ホームオフィス(Limited→Omicron) <20,000字程度> (Pixiv Fanbox)
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概要を一読してから読んでいただけると、混乱せずに済むと思います。
以下のリンクから。
https://mtosak.fanbox.cc/posts/2557425
ホームオフィス(Limited)は以下のリンクから。
https://mtosak.fanbox.cc/posts/2554335
*
大倉は、安藤と舌を絡ませたまま、静かに射精迎えていった。
脳の中を激しく駆け巡る快感によって、反射的に身体が仰け反りそうになるのを必死で堪えた。
大倉は安藤と少しでも身体を密着させていたかった。1ミリの隙間もないほどに安藤を感じ続けていたかった。
大倉の陰嚢から迫り上がった精液は、コンドームの中に既に溜まっていた大量の透明な我慢汁の中に、白線を引くように噴き上がった。その圧力でペニスの根元を縛って、固定してはずのゴムバンドがズレてしまうほどだった。
大量に何度も何度も噴き上がる大倉の精液は、コンドームの中の体液を透明から、乳白色に染め上げていった。その色は、大倉の使い古した柔道着の色によく似ていた。
頭を殴られ続けるような暴力的な快感の中で、それでも大倉は、自分を見失うことなく、ただただ一途に安藤のことを思い続けていた。激しい快感のあまり、絡め合う舌が痙攣しうまく動かせなくなっても、それでも絶対に安藤を抱きしめる両腕の力だけは少しも緩めようとはしなかった。
信じてくれ。
信じてくれ。
頼むから、俺のことを信じてくれ。
そして、俺のことを好きだと言ってくれ。
俺のことだけを愛していると、そう言ってくれ。
射精が終わってもなお、二人は静かにキスを続けていた。
情熱的でもなければ、激しいわけでもない。ただ、穏やかなキスを続ける。
大倉はただ永遠にこの時間が続けばいいと思っていた。
頼むから醒めないでくれ。終わらないでくれ。そう願っていた。
しかし、二人の唇は離れた。
「おお、たっぷり射精しましたねー!」
安藤は、大倉のペニスを覆うコンドームを見て喜びの声を上げた。
「……それは全部、安藤。お前のことだけを考えて射精した精液なんだ」
大倉は、ただ静かに呟くように言った。
「流石! 体格の良さは折り紙付きの天然物なことだけはあるなあ。そもそもタンパク質の生成量が常人と比べて、やはり全然違うんですかね。これって何日ぶり射精でしたっけ。あとでラベリングする前に忘れずに確認しておかないとですね」
楽しげに話す安藤の姿。
背中を抱きしめる腕に自然と力がこもった。
この腕を離せば、全てが終わってしまう。
楽しかったはずの――
「なあ安藤、聞いてくれないか。本当に俺は――」
「それじゃあ、大倉さんの汁だく精液、回収させてもらいまーす」
ソファから立ち上がろうとした安藤は、自分を強く抱きしめている大倉の右腕に触れた。
硬く握りしめていたその腕を、大倉は離そうとしなかった。
安藤は一瞬、困惑の表情を浮かべる。
「なあ、どうして俺の話を無視しようとするんだ」
「無視なんてしてません」
「それなら、聞いてくれよ」
「後じゃだめなんですか? 今は精液の回収が――」
大倉の胸板が大きく膨らんだ。
そう、安藤が思った瞬間にはもう大倉は叫んでいた。
「俺の話を無視するんじゃない!」
声は、部屋全体に大きく響いた。
その声が大倉から発せられたのだと気づくまでに、安藤は少し時間がかかった。
「落ち着いてください、大倉さん。大きな声を出すのを、やめてください」
やめてください。
その言葉を聞いて、大倉は胸に痛みを感じた。しかし、それでも続けた。
「ちゃんと見ろ。ちゃんと俺を見て喋ってくれ、安藤」
「見てますよ」
「違う、そう言う意味じゃない。俺が言いたいのは――」
「おいおい、どうした? 大丈夫か?」
心配した様子で岩本が、腰を上げてソファに近づく。
「ボスは放っておいてください。これは俺と安藤の問題なんです」
大倉は、岩本には目もくれなかった。
「おい、大倉。なんだその言い草は。だいたい今は業務時間内――」
「岩本チーフ」
慌てて、安藤は岩本の言葉を遮った。
珍しく焦っているのか、額に汗を浮かべている。
「チーフ、安心してください。何の問題もありません。業務に必要なことを話していてつい熱くなってしまっただけなんです。だから岩本チーフはデスクに戻って、仕事を続けてください。岩本チーフにも会議が白熱して、つい熱くなってしまうことってよくあることでしょう? それも仕事に必要なことだと僕は思うんです。だから、いいですね?」
「ああ。安藤が言うのなら間違いないだろう。邪魔してすまなかったな」
岩本はあっさりと引き下がり、何事もなかったかのように自分のデスクに戻った。
「今、ボスにやったみたいに、俺のこともいつも良いように誘導してるのか?」
「それはどういう意味ですか、大倉さん」
プツリと心の中に絡まっている細い糸のような何かが千切れる音を大倉は感じた。
「お前の匙加減ひとつで、この気持ちも全部消せるのか?」
「だから、何の話です? それは大倉さんの空想の中のお話ですか?」
プツリ。別の糸が切れる。
「お前を好きだという気持ちも、全部、偽物だって言うのか」
「あんまりしつこいと僕も怒りますよ」
プツリ。千切れ始めた糸は、次々に強度を失っていく。
「お前は、俺のことが嫌いか」
初めて、安藤が黙った。
「お前は、俺のことを愛してくれないのか」
「大倉さん、僕は――」
