女主人の堕落 (Pixiv Fanbox)
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新しい家政婦を雇う
祁婉は、朝の光が差し込む広いリビングで、薄いタブレット端末を手に取り、家政婦派遣会社のリストをスクロールしていた。窓の外には、手入れの行き届いた日本庭園が広がっていたが、その石畳の隙間からは、小さな雑草が顔を覗かせ始めている。彼女は眉をひそめ、端末を置いてため息をついた。
「もう限界ね」
呟きながら、彼女は細い指でこめかみを揉んだ。三十五歳の実業家として、彼女は都内に三つの高級エステサロンを経営し、さらには化粧品ブランドの立ち上げにも関わっていた。毎日のスケジュールは分刻みで、この三千平米を超える別荘の管理に手が回らなくなって久しい。先月雇った家政婦は、彼女の厳しい要求に耐えかねて辞めてしまい、以来、掃除も洗濯もままならない状態が続いていた。
「今度は、住み込みで、もっと若くて、体力のある子を探さないと」
彼女は再び端末を手に取り、ある派遣会社のページを開いた。そこには十数名の候補者のプロフィールが並んでいたが、彼女の目は一点で止まった。陸姗、二十八歳。中国からの留学生として来日し、家政婦の資格を取得したばかりだという。写真には、清楚な白いブラウスを着た女性が、穏やかな微笑みを浮かべて写っていた。その瞳は深く澄み、どこかミステリアスな印象を与える。
「この子……良さそうね」
祁婉は迷わず面接の予約を入れた。彼女は常に決断が早い。それこそが、彼女を業界のトップに押し上げた武器だった。
二日後の午前十時、祁婉は別荘の応接室で、陸姗と向かい合っていた。外は小雨が降っていて、庭のしっとりとした緑が窓越しに美しく映えていた。
「祁婉と申します。今日はわざわざありがとう」
彼女は流暢な中国語で話しかけた。長年のビジネス経験から、中国語も堪能になっていた。
陸姗は深々と頭を下げ、両手を膝の上に揃えて座った。その動作はしとやかで、着ている紺色のスーツも、彼女の控えめな印象を際立たせている。
「こちらこそ、お時間をいただき光栄です。私は陸姗と申します。どうかお気軽に、姗姗とお呼びください」
その声は、雨の音に溶けるように柔らかく、祁婉の耳に心地よく響いた。
「そう。じゃあ姗姗、あなたの経歴を改めて教えてくれる?」
祁婉は足を組み替え、背もたれに身を預けて、面接官のような態度で尋ねた。彼女の纏う高級なシルクのシャツとテーパードパンツは、洗練されたキャリアウーマンの風格を漂わせている。
「はい。私は五年前に来日し、日本語学校を経て、家政婦の専門学校で二年間学びました。清掃、調理、衣類管理はもちろん、日本の家庭料理やマナーについても一通り学んでおります。前職では、港区のご家庭で三年間、住み込みでお仕えしておりました」
陸姗の説明は簡潔で要領を得ており、その口調には自信が感じられたが、少しも嫌味はなかった。祁婉は内心、満足感を覚えた。何より気に入ったのは、彼女の物腰の柔らかさと、自分を見上げるような従順な眼差しだった。祁婉は、人から敬意を持って接せられることに何よりの快感を覚える女だった。
「掃除だけじゃないのね。実は、私の生活はかなり不規則で、食事の時間もばらばら。それでも大丈夫?」
「問題ございません。むしろ、私のスキルを活かせる場だと思います。どんなリクエストにも柔軟に対応いたします」
「どんなリクエストにも?」
祁婉は少し意地悪な口調で聞き返した。それは試すような響きだった。
陸姗は一瞬息を呑んだが、すぐに柔和な笑みを浮かべて頷いた。
「はい。ご主人様のご期待に添えるよう、全力を尽くします」
「ご主人様」という言葉を、陸姗はごく自然に口にした。祁婉はその言葉に、一瞬背筋に何かが走るのを感じたが、すぐにそれは彼女の教養の高さゆえだと納得した。
「いいわ。条件は提示通り。月給は五十万円。休みは月に四日。もちろん、社会保険も完備。それでよければ、いつから来られる?」
「本日中からでも」
陸姗は顔を上げ、まっすぐに祁婉を見つめた。その瞳に宿る光は、面接の最初よりも、どこか強い輝きを帯びているように祁婉には見えた。
「すぐに住み込みを始めてください。荷物は後で運べばいいわ。今日はオリエンテーションを兼ねて、家の中を案内するから」
祁婉は立ち上がり、陸姗を伴って応接室を出た。
