は小降りになったが、風は依然として生暖かく、湿った空気が肌にまとわりつく。林夕は足早に歩き、ヒールが水たまりを踏む音だけが耳に響く。背後からついてくる足音は、一定のリズムを刻んでいた。逃げようと思えば逃げられたかもしれない。それなのに足は自然と速度を緩め、まるで何かを待つかのように。


「送るよ」


顧行の声は相変わらず有無を言わせぬ響きを持っていた。林夕は振り返らず、肩越しに首を振った。


「大丈夫です、自分で帰れますから」


しかし彼は聞いていなかった。あるいは、聞く気など最初からなかったのだろう。長い脚が数歩で彼女の横に並び、そのまま自然な動作で彼女の肘を軽く支えた。触れた部分から熱が伝播する。拒絶の言葉は喉元まで出かかっていたが、結局声にはならなかった。


オフィスビルのエレベーターホールは無人だった。蛍光灯の白い光が大理石の床に冷たく反射している。ボタンを押す指がわずかに震えているのを、林夕は自分でも感じていた。到着を知らせる電子音がやけに大きく響き、金属の扉が左右に開く。彼が先に乗り込み、振り返って彼女を見た。その目は暗い笑みをたたえている。


「乗らないの?」


林夕は唇を噛み、一歩を踏み出した。


扉が閉まる。密閉された空間に二人きり。空調の微かな作動音だけが静寂を破る。彼女は隅に立ち、数字が減っていく表示板をじっと見つめていた。背中に視線を感じる。熱を帯びた、重い視線。


彼が動いた。


気配が背後から近づき、鏡面の壁に映る影が重なる。林夕は息を詰めた。彼の吐息がうなじにかかり、朝、自分で結んだ髪のリボンがかすかに揺れる。緩んでいたのだ。触れられてもいないのに、その吐息だけで肌が粟立つ。


「相変わらず蝶結びが下手だね」


低い声が耳元で響いた。林夕の喉がきゅっと締まる。五年前とまったく同じ言葉だった。あの頃、彼はいつも後ろから手を伸ばして結び直してくれた。不器用な彼女を笑いながら、決して乱れないようにきつく。彼は覚えていたのだ。こんな些細なことまで。


指が伸びてきて、リボンの端をそっと引っ張った。解ける気配。林夕は反射的に身をよじろうとしたが、もう一方の手が素早く彼女の手首を捕らえた。強い力ではない。しかし逃げられない。彼の親指が内側の手首に当てられ、皮膚のすぐ下で脈打つ血管を押さえる。


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