「俺はいつか捨てられるのか。全部、なかったことにされて、この気持ちも全部忘れて、お前のこともただの同僚だと思って、何の痛みも感じないまま、使い終わっていらなくなったティッシュペーパーみたいに、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てられるのか」
「……」
「お前にとっては、俺は、ただの玩具なのか?」
そう問いかけた瞬間に、身体の奥底を縛り付けていた太い紐のような何かが引き千切れる音を、大倉は感じた。
安藤はため息をつく。
「そうです。僕は大倉さんのことを玩具だと思っています。僕の言葉ひとつで一喜一憂して、自分の勃起や射精すらも僕の許可がなければできないというのに、それすら喜んで、まるで道化のように僕の思うがままに操られて、それを幸せだと思い込んで身体を喜びで震わせているあなたを見ると、本当に滑稽で笑える。飽きのこない玩具です。それに性処理道具としても優秀で気に入っています。頼みさえすれば、いつでも僕の性処理用の玩具として、一生懸命になってくれて、柔道だかなんだか知りませんが、そのために鍛えた身体を僕を喜ばせるためだけに自ら望んで使って、奉仕している姿は本当にいつも興奮させられます。それに本当は女性が好きでたまらないくせに、男性である僕に興奮していると錯覚させられて無様に射精させられて、それにもう何年も女性と関わることすら禁止されて、僕の性処理ばかりさせられている。それが一層、僕をいつも興奮させるスパイスになってくれます。あなたの身体を使って射精すると、僕はとても気持ちがいいです。だから、大倉さん。あなたは僕にとって、性欲を満たすためのただの玩具です。これで満足ですか?」
吐き捨てるように安藤は言った。
そんな安藤を包み込むように、大倉は自分の胸に抱きしめた。
「正直な気持ちを話してくれてありがとう」
その反応は予想とは違うもので、安藤は僅かな戸惑いを覚えた。
「だけどそれにしたって、お前、流石に正直に言い過ぎじゃないのか。安藤、オブラートって言葉知ってるか? 酷すぎるにもほどがあるだろ。いつも俺のこと、そんなふうに思ってたのか。性格悪すぎだ、この野郎が」
大倉は安藤の頭を叩くようにガシガシと撫でた。乱暴な手つき。しかし同時に、その手からは大倉らしい優しさが残っている。
「……でもさ。それを聞いても、俺はまだお前のことが好きだよ。好きで好きで仕方がない。お前は俺のこの気持ちのことを自分が植え付けた偽物だと思っているかもしれない。植え付けられているからどんなに酷いことを言われても、俺はお前のことを嫌いにならない。嫌いになれないように、そういう風に気持ちを誘導されてるって言いたいんだろ」
「その通りです」
そう答えられた瞬間に、大倉は理由もなく全身から力が抜けて、一瞬倒れそうになった。しかし、歯を食いしばって堪えた。
「やっぱり、そうなのか。そりゃあ、お前自身がそう認めるんだから、実際のところ、そうなんだろうな。偽物の気持ち。そう、思い込まされてる、か……」
大倉は、安藤の身体に頭をぐりぐりと擦り付けながら小さく唸っていた。何かに抗うように。
「お前の言うことを否定するつもりはないよ。この気持ちが、その、偽物じゃないなんてさ。そもそも、お前にいいように扱われて玩具扱いされてる俺が、どんな言葉で否定したってお前からすれば説得力は皆無だろうしな。でもさ、俺は思うんだよ。なんて言えば良いのかな」
大倉は、言葉を選ぶように、少し考えてから続けた。
「本物か偽物かどうかなんて、俺にとって何の意味があるんだろうって。それってそんなに重要なことか?」
「十分、重要なことだと思いますよ」
「でも、今この瞬間感じている気持ちは、俺の気持ちじゃないか? だって、俺はひとつも嘘なんてついてない。安藤のことを好きだと思う気持ちも、俺の中に入ってしまった以上、もう他の誰の気持ちでもない。こんな言葉だけじゃ全然足りないのは分かってるよ。けどなあ、安藤。俺のことをもう少しだけ、信じてもらうことはできないか?」
「信じる?」
安藤は怪訝そうに眉を顰めてみせた。
問いに応えることなく、大倉は自分のペニスにコンドームを外した。その白濁した内容物の重みを大倉は少し愛おしく感じた。それは安藤のペニスを咥えながら垂れ流した我慢汁と、安藤のことだけを考えて射精した精液。どちらも安藤への愛情の証以外の何物でもなかった。
「安藤さ、お前こういうの好きなんだろ。俺の体液っていうの?」
「はい。好きですよ」
大倉は手に持ったコンドームを安藤に手渡した。
「やるから好きにしろよ。俺に飲ませたいっていうなら飲むよ。確かお前、……お前、前にも俺に、俺の精液飲ませたことあっただろ。思い出してきた。あの時は、確か……全然、なんていうか、自分の精液を飲んでるなんて自覚はなかったはずだ」
「そういう風に思ってもらっていましたから。それで、大倉さんは、自分の精液を、精液だと分かっているのに、その状態でそれを飲めるっていうんですか?」
安藤は、大倉のことを馬鹿にするように笑った。
「なんで疑うんだよ。そもそもお前を俺が裏切ったり嘘をつくわけないだろう。だって俺のことをそういうふうにお前が変えたんだろ? それなら俺の言葉をもっと信用してもいいんじゃないのか?」
俯いて、安藤は少し考えている様子を見せた。
しかし、すぐに顔を上げる。
「それなら飲んでみてください。半分でいいです。飲んでみてください。もちろんこれは命令じゃないです。それにそれは大倉さん、あなたが分泌したあなたの体液以外の何物でもないです。僕はあなたに何も干渉しない。やってみてください」
安藤は突き返すようにコンドームを大倉に渡した。