別荘の中は、吹き抜けの玄関ホールから始まり、開放的なリビング、最新設備の整ったキッチン、書斎、フィットネスルーム、そして地下には小さなワインセラーまであった。二階には主寝室と三つのゲストルームがあり、陸姗に割り当てられる使用人部屋は、一階の奥まった場所に設けられていた。
「ここがあなたの部屋よ。必要なものがあれば言って」
祁婉がドアを開けると、十畳ほどの洋室が現れた。簡素だが清潔に整えられ、窓からは裏庭の小さな竹林が見える。
「とても立派なお部屋で、感激しています」
陸姗は部屋の中を見渡し、深々と礼をした。その仕草は、心からの感謝を示しているように見えた。
「そう? じゃあ後で、家全体の掃除の手順を説明するから、まずは荷物を解いて」
祁婉は微笑み、踵を返してリビングへと戻っていった。彼女は、この新しい家政婦に、完璧な管理を期待していた。彼女の生活は、整然としていなければならなかった。少なくとも、表面的には。
その夜、祁婉はいつもより早く、午後八時には帰宅した。新しい家政婦の仕事ぶりを確認するためだ。玄関を開けると、微かにレモングラスのアロマの香りが漂っていた。廊下の床は磨き上げられ、間接照明を受けてしっとりと輝いている。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
陸姗が小走りに現れ、祁婉のコートを受け取った。彼女はもう、紺色のスーツを脱ぎ、白いシャツに黒のエプロン姿になっていた。その姿は、まるでこの屋敷に昔から仕えていたかのように馴染んでいた。
「ただいま。ずいぶんと綺麗にしてくれたのね」
祁婉は裸足でリビングへ入り、満足げに頷いた。ソファのクッションは整えられ、テーブルの上には一輪の白いカラーが生けられた小さな花瓶が置かれている。
「夕食の準備はできておりますか?」
「ええ。今日は、ご主人様のご帰宅が早いと伺っておりましたので、鯛のあら炊きと、春野菜の天ぷらをご用意いたしました」
陸姗はそう言って、ダイニングテーブルへと祁婉を導いた。テーブルには趣味の良い和食器が並べられ、美しく盛り付けられた料理が湯気を立てている。
祁婉は席に着き、箸を取った。一口、鯛の身を口に運ぶと、その絶妙な味付けに思わず顔がほころんだ。
「美味しい。あなた、料理も本当に上手なのね」
「お口に合って光栄です」
陸姗は少し離れた場所に立ち、祁婉の食事を見守っていた。その姿勢は、主人の動きを一瞬たりとも見逃すまいとするかのようだった。祁婉が水を一口飲めば、すぐにグラスを満たし、箸を置けば、次の皿をそっと勧める。そのサービスの完璧さは、かえって祁婉に小さな違和感を芽生えさせた。しかし、彼女はそれを贅沢な悩みだと思い直し、食事を続けた。
食事が終わると、陸姗は素早く片付けを始め、祁婉はバスルームへ向かった。広い浴室のジャグジーには、すでに適温の湯が張られ、バスローブとタオルが整然と用意されている。祁婉は湯に浸かりながら、今日一日の疲れが解けていくのを感じた。新しい家政婦は、これまでで一番優秀かもしれない。そう思うと、彼女の口元には自然と笑みが浮かんだ。
バスルームを出て、シルクのガウンを羽織り、彼女は書斎へと向かった。まだ少し残っている仕事を片付けるためだ。書斎のドアを開けると、そこには陸姗が立っていた。手にはモップを持っている。
「あら、まだ掃除を?」
「はい。今日中に、すべての部屋の手順を確認しておきたくて。ご迷惑でしたら、すぐに控えます」
陸姗はそう言って、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいえ、続けて。私はこっちで仕事をするから」
祁婉はそう言って、デスクに向かった。パソコンを開き、メールをチェックし始める。しかし、背後でモップをかける微かな音を聞いているうちに、彼女はなぜか集中できなくなった。それは、誰かに見張られているような、奇妙な感覚だった。彼女は背後を振り返った。
陸姗は、真剣な表情で本棚の隅の埃を取っていた。彼女の動きは無駄がなく、静かで、まるで空気に溶け込んでいるかのようだ。祁婉は再びパソコンに向き直ったが、あの感覚は消えなかった。むしろ、それは次第に、甘い痺れのようなものに変わっていった。自分がこの家の主であり、誰かが自分のために尽くしているという事実が、彼女の中の何かを刺激していた。
午後十一時過ぎ、祁婉は仕事を終え、寝室に向かった。廊下では、すでに陸姗の姿はなかった。
広い主寝室の窓辺に立ち、彼女は庭を見下ろした。月明かりに照らされた竹林が、風に揺れている。その静寂の中で、彼女はふと、今日一日を振り返った。完璧な面接、完璧な料理、完璧なサービス。だが、その完璧さの裏に、何か得体の知れないものが潜んでいるような気がしてならなかった。
