the robber 07 <4,000文字程度> (Pixiv Fanbox)
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放課後、僕は黒板を消していた。
ただの日直の仕事だ。別に自主的にそうしているわけではない。
同じく日直の牧野は、机に座って日誌への記入をしていた。放課後の教室には、日直の二人以外には誰も残っていなかった。いつもはまばらに人が残るものなのだが、今日は珍しい。僕か牧野のどちらかが喋らなければ、校庭から響いてくる運動部の声や、合唱部の発声練習や器楽部の楽器を鳴らす音がかすかに響いてくるだけ。いつもは騒がしい教室がしんと静かになるのは、どこか非日常感があって誰かにはそれを話したことはなかったが、僕は好きだった。
黒板を消し終えると、牧野もちょうど日誌を書き終えたところだった。
真剣に日誌を書かない生徒がほとんどで形骸化された作業だったが、牧野はこういうところはマメなタイプだった。
「黒板ありがとう、桝谷くん」
別に役割分担をしただけなのだから、お礼なんて言わなくてもいいのに牧野は穏やかに微笑んだ。表情から、本当に感謝しているということが伝わってくる。見ているとなんだか気が抜けてくる奴だ。
「日誌は、僕が職員室まで持っていっておくから、桝谷くんの日直の仕事はもう終わりってことにして構わないよ」
ありがたい申し出だった。
「任せていいの?」
「いいよ。昇降口に向かう途中に立ち寄れるから」
牧野は立ち上がると、日誌を小脇にかかえながら、少し伸びをした。
僕は、他人に対して好意というものを持つことは少ない。しかしながら、牧野純也のことは嫌いではなかった。こいつが誰かに嫌われるということはないんじゃないかとさえ思う。どこか飄々としていて、ユーモアがあって、真面目で、何より穏やかな性格をしていた。
牧野は学級委員長だった。噂によると、その場にいた学級委員たちが満場一致で決めたらしい。
学級委員は、面倒な仕事も多く好んでやりたがるものはいなかった。特に、自習の時間などにふざけたクラスメイトが騒がしくていたら、注意しなければならないということが一番面倒だった。役割であるとはいえ、他人を批判することは容易に軋轢を生む。僕はそういった複雑な人間関係はまっぴらだった。
しかし、牧野はそういう部分でのバランス感覚が上手いようで、彼がそういう役割を演じたとしても、誰かから反感を買ったところをみたことはなかった。こういう奴が、将来、人を使う立場になるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、「そういえば」と牧野は口を開いた。
「柔道部の噂、聞いた?」
少し声をひそめるようにして問いかける牧野の表情は、少し翳っているように見えた。
心当たりがなかったため、僕は首を傾げる。それを見た牧野は少し意外そうだった。
ああ、そうか、と気づく。
柔道部の顧問である松原先生としゃべる機会が多いから、その噂話を当然、僕は知っているだろうという腹づもりで牧野は尋ねてきたのだろう。
しかし、僕がその話を知らなかったため、牧野は詳細を喋るべきか逡巡しているようだった。
「噂って?」
「僕も人から聞いた話で、本当のことかどうかも分からないし、ただの噂話なんだけど」
まるで予防線を張るように、丁寧に前置きをしてから牧野は言葉を区切った。
「盗まれるらしいんだ、下着を」
「下着? つまりこの学校に下着泥棒がいるってこと?」
僕は少し笑ってしまった。
「泥棒なんて滅多なこと言うなよ。本当にまだ噂話なんだから」
"まだ"噂話ね。少なくとも牧野は今後それが事実になると信じているのだろうか。
「でも、柔道部って男子部員しかいないよね」
「そうだけど、なぜ?」
「下着泥棒っていうと男性が女性の下着を盗むのが一般的なのかと思って」
僕の言葉を聞いて、牧野は吹き出した。
「そうだね。僕は男子だから、女子の気持ちは分からないけど、もしかしたら男子の下着を盗みたいと思っている女子も案外いるのかもしれないよ」
確かにその可能性はないとは言い切れない。だけど、僕は柔道部の部室に忍び込んでロッカーを漁る男子生徒の姿を想像していた。偏見かもしれないけれど、もし意中の相手が柔道部にいたとして、その下着を盗むという行為は女性的な行動であるとは思えなかったのだ。アンケートや統計を取ったことはないけれど、きっと縦笛を舐めるのだって男子のはずだと僕は思った。しかし、牧野は僕とは違う考えを持っているようだった。
「それに、目的にもよると思う」
そう言った牧野の柔和な瞳が、少しだけ鋭く細められたように見えた。
「目的?」
「単純な嫌がらせ。もしくは柔道部に不和を起こそうとしているとか」
「嫌がらせや、不和?」
嫌がらせはともかく、不和とはどういう意味だろう。
「犯人は、男子であろうと女子であろうとどちらでもいい。もし柔道部の誰かに"好意"を持った誰かが、性的な欲求を満たすために下着を盗んだのだとしたら、気味が悪い話だと思う。だけど、物を盗むということに好意は必要ない。むしろ単純に悪意のある行為だとは思わない? だって、誰だって下着をなくしたら困るだろう」