「別に無理しなくていいですよ。滅多に射精できないから貴重な精液なんでしたよね。貴重な精液なんです。僕になら、ちゃんと美味しく飲めるようにしてあげることもできますから、生理的嫌悪感に無理に抗おうとせず、諦めて構いません」
大倉は、自分の精液を好んで飲む嗜好など植え付けられていない。戯れに飲精させられるときは、それを当たり前のことだと思い込まされるか、もしくは滋養に効く薬であるだとか、好き勝手な理由をつけて、その異常な行為への抵抗感を喪失させられた状態だった。
大倉は目を瞑って、コンドームを唇につける。そして一気に吸い込み煽った。
そして味わうこともなく、飲み下す。喉仏が上下する。
思わず安藤は、目を見開いていた。
「ほら、飲んでやったぞ」
大倉は眉間に皺を寄せながら、中身がちょうど半分ほどに減ったコンドームを安藤に返した。コンドームを返そうとしたときに、自分の唇とコンドームの間に粘液の橋ができていることに気づくと、それも啜ってみせた。
「……どんな気持ちですか?」
「どうもこうもねえよ。お前は、こんなことをいつも俺にさせてんのか? 畜生。しかも俺はまったく気づかず? まったく、お前は本当に性格が悪いよ。ちったあ罪悪感とかないのか」
「でも、今は命令しなかった。大倉さんは、無理に飲むことなんてなかった」
「でも飲んで欲しかったんだろ? 本当にそんなことできるかって、お前は俺を試したかった。だから、俺にそのコンドームを突き返してきたんだろうが。俺はな、少しずつだけど本当のお前のことが分かってきた気がするよ。お前は、いちいち、そうやって人を試さないと、他人からの好意を素直に受け取れないんだろう。その言葉は世辞じゃないのかとか、嘘じゃないのかとか、お前はいつも疑ってるんだ。落胆するのが怖いから、人の心をそうやって誘導してるんだ。そうやって誰も彼もがお前の玩具になれば、そこには本音も建前もなくなるからな。全部、お前の思い通り。お前が欲しいのは裏切らない玩具なんだろ」
「大倉さんは玩具のくせに、随分分かったような口を聞くんですね」
「お前に玩具扱いされようが、俺は間違いなく生きた人間だよ。そもそもの話。だいたい、お前は本当に玩具が欲しいのか? 本当は人間が欲しいのに手に入らないから、俺みたいな玩具を代用品にして、その気持ちを慰めているだけなんじゃないのか?」
「大倉さん。さっきから偉そうなことを言ってますけど、自分の立場を分かってるんですか? ここで話したことなんてすぐに忘れて、元通りの日常に戻すことだって、僕には簡単にできるんです。その時あなたは全てを忘れて、この残りの半分の精液を大好物だと思って飲んでくれます。怖くないんですか? 嫌じゃないんですか?」
「正直、それは嫌だよ」
大倉は、安藤の肩を優しく抱きしめた。
「でも、俺はお前の望むことなら何だって叶えてやりたいと思ってる」
「そう思わせてるのは僕です」
「それは関係ない。だけど、お前が本当に望んでいるのは、俺のことを玩具にして遊ぶことなのか? お前の言っている玩具っていうのはきっと代用品のことだ。忙しくて子供に構うことができない親に、代わりにこれで遊んでいなさいと言われて渡された玩具。それは子供にとって親の代用品にしか過ぎないだろう。本当は親と遊びたい。できないから玩具で我慢する。お前のしていることは多分、それと同じだ。お前は、玩具じゃなくて本物の人間に愛されたいと思っているんじゃないのか? 俺はお前の望んでいることを叶えてやりたいんだよ。お前が、本物の人間から愛されたいのなら、俺は本物の人間としてお前を愛してやりたい。そう思ってるんだ。俺の言ってること、分かるか?」
「……本物の人間」
安藤は、その言葉を何度も繰り返すように呟いていた。
しかし首を振る。
「だけど、無理ですよ」
安藤の語気が少しずつ荒くなっていることに大倉は気づいていた。
「だって、大倉さんは玩具でしかない。本物の人間じゃない。なれっこない」
「俺は自分の意思で、自分の精液を飲んだ。正直、吐きそうだ。それでも俺は玩具か」
「はい、あなたは僕の玩具です。どんなに頑張ろうと、大倉さんは、玩具でいることでしか僕の望みなんて叶えられっこないんですよ。だからもうこんな不毛な話を続けるのはやめましょう。僕ももう段々、疲れてきました。今日はたまたま僕がミスして大倉さんがおかしな考えを持ってしまった。ただそれだけのことなんです。大倉さんは何も気づく必要なんてなかった。すぐに元に戻りますよ。いつもの箱庭に。僕による僕のためのホームオフィスにね」
安藤は自嘲するように笑った。
大倉にはその表情が酷く痛々しいものに思えて仕方なかった。
どうすればいい。どうすれば俺は本当の人間になれる。
どうすればそれが証明できる。安藤に信じさせることができるんだ。
その時、馬鹿げた思いつきが大倉の頭をよぎった。
「証明する」
「え?」
「俺が本物の人間だと、証明する。だから約束してくれ。俺のこの気持ちを、今日のこのやりとりを、記憶を消してやり直そうとするのを止めてくれ。いや、止めてくれとまではいわない。せめて、保留にしてくれ」
「保留……?」
一体何を言っているんだ。
安藤は混乱した状態で、大倉の真剣な表情をただ見ていた。
自分の心を勝手に操作するのをやめてくれと泣き叫ばれた記憶はある。
しかし、保留してくれ。あと少しだけ待ってくれ。先送りにしてくれ。
そんな馬鹿げた懇願を受けたことが今までにあっただろうか。普段なら、そんな願い踏み躙ってやりたいところだったが、その提案は安藤にとって、興を削がれるとしか言いようのないくらい馬鹿馬鹿しい話に思えた。
今だけじゃない。