「考えすぎね」
祁婉は自分に言い聞かせ、カーテンを閉めた。そして、大きなベッドに横たわると、すぐに深い眠りに落ちた。
同じ頃、使用人部屋では、陸姗が薄明かりの中で、一冊のノートに何かを書きつけていた。それは、今日一日で観察した、この家の女主人の生活習慣の詳細な記録だった。
「起床は七時だが、熟睡はしていない。二度、寝室を覗いたが、寝返りが多く、夢見が悪そう。夜中に一度、キッチンへ水を飲みに行っていた。誰かに世話を焼かれることに飢えている。孤独で、支配欲が強いが、内的には非常に脆弱。完璧を求めるあまり、心の奥底では『許し』を欲している。香りに敏感で、レモングラスに特に反応した」
彼女はペンを置き、静かに微笑んだ。その笑みは、昼間の従順な家政婦のそれとは全く異なり、冷酷で計算高い光を帯びていた。
「祁婉……あなたは簡単に堕ちるわ」
陸姗はノートを閉じ、部屋の明かりを消した。窓の外の竹林が、風にざわめいている。
日常のやりとり
改札を抜けたところで、スマートフォンが震えた。祁婉は片手で応答しながら、もう一方の手で車のキーを取り出す。通話相手は若手のプロジェクトマネージャーで、朝の会議資料に不備があったことを詫びている。
「いい? そんな言い訳、クライアントに通じると思ってるの? 今日中に修正版を送りなさい。期限は午後五時、一秒でも遅れたら、来週のプレゼンから外すから」
声は低く、平坦だった。感情を読ませない、交渉の場で培った種類の声だ。言い終わるとすぐに通話を切り、車に乗り込んだ。エンジンをかけ、シートに深く凭れる。ほんの一瞬、眉間の皺が緩むのを自分でも知っていた。バックミラーに映る顔は変わらず鋭く整っているけれど、目の下の薄い影だけはコンシーラーでも誤魔化しきれない。
車をマンションの地下駐車場に滑り込ませ、自宅へと上がるエレベーターの中で、彼女はようやくヒールの痛みを意識した。一日中立ち仕事だったわけでもないのに、こんなときにだけ身体は正直になる。祁婉は唇を引き結び、ドアを開けた。
玄関を入ると、ふわりと檸檬系の洗剤の香りが鼻をくすぐった。廊下の床が濡れたように光っている。すぐに引き締めすぎたものが、ゆるりと解けていくのを感じる。これは嫌いではなかった。
「お帰りなさいませ、奥様」
声とともに、陸姗がリビングから静かに歩み寄ってきた。彼女はこの家に来てまだ五日しか経っていないのに、その所作にはすでに迷いがない。手には柔らかそうなタオルを一枚、差し出す角度まで計算されているように自然だった。
「ただいま」祁婉は鞄を渡し、タオルを受け取る。手を拭きながらリビングへ進むと、テーブルの上に湯呑みが一つ、湯気を立てて置かれているのが見えた。白磁の湯呑みには、薄く黄金色の中国茶が注がれている。温度も、量も、ちょうどいい。
「夕食の準備ができております。今日はお疲れのように見えましたので、胃に優しいものをと思いまして」
「疲れてなんかないわ」言いかけて、祁婉は口を噤む。これは癖だ。誰に対しても、弱みを見せることを反射的に拒否してしまう。だが、振り返って陸姗の顔を見ると、彼女はただ穏やかに微笑んでいるだけだった。そこには余計な詮索も、気遣いの押し付けもない。ただ、そうですか、とでも言いたげな透明な視線があるだけだ。
「……まあ、座りなさい。あなたも食べるんでしょう?」
「はい。ありがとうございます」
二人は向かい合って席に着く。陸姗が用意したのは、ささみと豆腐のあんかけに、根菜の煮物、わかめの味噌汁という献立だった。見た目通りに薄味で、温かさが素直に沁みていく。祁婉は一口食べて、密かに安堵した。前に雇った家政婦はどれも味付けが濃すぎるか、やたらと高級食材を使いたがる者ばかりだったからだ。
食事中、祁婉は仕事の愚痴を言ったりはしなかった。その代わり、家の中の細かな変更点について指示を出した。
「そういえば、ベランダの観葉植物、昨日の風で鉢が倒れていたわ。明日の午前中に直しておいて。あと、書斎の本棚の順番は変えないで。あれは私なりのシステムがあるの」
「承知しました。本棚については、掃除の際に一度すべて取り出して、元の位置に戻しておきました。もし配列に狂いがあれば、すぐに修正いたします」
祁婉は箸を止めた。あの本棚には二百冊以上の本がある。背表紙の高さもバラバラで、見ただけでは規則性がわかりにくいはずだ。それを、一度で復元した?
