プールサイド(implant02) (Pixiv Fanbox)
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屋外プールの敷地の四隅には、装置が設置されていた。
黒い色。大きさはそれぞれデスクトップパソコン一台ほど。形状はスピーカーによく似ている。一目見れば、それがその場に相応しくない異物だということが誰の目から見ても判断できる。
そう、正常な思考力を持った人間ならば。
しかし、誰もその装置の存在に気づくことができない。
気づくことができない理由は単純だ。その装置から照射される強力な電磁波が、そこに装置が存在しているという認識を阻害する効果を持っているからだ。
装置を動作させるために必要な台数は、最低で三台だ。
平面上に面を作るためには、最低三点が必要となるからだ。
装置は、人間の脳に対して影響を与える有害な電波を強く照射する。
その電波には指向性があり、装置で囲んだ内側に向かって強力な電磁波を照射することで、ある種の特別な空間を生成する。
「とはいえ装置――『親機』単体では、外側から脳に干渉することしかできないから、簡単な認識阻害程度の効果くらいしか発揮できないんですけどね」
再び現れた男は、伊坂の前にしゃがみ込み、スポーツバッグの中を漁りながら、そう呟くように言った。
いや、いきなり現れたのではない。
もともとそこに居たのだが、気づくことができなかったのだと、男の言葉を聞いて伊坂はやっと理解することができた。伊坂自身、つい先ほど男と邂逅したことさえも忘却させられていたのだ。
「伊坂さん、身体を動かすことができますか?」
「少しも動かすことができない」
反射的に答える。
この男からの問いかけに強制的に答えさせられるのも装置の効果だというのか。
「『親機』単体でもね、それなりに効力があるんですよ。こうやって肉体の動きを制限したりとか、都合の悪い記憶を忘却したりとか」
身を持ってその効果とやらを体験させられた伊坂は脂汗を滲ませていた。
「でもまあ、正直に言って限界はあります。脳が慣れるというか、人間の持つ免疫機構っていうのは実によくできていてですね、どんなに強い電磁波を浴びせても、慣れてしまうと異物だと認識して抵抗できるようになってくるんです。今も思考停止を有効にしてるんですけど、伊坂さんは思考してますよね?」
「……思考している」
まただ。
なんとか抵抗できないか試みるのだが、何気ない問いかけにも無意識に応じてしまう。
「まあ、他の『A級』隊員たちは、伊坂さんと違って耐性がほとんどないせいか、せっかく鍛えた筋肉も動かせず、考えることもできない木偶の坊に成り下がっているんですけどね」
伊坂は、動かすことの出来ない身体をなんとか動かそうと必死に集中していた。
しかし、現状の認識ができるくらいに思考力が回復している状態であれば、それも可能ではないかと考えたのだ。男の言うことが本当だとすれば、肉体の拘束も時間経過とともに抵抗することが可能だということを意味している。
もし身体が動かせたなら、こんな男など一撃でノックアウトさせてやることができる自信が伊坂にはあった。半開きになったままの口内が、喉の奥が夏の熱気とともに乾いていくことに不快感を覚えながら、伊坂は必死に抵抗を続けた。
同時に協会の本部に対して、エマージェンシーコールを発信し続ける。
しかし、なぜか応答はまったく返ってこない。それどころか通信用のチップがまったく動作しない、というよりこちらからの命令を一切受け付けず、意味不明な応答を繰り返しているのだ。
装置の電磁波とやらにやられてしまったのだろうか。
「5.1.2」
そう言いながら、 男は立ち上がった。
スポーツバッグの中から何かを取り出したようだ。
「伊坂さん、この数字が何のことか分かりますか?」
伊坂からの答えはなかった。
答えがないということは、伊坂には質問の意図が分からなかったということだ。
「伊坂さんが今、必死にエマージェンシーコールを発信し続けているインプラントチップのバージョン情報ですよ」
その言葉に、自分の思考すら読まれているかのような錯覚を覚え、伊坂はヒヤリとした。
「あなたに埋め込まれているチップは第五世代と呼ばれているチップです。ちょうど伊坂さんが一線で戦っていた頃に開発された脳内埋め込み型の通信用チップです」
男が手に持っているのは、銃のようなものだった。