さっきからずっと大倉は、安藤の興を削ぐようなことばかり言う。
おそらく、植え付けられた感情と本来の自我との、狭間の微妙な位置に今、大倉は存在している。それは安藤が経験してきた中でも、珍しいと言える状態だった。
だからどういう行動を起こすのか、正直に言えば興味がないとは言い切れなかった。
安藤はずっと警戒していた。この危ういバランスの中、大倉がもし完全に自我を取り戻し、自分に危害を加えようとするならば有無を言わさずに再調整を加えられるように。
しかし、今まで安藤が施していた認識の齟齬が次々に解けていって、現状を正しく認識しても、大倉の気持ちは変わらなかった。非人道的な扱いを受けているとはっきり認識しているにもかかわらず、安藤のことを一番に考えている。そう見えた。
そのアンビバレントな状態の大倉と話すこと自体は興味深かった。そして、不本意ながら大倉の言葉に僅かに心を動かされている自分がいることも確かだった。
だから、安藤はもう少し付き合ってやることにしたのだ。
壊れかけた玩具に。
「良いでしょう。その証明とやらで大倉さんが満足するかギブアップするまで、保留します」
「じゃあ、俺が急に記憶をなくして、ゲームオーバーってのは、なしってことでいいんだな?」
「はい」
「それなら約束してもらおう」
そう言って、大倉は小指を突きつけた。
「指切りですか」
「ああ、嘘ついたらお前のことを一本背負いして、今まで散々玩具にされてきた積年の恨みを込めて、全力でこのカーペットに叩きつけてやるよ。覚悟しとけ。痛いし、死ぬほど怖いぞ」
大倉は笑いながら言った。
「分かりましたよ。だけど、投げる前に、受け身の取り方だけは先に教えてくださいね」
「おう任せろ。上手な受け身を責任持って教えるよ。安藤が、怪我しないようにな」
実際に安藤が『保留』を終了するという決断をすれば、二人にはそんな猶予は与えられることもなく、全てが失われて、何事もない平凡な『日常』に戻ってしまうだろう。
二人ともそんなことは分かっていた。
それでも二人は、指切りをして約束を交わした。
「それで。どう証明してくれるんですか?」
無関心を装いながらも安藤は、少しこのゲームを楽しみ始めていた。今までの『日常』のほとんどは全てが予定調和で、こんな日は一度もなかった。もしかしたら、本当に何かが変わるかもしれない。フィクションと分かっていても、ドラマの結末が気になりだすと、次第にテレビに釘付けになっていく。それと同じことだと安藤は思った。
「まず、問題はこいつだな。俺にとって、こいつは違和感の塊だ」
大倉は自分のペニスを掴んだ。勃起を強制されているわけでも、禁止されているわけでもない状態。少し触れるだけで、それは反射的に膨張した。しかし勃起をしてもなお、完全に包皮で覆われている状態だった。
「俺は、チンカスのチェックしてもらうように依頼した。その理由は、俺自身が、自分のチンポの皮を剥く権利がないから。……そうだったよな?」
「その通りです」
「でも、それって絶対おかしいよな。自分のチンポだぞ。なんで自分のチンポの皮を剥くのに権利が必要なんだ。でも、俺のチンポは安藤の所有物だから、それは当然のことで。……考えてると頭がおかしくなりそうだ」
安藤は、黙ったまま大倉が頭を抱えて苦悩する様子を見ていた。
「ここまで考えて、もう薄々気づいていることなんだが、正直に答えてもらっていいか?」
「はい。どうぞ」
「俺の、その、なんというか『認識』……? いや『社会上の通念』? 何かが違うな」
そこまで口にしてから、大倉は閃いたように手のひらを拳でポンと叩いた。
「『常識』。そう『常識』だ。その言い方が一番しっくりくる」
大倉は、確信を深めるように言葉を続けた。
「いわば、俺自身がそれを当たり前だと強く信じていて、深く考えるまでもないこと。一般的に当然のことだと、俺自身が認識している物事、および概念。つまりそれは『常識』ってことだろ? だからお前は、俺の中の『常識』を書き換えているんじゃないか?」
そう口にした後すぐに大倉は、何かに気づいたように考え込んだ。
「なあ、安藤」
「はい」
「もしかすると、俺は自信満々にまったく見当外れのことを言ってるんじゃないか? もし間違ってるなら、俺はものすごく恥ずかしい。お前が、俺を恥ずかしがらせることが好きなのは分かる。でももう俺は、お前が性格悪いのは十分に思い知った。だから、もし間違ってるなら、頼むから意地悪しないで、その、否定してもらえるとありがたいんだが……」
しかし、安藤は答えずに黙ったまま、何かを思案するように視線を彷徨わせ続けていた。
安藤の返答を、大倉は忠犬のように待つしかない。
不意に大倉は「もしかして、これはファイナルアンサーって言わないとダメな形式のやつなのか?」と小声で呟いていた。
それを無視して、安藤は口を開いた。
「いや。正解です。大倉さんの考えていることは、見当外れではありませんよ。概ね」
そう答えながらも、安藤は大倉の様子を注意深く観察していた。
これは非常に危うい質問と、そして回答だ。
どうリアクションするのか全く予想がつかない。
しかしそれは杞憂に過ぎなかった。
「……おっしゃ!」
正解した喜びから思わず大倉はガッツポーズを取っていた。
――喜ぶ大倉の姿を見て、安藤は眉をひそめる。
自分の頭の中が書き換えられている、それを認識したのだ。
なぜ、それを認識してなぜ喜ぶ。理解ができなかった。
普通なら、恐れや戸惑い、あるいは嫌悪。そして憎悪、怒りを抱くべきではないのか?
実際、安藤はそういった『サンプル』を何人も見てきた。大倉の反応はそのどれとも違っていた。頭のネジが緩んでいるのか?