「……全部、覚えたの?」
「はい。奥様が大切にされているご様子でしたので。私は記憶力だけは良いほうでして」陸姗は相変わらず控えめな口調で言い、菜箸で煮物を一口、口に運んだ。その動作の最中も、視線は決して祁婉を見下ろさない。常に相手の表情を視野の端に収めながら、自分は従順であろうとするかのような姿勢を崩さない。
祁婉はしばし陸姗を観察し、それから食事を再開した。同時に、胸の内で歯車が噛み合うような、小さな満足感を覚えていた。有能だ。あたりだった、と。
夕食を終え、祁婉がソファでくつろいでいると、陸姗は手早く片付けを済ませ、キッチンの隅で明日の朝食用の下ごしらえを始めた。手際は鮮やかで、包丁の音さえ規則正しい。祁婉は横目でそれを見ながら、少しだけ気が緩むのを感じた。この家に誰かがいることが、これほど静かな安堵をもたらすとは思っていなかった。
「陸姗」祁婉は手にしていたタブレットをテーブルに置き、呼びかけた。
「はい」
「あなた、前の職場では何をしていたの? 履歴書には事務職と書いてあったけど、それだけの手際は普通じゃないわ」
陸姗の手が一瞬だけ止まった。それは本当にごく僅かな間で、気づく者のほうが珍しいだろう。彼女は振り返らず、手を動かしながら答えた。
「小さな会社でしたので、雑務全般を任されておりました。経理の補助から、来客対応、時には社長の秘書のようなことも。それが今、こうして奥様のお役に立てているなら、嬉しいです」
「そう。……このまま問題がなければ、来月から正式に長期契約に切り替えてもいいと思っているわ。給与も見直す」
「ありがとうございます。精一杯努めます」声には淡い感謝の色が浮かんでいたが、決して媚びてはいなかった。彼女は深々と頭を下げてから、再び米を研ぎ始めた。その背中が、妙に静かで、堂々としている。祁婉はタブレットを手に取ると、メールのチェックを始めたが、なぜだか文字が頭に入ってこなかった。心中で、陸姗という女の輪郭を何度もなぞっている。優秀で、物静かで、それでいて、どこか掴みどころのない――まるで水面下を流れる、冷たい水のような印象がちらついた。
その夜、祁婉が寝室で寝間着に着替えていると、ドアがノックされた。陸姗がホットミルクをトレイに乗せて立っている。
「失礼いたします。睡眠の質を上げるために、蜂蜜を少し加えました。お嫌いでなければ」
「そこに置いて」
陸姗はサイドテーブルにカップを置くと、静かに一礼して出て行こうとした。その背中に、祁婉は再び声を掛ける。
「陸姗、あんた、どうしていつもそんなに落ち着いていられるの?」
振り返った陸姗は、ほんの少し首を傾げ、困ったような微笑みを浮かべた。それはこの家に来てから初めて見せる、わずかな隙だった。
「奥様にそう言っていただけるとは光栄ですが、私も実は毎日、緊張しております。奥様に満足していただけなければ、すぐにお暇を出されるかもしれないと。ですから、ただ必死に、自分にできることを探しているだけなのです」
その言葉は、あまりにも完璧に、彼女が「雇われている家政婦」として発すべき台詞だった。祁婉は小さく笑った。計算か、本心か、どちらでも構わないと思えた。少なくとも今は、このミルクの温度が喉に心地よい。
「大丈夫よ、今のところは満足してる。おやすみ」
「おやすみなさいませ、奥様」
ドアが閉まると、祁婉はベッドに腰を下ろし、ミルクを一口含んだ。温かさが胸に落ちていくのと同時に、頭のどこかで仕事のメール、明日の会議、面倒な部下の顔がぐるぐると回る。しかしそれもすぐに薄れ、代わりに浮かんだのは、つい先ほど見た陸姗の微笑だった。あの微笑みの裏に、いったい何があるのか。少しだけ興味が湧いた。
そしてまた、自分がこうして誰かのことを考えているその事実自体が、ひどく久しぶりのことのように思えた。祁婉はカップを置き、灯りを消す。暗闇の中で、隣室の物音ひとつしない静けさだけが、この家に確かな他人がいることを告げていた。