伊坂にはそれに見覚えがある。それは貫通式注射器だ。
なぜすぐに思い出せたか。
それはまさに、自分が通信用チップを埋め込まれた際に使われた器具だったからだ。
「脳へ直接注入するタイプのインプラントチップが採用されていたのは、ちょうど第五世代までです。現在は皮膚に埋め込むタイプのチップが主流です。脳に直接埋め込むというのは副作用がないとも言えませんし、セキュリティ上のリスクもゼロではないと協会が判断したんでしょうね」
伊坂は、その話を聞いて何かおぞましい予感のようなものがじわじわと心に広がっていくのを感じていた。
電磁波、インプラントチップ、脳への埋め込み……。
「ところで――」
男は楽しそうにクツクツと笑いながら、何かもったいぶるように言った。
「伊坂さん、あなたは今朝から起床してからの記憶を覚えていますか?」
その言葉はトリガーだった。
伊坂の記憶は、一気にフラッシュバックした。
それは郵便物だった。
かなりの重量があったから、腕力のある伊坂でなければ運ぶのに難儀しただろう。
早朝に起床した伊坂は、『訓練の準備』のために、その機材をこの屋内プールに持ち込んだ。あらかじめプールの使用許可は取ってあったから、プールを開錠するためのキーを教官である伊坂が持っていることは当然のことだった。
四つの装置を律儀に屋外プールの敷地の四隅に運び、外側からは見えない位置に丁寧に設置すると、律儀にひとつひとつの電源コードの配線まで済ませ、それぞれ起動スイッチを押した。
ぐわんと頭に突き刺すような感覚。
装置の起動に成功したことを確認すると、伊坂は『A級』の隊員たちとともに早朝訓練を開始したのだ。
――伊坂は愕然とした。
この妙な装置を設置したのは、他でもない自分だったのだ。
考えてみれば、おかしいことは他にもある。
早朝からウェイトトレーニングをさせた隊員たちに、なぜシャワーを浴びせる時間も与えさせずにプールに移動したのか。トレーニングのあとに汗を流させるのは当然のことだ。わざわざその時間を惜しむ理由はない。
それにわざわざ隊員たちを整列させ、揃って準備運動させようとしていたのは、なぜだ。
小学生でもあるまいし、準備運動など各人にさせれば良いことだ。シャワーの時間を惜しむくせに準備運動は揃って実施させる。
どこか矛盾していて、おかしい話だった。
――しかし、あくまでも思考が改竄されるのは、装置が作り出した空間の中だけではなかったのか。なぜ、装置が起動していない状態で、自分は行動や思考を操作されていたのか。
伊坂が正常な思考力を保てたのはそこまでだった。
「伊坂隆次郎。シャツを脱ぎ、両手を頭の後ろに組め。命令だ」
「イエス、サー」
反射的にそう答えると、伊坂はすぐに汗の染み込んだ白いシャツを足もとに脱ぎ捨てた。あんなに必死に動かそうとしても動かなかった身体は本人の意思に背いて命令ひとつであっさりと動く。シャツを脱いだ拍子にホイッスルまで転がり落ちてしまったが構わない。
命令は最優先だ。
伊坂は両腋を晒すようにして、命令通りに筋肉質な腕を頭の後ろで組んでみせた。そして胸を張り、思わず唇を噛みしめる。
正直に言って、――たまらなく気持ちが良かった。
蒸し暑い夏の熱気から汗ばんだ上半身が解放され、蒸れた汗が発散される。ずっと腋を締めたままだったからか、特にその解放感が心地よい。しばらく硬直させられていた筋肉を動かしたおかげで、こわばった筋肉がほどけていく感覚も心地良い。
しかし、それよりなにより命令に従っている自分が心地良かった。
従わされているはずなのにもかかわらず、一切の不快感はなく、むしろ命令に従って自らの肉体を行使している。
そう認識するだけで溢れるような多幸感が不思議と胸に溢れてくるのだ。
「あなたがこのプールサイドに設置した装置は、言わばチップの『親機』に当たるものなんですよ。電磁波を照射することで直接、脳に影響を与える、というのはあくまでもオプショナルな機能です。『子機』であるインプラントチップに命令を送る出力機能が本来の役割です。『子機』は直接脳に影響しますから、認識の阻害なんてチャチなことだけじゃなく、脳機能自体を操作することも容易にできます」
男は自慢げに語る。
――脳機能を操作する……?
「例えば、伊坂さんが今、涎を垂らしながら感じている幸福感を報酬として与えるために脳内麻薬を分泌させる、なんていうことも、とても簡単なことなんですよ」
涎を垂らしている……?