そう考えてから気づく。
いや、違う。おかしいの大倉ではない。
なぜなら、今日までその頭のネジを無理矢理に緩めてきたのは安藤自身であるのだから。
安藤は、自分が今まで大倉を、変質させ続けてきた年月を思い返す。
――五年以上だ。少なくとも五年以上、大倉は異常に晒され続けてきた。
最初からここまで大倉の変質が進行していたわけではない。
安藤のそれは、そんなに便利なものではなかった。
最初は沢山の人間を使って試した。失敗することも少なくはなかった。
だからこそ、大倉に対しては時間をかけてゆっくりと不可逆的に変質させた。
絶対に失敗することのないように計画を立て、それをルーチンとしてこなし続ける。ホームオフィスという環境は、それに適していた。家の中であるというプライベートな空間でありながら、そこに家族以外の他人が存在しても違和感がない。
そして家の中では、何が行われようと、外からは誰も気が付かない。気づかれたとしても、それは問題にならない。夫婦のセックスを覗き見られたとして何が問題になる? 例えば、大倉が射精しようと、家の中というプライベートな空間である以上、それは法を犯すことにはならない。彼が自らの意思で射精を実行し、家内の人間がそれを認めさえすれば、何の問題もない。
夫婦が堂々と家庭内で愛を育むのと同じように、夫婦の愛によって子供が産まれ、すくすくと成長していくように、『それ』はこの小さなオフィスの中で、ゆっくり静かに育まれてきたのだ。
仮に些末な問題があるとするならば、それを実現するための過程が、絵に描いたような非人道的な行為であるという程度の問題だ。
しかし、それを罪だというものがいるのなら、裁けるものなら裁いてみろと、安藤は思う。
人様を洗脳してはいけません。
少なくとも安藤は、そんな教育を受けた覚えはない。
そして、どんなに安藤のことを異常だと叫び続ける人間も、いつかはそれを常識として受け止めることになるだろう。ただの思い違いでした。あなたは何も間違っていません、と。
「つまり、俺が『常識』だと考えていることを疑えばいい、ってことだよな。当たり前を疑えばいい」
「その通りです。基本的には」
安藤の答えに頷くと、大倉は自らのペニスを掴んだ。
ペニスは勃起している。しかし、完全に包皮に覆われている。
大倉はその皮を掴んだまま、動くことができなかった。段々と息が荒くなっていき、身体中から汗が噴き出すのを感じる。肩で息をしながら、それでもなお自分のペニスを凝視し、向かい合っている。
「俺には、剥く権利が、ない……」
ギリギリと歯を食いしばる。ほんの少し指先が動く。
ハンマーで殴られたような衝撃が頭に響いた。
激しい罪悪感。禁忌。
まともじゃない。こんなことをしてはいけない。人間として間違っている。様々な言葉を使って自分自身を否定するように囁く頭の中のそれは、あまりにも正しすぎていた。あまりにも正しい『常識』的な思考。
――俺の気持ちの中に偽物があるとすれば、この感情こそが偽物だ。
大倉は心の中で、一線を越える覚悟を決めた。
同時に身体の中に張り巡らされた糸のような何かがブチブチと音を立てて弾けていくのがわかる。
「俺のチンポは俺のチンポだ。自由に扱って何が悪い。俺が安藤のことを好きだと思って、何がおかしい。愛おしくて愛おしくて、抱きしめたいと感じていて、何が間違ってるんだよ。そんな『常識』なら俺はいらない。クソ喰らえだ!」
絞り出すようにそう叫んだ大倉は、一気に包皮をペニスの根元まで引っ張った。溜まった恥垢の匂いが鼻を刺す。
生じる摩擦感は恐ろしいほどの快感と、同時に強烈な罪悪感で胸を満たしていく。やってはいけないことをやってしまった。まるで貴重な骨董品を落として壊してしまったような、仕事で金額の数字の桁を誤った状態の書類を提出してしまったような、言いようのない自分への失望感が広がっていく。
そんな気持ちはまやかしだ、と開き直ることもできたかもしれない。口でいうだけならば簡単だ。頭で分かっていても、その気持ちはどこまでも巧妙で、リアルで、本心とまったく見分けることがない。
「……やっちまった」
大倉は大きくため息をついた。
自分でペニスの皮を剥いてはならない。
大倉は、今までそれが当たり前で、それに背くことは異常であると心から信じ続けてきた。それを覆してしまったのだ。文字通り、自らの手によって。あまりの罪悪感の深さに、安藤に対して目を合わせることもできなかった。
恥垢に塗れて汚れた自らのペニスをウェットティッシュで拭いている間、大倉と安藤は一言も交わすことがなかった。
貴重なチンカスだ、と大倉は思った。
そういえば、今日はチンカスチェックをまだやってもらっていなかったな。いつもなら、チンカスは貴重なのだから、ゴムヘラを使ってしっかり採集してもらわなければならなかったのに、どうしてウエットティッシュで拭いているのだろう。安藤は残念がっているだろうか。いつも大倉のペニスの包皮を剥いて、大量に恥垢が溜まっていることを確認すると子供のように目を輝かせていた。まさに玩具を与えられた子供のようだった。自分はその楽しみを安藤から奪ってしまったのだな、と大倉は罪悪感を感じながら、淡々と手を動かし続けていた。
以前までの日常の中、安藤が目を輝かせながら大倉のペニスに触れている間、大倉はどう感じていただろうか。思い返そうとするほどに曖昧になる。
恥ずかしい思いをしたような気もするし、それが当たり前なのだからと平然として構えていたような気持ちするし、痺れるほどの快感をもたらすイベントとして、心待ちにしていたような気持ちする。