一方、部屋に戻った陸姗は、すぐには寝間着に着替えなかった。カーテンを閉め、デスクライトだけを点けた部屋で、手帳を開く。今日の日付のページには、細かい字で祁婉の行動観察が記されている。
『帰宅時間 19時42分。左肩の動きがやや硬く、疲労のサイン。夕食の味付けは好評。ただし「疲れてなんかない」と反射的に否定。防衛本能強し。警戒は続行中だが、ミルクは受け入れた。小さな施しに対する抵抗は皆無。むしろ、心のどこかで誰かに世話を焼かれることを待っている節がある。本棚の記憶は効果覿面。信頼獲得フェーズは順調』
ペンを置き、彼女は小さく息を吐いた。祁婉は思っていたよりはるかに扱いやすい。あの高慢な態度の鎧の下には、誰かに支配されたいという潜在願望が、まるで地層のように折り重なっているのが透けて見える。あとは、この“日常”という名の飼い慣らしを、少しずつ、じわじわと進めていけばいい。
陸姗は立ち上がり、カーテンの隙間から夜の街を見下ろした。ガラスに映る自分の顔は、口元だけが三日月の形に歪んでいる。それは祁婉の前では決して見せない、冷たく、それでいて愉悦に満ちた笑みだった。
翌朝、祁婉がキッチンに立つと、朝食のオートミールと目玉焼き、ヨーグルトが並べられていた。陸姗はすでに洗濯機を回し終え、さりげなく祁婉のスケジュールを尋ねる。
「今日は新規案件の打ち合わせが二件、その後はオフィスでデスクワークの予定よ。帰りは遅くなるかもしれないけど、夕食は軽いものでいいわ」
「かしこまりました。お弁当はいかがなさいますか? 外でのお食事が続くと、どうしても油分が多くなりますから」
「……そうね、お願いしようかしら」
「はい。十時までにお作りしておきます」
祁婉が玄関でパンプスに足を入れるのを、陸姗は見送りの姿勢で待っていた。今日の祁婉は濃紺のパンツスーツで、襟元のシルクのスカーフが権威を象徴するかのようだ。陸姗はその姿を眺めながら、内心で採点をつけるように思う。『今日も“女社長”の仮面は完璧。だけど、昨夜の寝返りの多さを知らないわけじゃない。睡眠アプリのデータが無くても、あの目の下の隈が証拠よ』
「じゃあ、行ってくるわね」
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
ドアが閉まると、陸姗はすぐに動き出した。まずは祁婉の寝室へ行き、シーツを剥がす。枕カバーの微かな皺、ほんの数本落ちている長い髪。それらを確認しながら、彼女が昨夜どちらの向きで眠り、どれだけ動いたかをおおよそ測る。次にバスルームへ行き、洗面台の水滴を拭き取りながら、化粧品の配置をそっと変えてみる。祁婉がこれに気づくかどうか、それも小さなテストの一つだった。
リビングでは、祁婉が置きっぱなしにしていたタブレットがソファの隙間に挟まっているのを見つける。電源は切れていたが、ロック画面には二件の未読メッセージ。内容は見ない。そんなあからさまな真似はしない。ただ、この無造作に置かれた端末という事実が、祁婉の私生活における管理能力の限界をわずかに示していた。仕事では完璧主義でも、家では隙だらけ。そこが面白いのだ、と陸姗は内心で嗤う。
掃除機をかけ、観葉植物の鉢を直し、祁婉が指定した向きに葉を整える。昼前には約束通り、玄米をベースにした低カロリーの弁当を仕上げ、保冷バッグに入れておいた。すべての家事が終わった後、彼女はようやく自分の時間を持ち、キッチンのスツールに腰掛けてコーヒーを口にした。
窓の外はよく晴れている。この裕福な独身女の城の中で、彼女は静かに、しかし確実に、自分のテリトリーを広げていた。まるで精巧な巣を乗っ取るカッコウの雛のように。しかしその表情はあくまで柔和で、もし誰かが見たとしても、ただの真面目な家政婦が休憩しているようにしか見えないだろう。