伊坂の半開きになった口から、唾液が滴っていた。伊坂は、それに気づかないほどに強烈な快感を享受していた。おかしいと分かっていても、脳から直接送り込まれる命令には逆らえない。
「一般には知られていないことなんですが、第五世代のインプラントチップにはセキュリティホールがありまして、だからあなたを遠隔操作することも容易だったのです」
命令に従うという喜びは、性的な興奮と良く似ていた。
伊坂は 、自らの性器がゆっくりと鎌首をもたげ始めていることに、気づいていた。正直に言って、命令に従うことは最高に爽快だった。
命令に従うことが何より正しいことなのだと感じずにはいられない。
いや、違う!
そんなことは間違っている。埋め込まれたチップが思考を歪めているだけだ。こんな得体の知れない男の命令を聞いてはならない。エマージェンシーコールが使えないのであれば、自力でこの状況を打破するしかない。しかし、彼の鍛え上げた身体は1mmも動こうとしなかった。
そのとき、首筋に何かが当たる感触があった。
いつの間にか男は、伊坂の隣に立っていた。そして、注射器を伊坂の首筋に当てている。
「しかしながら、所詮通信用のインプラントチップです。残念ながら脳神経への入出力も限定的なんですよ。だから、しっかりとした『正規』の洗脳用チップに置き換えておきましょう」
まだ注射器の針は身体に刺さっていない。
男は、注射器を伊坂の首筋に当てたまま、それを彼の右手に握らせた。
「そうすれば、今の何倍も気持ちよくしてあげられますよ。いや、気持ちよくなるのは僕のほうかな?」
まるでウィットに富んだジョークを言ったかのように笑う男に、伊坂は戦慄した。ごくり、と生唾を飲む。
命令だ。
この男はまた命令をして、洗脳用のチップを他でも自分自身の手で埋め込ませるという倒錯的な行動を取らせようとしている。恐らく次は注射器のトリガーを引くような旨の命令をするはずだ。直感的に伊坂はそう思った。しかし、身体を拘束したままではトリガーを引くことはできない。ということは――
伊坂はもしやと思い、小さく右手に力を込めた。
予想通り、右手だけは動かすことができる。男は、伊坂の右手の拘束は解いたのだ。倒錯的なシチュエーションに酔い、男は油断している。
この男を、この変態野郎を倒す機会は今しかない。
伊坂は気取られぬように迷わず、男に一撃を食らわせようと拳を握りしめた。首筋にバンドで固定された注射器から右手は離れる。
腕を動すことができる――!
伊坂は腕の筋肉を盛り上がらせると、握りしめた拳に力を込めて、腕をしならせながら男の顔目がけて、その自慢の腕力を全力で叩きつけてやった。
叩きつけてやったつもりだった。
拳は、男の眼前で止まっていた。
腕にできた力瘤。その筋肉に込められた力の大半は、拳の勢いを殺すために使われていた。どんなに力を込めようとしても、男の顔の直前からその先に腕を伸ばすことができない。
なぜなら、男を傷つけるあらゆる行為は禁じられているからだ。
そもそもなぜ男を傷つける必要があるのか。
「伊坂隆次郎、注射器のトリガーを引き、自らの脳に洗脳チップを埋め込め」
伸ばした腕を震わせながら、伊坂は再びその右手で注射器を掴む。いけない。この引き金を引いてはいけない。引き金を引いてはいけない。引き金を引いてしまえば洗脳用チップを埋め込まれてしまう。そんな得体の知れないチップを脳に埋め込まれてしまえば、伊坂の精神は完全にコントロールされてしまう。異物に身体と精神を汚染される。そんな激しい嫌悪感に伊坂の呼吸は荒くなっていった。
しかし、付け足された次の一言に、伊坂の意思は無慈悲に奪われた。
「これは命令だ」
「――イエス、サー!」
屋外プールに伊坂の勇ましい応えが響く。
命令は最も優先されるべきことである。
彼の脳に埋め込まれた通信用チップは、その機能を制御を奪われ、彼の脳神経に電流を流す。それはあたかも彼自身の意思であるかのように振る舞い、彼の精神に働きかけ、彼の判断した結果は歪められて、意識へと伝搬していく。
伊坂は迷うことなく、そして力強く注射器のトリガーをあっさりと引いた。首筋に固定された注射器から射出されたその針は、彼の脳髄にまで達した。