やはり考えれば考えるほど、その時の感情は曖昧になっていった。
今までその行為を、当たり前のことだと信じて疑わなかったのは事実だ。
しかし、今は当たり前に安藤を喜ばせていたその行為を妨げるように、自らの恥垢をまるでただの汚れのようにウェットティッシュで拭き取っている。
これは本当に、正しいことなのか。
何が正常で、何が異常なのかを、大倉は何度も見失いそうになった。
安藤の顔を見る。ただ無表情に、大倉のペニスを観察している。黙々と自分自身のペニスの汚れを拭き続ける大倉の姿は、傍から見れば滑稽に映ることだろう。
どんなに滑稽だろうがなんだろうが、見たければ好きなだけ見ればいい。
大倉は、かけらも羞恥を感じなかった。
なぜなら、それよりも強い衝動が大倉の中にあったからだ。
安藤のことを思うたびに感じる衝動。それだけが大倉にとって唯一信じられるもだった。そして、それたったひとつに大倉は突き動かされていた。縋るしかなかった。
同時に、その衝動に間違いはないのだという確信もあった。
禁忌を犯した罪の意識は、大倉を真っ黒に塗り潰そうと心の中を広がっていった。
しかし、だ。
取り返しがつかないことなんて今までいくらでもあった。自分は今まで、いくつの大切なものを取りこぼしてきたのか。失うその度に傷つき、傷つくたびに大倉は自分を責めてきた。しかし、自分を責めることと同時に、悔やむだけでは何も変えることができないのだということにも、もう大倉は気づいていた。
もし仮に自分にできることがあるとするなら謝ることくらいだ。
何もかも間違いだったしたら、そのときは謝ろう。心から謝ろう。
それに、もし間違えてしまえば、謝ることすらできずに罪の意識ごとなくなってしまうかもしれない。全てをなかったことにするのだ、と安藤は言った。それならば、思うようにやるしかないとも思う。そんな考え方は無責任かもしれない。
だけど、今だけはそれでいいんだ。
安藤が望むことを叶えてやる。
何が本当で何が嘘かも分からない今、それ以外のことはもう考える意味なんてない。
大倉は顔を上げた。
「安藤」
大倉は安藤の身体をそっと浮かせるとソファに横たえた。その上に大倉は覆い被さり、静かにキスをした。そして優しく抱きしめる。
「俺が今からやること、嫌だったら止めていい。やめろ、と命令していい」
大倉は、安藤のワイシャツのボタンをひとつずつ外していった。首元に顔を近づけて深呼吸した。
「安藤は、俺の匂いが好きなのか?」
首筋に、大倉の鼻息を感じながら、安藤は黙って肯いた。
「奇遇だな。俺も好きなんだ。お前の匂い」
安藤の身体中を探るように、弄るように、大倉の掌が動いていく。その動きに合わせて、安藤のワイシャツはゆっくりと脱がされていく。指先は、インナーシャツの中にも滑り込み、肌に直接触れていった。ゴツゴツした男の指の感触。脇腹から胸へ、その肌の質感を確かめるように、撫でるように移動していく。そして、大倉は安藤のインナーシャツを脱がすと、もどかしいと言わんばかりに自分のワイシャツを荒々しく脱いでいった。途中、ワイシャツのボタンがいくつか弾けて飛んだ。インナーシャツを破れてしまったかもしれない。そんなこと構うものか。呼吸を荒くしながら、自分の安藤のボクサーブリーフを脱がす。まったく同じデザイン。サイズは違う同じボクサーブリーフ。残っていたビジネスソックスも脱ぎ去ると二人は完全に裸になった。大倉は、安藤の身体を全身を使って抱きしめる。腕を回し、足を絡め、胸や腹を押し付け、そして剥けたペニス同士を重ねる。二つのペニスはすでに勃起していた。
「俺だって、お前に触れたかった」
大倉は安藤の胸に頬を寄せて、その心臓の鼓動に耳を澄ませた。少し心拍数が早い。
許可を求めることなく、大倉は安藤の唇を奪った。最初は優しかった舌使いは、次第に荒々しく、激しく求めるような動きに変わっていった。
「俺のことが好きか?」
安藤は答えない。
「俺は、お前のことが、この世界で一番好きだよ。安藤」
指先が、安藤の肛門に触れた。
「嫌なら、命令してくれ。頼む」
安藤は少し視線を迷わせるようにしながら、大倉を見つめた。
「俺には、多分もう止められないよ」
大倉は、先ほど自分が射精したコンドームを取ると、その中の精液を指先にまとわりつかせていく。そして、何度も何度も、塗りたくるように安藤の肛門をゆっくりなぞり、ゆっくりと力を込めて解していった。指先が深く入っていくたびに、大倉は痛くはないか、大丈夫かと何度も何度も繰り返し安藤に問いかける。
十分に解れた後、大倉は残りの精液全てを自分のペニスに流して、それを馴染ませた。十分な潤滑性を持ったそれを、安藤の肛門にぴったりとくっつける。その体勢のまま、大倉はもう一度、安藤の身体を抱きしめた。
「俺のことが、好きか?」
答えは返らない。大倉の勃起が収まることはなかった。
「頼むから、俺のことを好きになってくれ。頼む、頼むよ安藤……」
大倉は嗚咽を漏らした。息は荒く、身体は震えたまま、静かに涙が込み上げてくる。
結局、どんなに頑張ったところで、自分は誰にも受け入れてもらえない。
こんなに愛しているのに、この気持ちが本物だと証明する術すら持ち合わせていない。身体だけが大きく成長しただけのただの無力な一人の男に過ぎない。そう思うと、情けなさのあまりに喉の奥から込み上げてくる嗚咽を抑えることなどできなかった。
「本当に」
抱きしめた胸の中から安藤の声が、身体に響いた。
「本当に、僕のことが好きなんですか?」
