the robber 04 <2,000文字程度> (Pixiv Fanbox)
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「桝谷、公平くんだよね」
放課後、いつものように生徒指導室に向かおうと席を立とうとした僕に、転校生は人当たりの良さそうな笑みを浮かべながら声をかけてきた。
「間違ってたかな? ごめん。名前を覚えるのは苦手で」
妙なことを言う奴だと僕は思った。
胸の名札を見れば、苗字は分かる。別に憶える努力をする必要なんてない。
「いちいち名前まで憶えてるの?」
「うん。折角同じクラスになったんだし、名前くらいはね」
「そっか」
変わった奴だ。
胸の名札に刻まれた平瀬という苗字を見て、僕はかろうじてこの転校生が平瀬勝というフルネームだったということを記憶から辿ることができた。
大して話したこともない他人に、クラスメイトという理由だけでそんな興味を持つなんて僕にはできそうにない。
そう思いながら、平瀬に用件について話すように促す。
「それで何か用?」
「桝谷くん、部活は? 僕はまだどこに入るか決めてなくてさ」
どうしてわざわざ僕に聞くのだろう。少し不思議に思いながら答える。
「僕は帰宅部。参考にするなら他の奴に聞いたほうがいいよ」
「え? そうなの? いつも放課後、指導室にいるみたいだったから、てっきり――」
「家庭の事情で家に帰りたくないから時間を潰してるだけなんだ。話して楽しい話じゃないから、できれば詮索しないでもらえるとありがたいんだけど」
「詮索するつもりなんてないよ。ごめん。余計なこと聞いちゃったな」
「いや、いいよ」
「ありがとう。呼び止めて悪かったね」
その言葉を受けて、僕は席を立つ。これ以上話を続ける意味はない。荷物を持って教室を出ようとすると、平瀬は背中越しに言葉を続けた。
「そういえば桝谷くんは、松原先生と仲が良いんだね」
「どういう意味?」
振り向いて僕は問いかける。
「これも詮索しちゃいけない話だった?」
平瀬は笑みを浮かべたままそう言った。
今まで人当たりの良さそうに見えていた柔和な表情が、まるで無理やり張り付けた面のように思えてならない。見れば見るほど、その表情から底知れぬ何かが滲んでくるような錯覚に囚われる。
「嫌なことを聞いたのなら謝るよ。だけどね桝谷くん、僕は思うんだ」
平瀬はそっと僕の耳元に唇を寄せて、囁くように言った。
「きっと僕と君は良い友達になれる」
生暖かい吐息が耳をくすぐるのを感じて、思わず僕は平瀬を突き飛ばす様に教室を出ると、廊下を走っていた。違う。僕は違う。何を否定しているのかも分からないまま、僕はただ違うと心の中でそう叫び続けていた。
勢い良く生徒指導室の扉を開けると、中に居た松原先生は驚いたようにビクンと身体を震わせた。
「おい、どうしたそんなに慌てて」
扉を閉めると、僕は縋るように松原先生の身体に顔を埋めた。
違うんです、先生。僕は違うんです。
先生は戸惑いながらも、僕を抱きとめて、僕が満足するまでずっと僕の髪を撫で続けてくれた。大丈夫、大丈夫だ。そう声をかけてもらううちに僕も少しずつ落ち着いてきて、それでも先生は僕に理由を聞こうともせずに一緒にいてくれた。
結局その日はずっと先生と二人並んで座って、先生に抱きしめてもらいながら、心穏やかに放課後の時間を過ごすことができた。先生に触れていられるだけで嫌なことを全て忘れられる気がした。いつも優しい先生。松原先生。僕は心から先生の厚意に感謝をしていた。
僕が帰路につくまで、先生は僕のそばから離れずにいてくれた。帰るときも気を付けて帰れよと手を振ってくれた。夕暮れの校門まで、わざわざ先生は僕を送り出してくれた。
別れ際。ふと、疑問が浮かぶ。
松原先生は、今日、部活に行かなくて良かったのだろうか。
不意に浮かび上がったその疑問に僕は足を止めた。しかし、振り返ることはできない。
余計なことを考えるな。
誰に否定される謂れもない。
これは僕に許されたほんのささやかな幸せなのだから。
僕は先生の温もりを、先生の感触を思い起こして反芻する。疑問はゆっくりと塗りつぶされていき、そして僕は幸せな気持ちのまま家路につく。それが僕の日常。それを享受することは僕のとって当然の権利なのだ。僕はなんだか夢の中にいるようなふわふわとした気持ちで、再び歩みを進め始めた。
家につくころには、日は完全に落ちていた。
玄関には、家人のものとは違う男物の靴があった。
廊下を進むとリビングから母親の声と、他人の声が聞こえてくる。
「お邪魔してるよ」
リビングのソファに腰かけてテレビを見ている男。母親の再婚相手である富良野だった。
母親と富良野はまだ再婚には至っていない。だが、夏を過ぎるまでには籍を入れるらしい。僕には関係のない話だった。
一瞬だけ富良野に目を合わせると、僕は形式的に頭を下げて、自分の部屋に向かった。呼び止める母親の声が聞こえたような気がしたが、気にせずに階段を上る。
――本当に仕方のない子。
濃く紅を塗った唇が歪む。
きっと母親からこぼれたのは、そんな言葉だった。
しかし、そんなことは僕の知るところではない。
制服から着替え、ベッドに腰を下ろしたところでスマートフォンの通知に気づく。
通知は、富良野からのメッセージだった。
"久しぶりに顔を見られて嬉しかったよ"
画面をタップすれば、アプリケーションが表示される。
アプリケーションを開いた瞬間に、新しいメッセージを受信する。
"今度は二人きりで会おうね"
富良野からのメッセージを読むと、返事を書こうともせずに僕はスマートフォンを伏せる。液晶が暗転するのを見て、僕も静かに目を閉じる。
――違う。僕は違う。
何度否定しようとしても、その感情は沸々と湧き上がってくる。
その感情を何と呼ぶべきものなのか、僕はまだその時知らなかった。