祁婉がオフィスで部下に厳しい指示を飛ばしている頃、陸姗は祁婉のクローゼットを整理しながら、服の好み、ブランドの傾向、そしてわずかに覗く過去の傷(何年も着ていないのに捨てられない古いセーター)を、ひとつひとつ記憶のデータベースに蓄積していくのだった。
やがて夕方になり、約束より一時間早く、祁婉からメッセージが入った。
『予定より早く終わったから、今から帰る。夕食は予定通りで』
陸姗はすぐに返信を打つ。『承知しました。お待ちしております』
彼女はスマホを置くと、冷蔵庫から今朝仕込んでおいた鯛のアラを取り出す。手際よく潮汁の準備を始めながら、ふと思った。今日の祁婉は、どんな顔で帰ってくるだろうか。またあの強がりの鎧を纏って、しかしその下に疲労の色を滲ませて。
「お帰りなさいませ」という言葉を口の中で一度転がし、陸姗は一人、静かに微笑んだ。その部屋にはもう、彼女という異物の気配が自然に溶け込みつつある。まるで最初からそうだったかのように。
意外な発見
午後の柔らかな日差しが、カーテンの隙間から差し込んでいた。寝室の床には、磨き上げられた木目が淡く光っている。祁婉の寝室は広く、キングサイズのベッドにはシルクのシーツが几帳面に張られていた。陸姗はモップを手に、無駄のない動作で床を拭いていく。
家政婦としての仕事は、彼女にとっては呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。だが、彼女の心の中は決して静かではない。祁婉という女主人。あの、高慢で、自分を女王のように振る舞う女。陸姗は口元をほんの少しだけ歪めた。表面上はいつも従順な笑みを浮かべているが、その裏ではずっと彼女の弱点を探っていた。
ベッドサイドの小さな本棚には、経営書や自己啓発本が整然と並んでいる。祁婉が人に見せるための顔だ。陸姗は一度そこに視線を走らせてから、掃除の手をベッドの下へと伸ばした。普段はあまり念入りにしない場所だ。今日はたまたま、隅に溜まった埃が気になった。
モップの柄が、何か固いものに当たった。かすかな、こすれるような音。彼女は眉を動かさず、膝をついてベッドの下を覗き込んだ。ダストボックスがひとつ、壁際に押し込まれている。見た目はごく普通の収納ボックス。だが、この位置はあまりにも不自然だった。
陸姗はそれを静かに引き出した。蓋を開ける。中から出てきたのは、数冊の書籍と、いくつかの革製の小物入れだった。彼女はまず、一冊を手に取る。表紙には英字のタイトルが銀色で刻印されている。「The Psychology of Dominance and Submission」。彼女は瞬時にその意味を理解し、目を細めた。
次の本は日本語のものだった。「緊縛の美学」。ページをめくると、複雑な縄の結び方や、人体の拘束方法が細かいイラスト付きで解説されている。彼女の呼吸は、ほんの少しだけ速くなった。それは興奮からではなく、長い間探していたパズルのピースがようやく見つかったような、冷たい確信に満ちたものだった。
革製の小物入れを開ける。最初の一つには、黒い革の手枷と足枷が、上質なシルクの布に包まれて収められていた。金属の金具は鈍い光を放ち、使い込まれたような微かな擦り傷がある。次のケースには、目隠し用のマスクと、小さな、しかし精巧に作られた鞭が納められていた。
陸姗はそれらを手に取り、光に透かすようにして見つめた。彼女の唇が、ほとんど無意識にほころぶ。
「……なるほどね、祁婉さん」
ささやくような声が、静かな寝室に溶けていった。
彼女の頭の中では、これまでの断片的な情報が一気に結びついていく。祁婉の、時折見せる空虚な表情。スタッフに対する異常なまでの支配欲。そして、誰もいない夜にだけ洩れる、かすかなため息の意味。あれはすべて、満たされない飢餓の表れだったのだ。
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