「嘘じゃない」
「それが植え付けられた感情だとしても」
「構わない。本物だ」
「僕のことを嫌いになったりしませんか」
「しない。約束する」
「命令しなくても、僕のことを愛してくれますか?」
「命令なんていらない。俺はお前を愛してる」
そう告げた時、安藤はほんの少し身体を震わせたかと思うと、大倉の身体を強く抱きしめ返してきた。まるで迷子の子供が、自分を探し当ててくれた両親に縋るように、二度と離すものかと言わんばかりに、強く強く。
「僕も、大倉さんのことが大好きです。僕のことを好きだと言ってくれた、今の気持ちを大倉さんに失ってほしくない。だけど、僕にも分からないんです。どうしたらいいのか。時間が経てば、大倉さんの気持ちがどう変わるのか、分からない。それが、不安で不安で仕方がないんです。もし、大倉さんが本当の、……女性が好きで、男と抱き合うことすら嫌悪していたころの大倉さんに戻ってしまったら、僕はどうすればいいんですか。もし好きになってしまったら、あなたを玩ぶことなんて、僕にはもうできなくなる。大倉さんのことは本当に大好きです。だけど、あなたの言葉をどうしても信じられない。だって、あなたは僕が、僕のことを好きになるように作った玩具なんですよ。大倉さんは覚えてないかもしれないけど、僕はあなたに酷いことを沢山してきた。それを知ったら、僕のことを愛してるなんて言えなくなる。それだけじゃない、僕はあなた以外の人にも……」
大倉は、唇で安藤の言葉を遮った。
「全部、受け入れる。お前が極悪人でも俺は許してやる。もし、地獄で罰を受けるっていうなら、俺が代わりに罰を受けたっていい。いや、痛いのは嫌だな。それなら、一緒にどこか遠くへ逃げよう。誰にも見つからないどこか遠くの街へ。お前のこと背中に担いだまま、お前が行きたい場所まで、どこまでも走って連れていってやる」
「……僕だって、そうしたい」
大倉は安藤の瞳からこぼれ落ちた涙を拭ってやった。
安藤は目を閉じて、小さく深呼吸した。
「証明してください。あなたが僕の玩具ではなく、一人の人間であることを」
「ああ、分かってる」
大倉は、安藤をまっすぐに見据えた。
「安藤、命令してくれ。俺に、お前とセックスできないように」
涙が止まり、再び目を開いた時、安藤は貫くような眼差しで大倉を見据えていた。
「大倉さん、これは命令です。『僕とセックスすることを禁じます。あらゆる形での性的な行為を禁止』します」
その言葉は、大倉の脳を貫き、突き抜けていった。
「……ハッ……ハァッ……アアッ……」
大倉は全身を震わせて、それに抗おうとする。しかし、どんなに抗おうとしてもどんなに身体を重ね合わせたいと願っても、接触していた肌と肌は少しずつ離れ、遠のいていく。いや、大倉自身が身を引いているのだ。勃起したペニスも、勃起したまま離れていく。抱きしめた腕も、安藤の身体から離れていく。
お前の望むことなら、なんだって叶えてやる。
頭の中で繰り返し、言葉がリフレインする。
命令は絶対。それは安藤が望むこと。安藤の望むことは絶対。
なぜなら、大倉は安藤の幸せを心から願っている。
――先輩、最後に抱きしめさせてくれませんか。
いつかの苦い思い出と同じ味が口の中に広がる。
いっそのこと、お前のことを好きになれる身体で、生まれてこられれば良かった。
全身から汗が噴き出して、滴り落ちていく。
額から垂れて、頬をつたい、顎から滑り落ちる汗の滴。それは安藤の左頬に落ちていった。それは安藤の流した涙に似ていた。なぜそんなふうに思うのだろう。大倉は思う。
それは安藤が、悲しい顔をして大倉を見ているからだ。瞬きしようともせずにじっと見ている。小さく唇を震わせながら。
視線がぶつかる。安藤の瞳には、深い深い失望の色が滲んでいるように、大倉は感じた。
糸ではない。縄でもない。
これは、鎖だ。金属製の硬く太い鎖。
どんなに力を込めても引きちぎることなどできそうにもない鎖。それが身体を縛り付けている。そんな風に大倉は感じた。
何度も何度も安藤の身体に触れようと手を伸ばすのだが、その鎖が強く腕に巻きついて、それ以上、腕を伸ばすことができなかった。歯を食いしばって、込めうる限り、最大の筋力を込めて、その手を伸ばそうとしても鎖はびくともしない。
どんなに力を込めて足掻こうと、そこから血が滲むことも骨が折れることもない。それは実態のない鎖。皮肉にも安藤が、大倉に巻きつけていくつもの鍵をかけ施錠した鎖。
「お前の命令、強すぎるよ。常識なんかと比べ物にならない。詐欺みたいじゃないか」
安藤は、手を伸ばして大倉の頬に触れた。
「だから、言ったじゃないですか。もう十分夢を見させてもらいました」
「おい、諦めるつもりか? 俺はまだギブアップするつもりはないぞ」
「時間の無駄です。これ以上やっても辛いだけです。お互い」
「指切りしただろう。忘れたとは言わせないぞ」
「指切りする前の状態まで巻き戻しますから、約束は無効です」
「反則。卑劣。横暴だ。なんて奴だ。俺はまだ受け身も教えてやれてないってのに……」
「終わったら、また教えてもらえるように頼みますよ」
「そいつは俺じゃない。ただのそっくりさんだ」
「いいえ、違います。そっくりさんはあなたのほうです」
「もし俺がそっくりさんなら、お前はそっくりさんに惚れたんだな。恥ずかしい奴め」
「大倉さん……」
「俺は、インポテンツの気分だよ。屈辱だ。いや、もともと似たようなもんか」
「大倉さんのことが好きです」
「奇遇だな。俺もお前が大好きだよ」
「……」
「鎖は、金属でできているんだ」