「つまり牧野は、犯人の目的は下着そのものではなく、下着を盗んで相手を困らせること自体が目的だったって言いたいの?」
僕の問いかけに、牧野は頷く。
でも本当にそんなことがありえるのだろうか。もし、自分が犯人の立場だったとしたら。
「だけど、それって下着である必要性ある? 確かに下着を盗まれたら困るし、気持ち悪いけど、相手を困らせることが目的で盗むならもっと困る物ってあるんじゃない? 上手く具体的な例は思いつかないけど、そう例えば財布とか。それでも、あえて下着に執着しているわけではないのに下着を盗んだなら、何かメリットがあるはず。例えば、盗まれたことを他人に話すことが恥ずかしいということは、もしかしたらメリットになりうるかもしれない。だって、盗まれた当事者が自分の下着を誰かに盗まれたことを誰にも言わず、黙っていたら犯行は公にならない。犯行が公にならなければ、犯人として追及される可能性もない。だから、犯行の発覚を避けるために、あえて盗まれたことを言い出しづらい下着を選んで盗んだのかもしれない。だけど、もしそれが犯人の目的だとすると、その目論見は失敗していることになる。牧野がその噂話を知っているってことは、すでに盗まれた事実は広まっているわけだから。そう考えるとやっぱりあえて下着を選んで盗むことにメリットは感じられないように思う」
「うん。僕もそこまでは同意見だよ」
牧野はどこか嬉しそうに頷いた。そして言葉を続ける。
「だから僕は、犯人が下着に対して執着心がなく、かつ悪意を持った犯行なのだとしたら、犯人の悪意は柔道部自体に向けられていると思うんだ。部室で盗難があったとして、まず疑われるのは誰だと思う?」
その言葉に、僕は牧野が何を言いたいのか少し理解し始めた。
もし、僕が柔道部員なら、きっと同じ柔道部員を疑う。部員なら部室やロッカーへ近づいても不自然じゃないし、きっと盗むことが一番簡単だから。
「今の今まで仲間だと信じていた同じ柔道部の誰か。そいつが男の下着を盗む変態だった。そんなの想像するだけで最悪だろう。しかも、普段はそんな素振りも一切感じない。しかし、男なのに男の下着を盗むということは男の自分に対して性的な目を向けているかもしれない。例えば、体が接触したとき、柔道着の胸元がはだけたとき、タオルで汗を拭うとき、着替えをしているとき、どう思われていてもおかしくない。そう考えてしまうと、常に仲間からのそういう視線を意識して警戒することになる。そう思わせることこそがメリットだったとしたら? もし犯人が柔道部に対して恨みを持っていたとしたら、あえて下着を盗むことでメリットが生まれるのさ。だからもし、犯人が柔道部の中に、不和やそういった疑心暗鬼の火種を撒くことが目的だったとするなら、犯人は柔道部に恨みを持つほど近しい人間で、かつ現在は柔道部に所属していない人間だと思うな」
「それプロファイリングってやつ? まあ、一理あるかもね」
僕はそう頷いてみせた。だが、牧野の話は少し考えすぎだし、無理があるように思った。しかし、楽しそうに話している牧野を見ているとそれを否定するのもなんだか忍びない。あえて水を差すこともないだろう。
そんな僕の本心を察したのか、牧野は言葉を付け足した。
「もちろんこれは犯人が変態じゃないと仮定した場合の話で、普通に考えれば変態泥棒説が最有力だろうけどね」
「うん。それは分かったけど、牧野。あのさ、泥棒とか犯人とか変態とか、軽々しく言っていいの? 自分で言ったじゃない。"まだ"噂話だから滅多なことをいうもんじゃないって……」
僕は少し呆れてそう指摘すると、知らず知らず白熱していた自分に気づいたのか、牧野はバツが悪そうに頭をかいた。
「あ、いけない。話し込むつもりはなかったんだけど」
時計を見て、牧野は少し慌てたようだった。
「呼び止めてしまってごめん。僕はもう帰るから」
「うん。面白い話だったよ。気持ち悪いけど」
日誌と鞄をつかんで教室を飛び出していこうとする牧野に、僕がそう伝えると彼は安心したように少し笑った。小走りで教室の出入り口に向かい、扉に手をかけた牧野は思い出したように振り返った。
「あ、もし松原先生から何か聞くことがあったら……」
「ああ、面白い話が聞けたら」
僕の答えに牧野は満足げに頷いて、教室から出て行った。
それにしても、噂について言及するべきか迷っていた割に、話し始めると随分ペラペラと持論を述べるじゃないか。牧野はもしかするとゴシップ好きなのかもしれない。こうして誰かに話したくてずっとうずうずと機会を窺っていたのかもしれないと想像すると少し笑えた。
教室に一人、取り残された僕はぼんやり窓の外を眺める。強い日差しを受けて、一瞬目がくらむような感覚を覚える。
今年の梅雨は、例年に比べてずいぶん短かったらしい。眩い陽光に、僕は今年も夏を感じる。
僕も少し急ごう。
もしかしたら、生徒指導室で松原先生が待っているかもしれない。
学生鞄を掴み、僕は一人の教室を後にした。