「なんの話ですか?」
「お前の作ったこの忌々しい鎖の話だよ」
「ああ……」
「この鎖は、実際にお前のイメージが投影されているのか?」
「いえ。命令による拘束力を、大倉さんがそうイメージとして捉えているだけです」
「今までは、糸や縄だったんだ」
「縄? 大倉さん、それを千切ったんですか?」
「必死だったんだよ。気づいたら千切れてた」
「馬鹿力ですね」
「それしか取り柄がないからな。物覚えも悪くて、仕事もポカしちまうし」
「言いにくいんですが、そのポカの原因は大体、僕のせいですから気にしないでください」
「そうなの? なんだ、俺がポンコツだったわけじゃないのか……」
「大倉さんの焦ってる顔が好きなんです」
「今が人生で一番、焦ってる」
「だから、こうして話しながら見てるんです。大倉さんの焦ってる顔を、ずっと」
「楽しんでもらえてるなら幸いだよ。楽しみながら、もう少し待っててくれ」
「本当なら時間を忘れて眺めていたいです。一日中」
「一日中か。一日中チューしてようか。晴れた休みの日に。俺ん家に泊まってさ」
「それ、いいですね」
「飯も食わずに、ずっと抱き合って、それからセックスして何枚もコンドーム使ってさ」
「大倉さんの匂いが染み付いたベッドの中で」
「残念だが天気の良い日に干して消臭だ。準備万端にしておく。部屋の片付けもしないとな」
「片付けなら僕も手伝いますよ」
「それならいっそ、一緒に住もうか。俺たち恋人になろう」
「僕は大倉さんの彼氏になって、大倉さんは僕の彼氏になるわけですか」
「そうだ。デートもいこう。外で手を繋いで歩こうな。堂々と。俺は恥ずかしくないよ」
「……」
「泣くなよ、男だろ。まるで俺が泣かせたみたいじゃないか」
「大倉さんが泣かせてるんじゃないですか……」
次から次に瞳から零れ落ちる安藤の涙を、大倉は拭ってやった。
肌が触れてから、大倉は気づいた。あんなに力を込めても少しも緩まなかった鎖は、大倉の行動を許している。鎖がなくなったわけではない。
「そうか。涙を拭うのは、セックスじゃないよな」
そのままの勢いでどうにか安藤を抱きしめられないかと試みたが、すぐに大倉は鎖の拘束を再び受けて、安藤から引き剥がされた。
奇跡が起こるとしたら今しかないだろう。
もし神様がいるとしたら、ここで起こさずしていつ起こすんだ。なあ。
大倉は願った。
神が存在していて、その願いに応えて、その奇跡をもたらしたのかは定かではない。
しかし、大倉の脳裏に、不意に子供の頃の断片的な記憶が蘇った。
硬く錆びついた自転車。
油を差しても硬くて硬くて、車輪が回らない。
ねえ、大倉くんの力なら、回せるんじゃないの?
サドルの位置を少し高く調整して、ペダルに足を乗せる。
そして力一杯踏み込むと、車輪は回った。
しかし、同時に錆び切ったチェーンは音を立てて弾け飛んでしまった。
自転車は、宙を舞う。
大倉は、大きく転倒して、大怪我を負うことになった。
そうだ。
あのとき、チェーンは千切れた。鎖は千切れる。
その千切れた断面が、大倉の目には強く焼き付いている。
「酸化還元反応とは、化学反応のうち――原子やイオン――電子の授受が――」
大倉は窓際の席に座っていた。
「金属の腐食とは、主に酸化還元反応の結果、金属が酸化――」
これは学生時代の記憶だ。
授業中、空を眺めていた。雲が浮かんでいた。
「――孔食といい、防食皮膜に欠陥があった場合、その箇所から腐食が起こり、孔状に――」
脱線好きの教師で、話が長かった。
机の上のノートには、まだ何も書かれていない。
あの自転車のチェーンも、酸化していたから錆びていたのか。
いつの間にか、大倉のノートには『応力腐食割れ』と書かれていた。
自分の書いた文字だ。気まぐれに書いただけの雑な殴り書き。
次に、『材料』『環境』『応力』。
いや、待て。こんな授業を受けた記憶はないはずだ。
それなのに、鮮明に教師の言葉が耳に奥で反響している。
「まず、材料について。『応力腐食割れ』は、純金属では発生しない」
大倉は、自分の腕に絡み付いた鎖を見る。素材は何でできているのだろう。安藤はこれは大倉のイメージに過ぎないと言った。
ならばこれは、ステンレス製の鎖だ。
ステンレスは、鉄とクロムの合金鋼。
純金属ではない。
「次に、環境について。一般的に錆びないとされる金属も、実際には条件次第で腐食する。例えば、ステンレスは塩化物イオンの影響を強く受ける。とはいえ、不動体皮膜といって――」
ステンレスは、塩化物イオンの影響を受けて腐食する。
ノートには、大倉の書いた文字で、そう書き足されていた。
「塩化物イオンは、食塩の主成分である塩化ナトリウムが水に溶解した時に生成する陰イオンで、――おい。大倉、お前ちゃんと塩分は取ってるのか?」
戸棚のタブレットは切れていて、塩分補給できなかった。
だから大倉は、安藤のペニスを借りた。
なぜなら塩分補給は、チンポをしゃぶって代用できる。
それが大倉にとっての『常識』だった。
「――ですから、特に我慢汁や精液には塩分が含まれているため、それを摂取することで熱中症対策をするということに、大倉さんはそれを飲み込むことになんの違和感も抱きません」
これは安藤の声だ。記憶には残っていないはずの安藤の声だ。
もう随分前に聞いた言葉のような気がする。
その瞬間、ピンと身体のどこかで糸が張り詰めるのを感じる。
糸が切れる寸前のあの感覚だ。
この糸は切ってはいけない。
大倉は本能的にそう思った。慌てて張り詰めた糸の張力を大倉は弛めるように集中する。
そして目を瞑り、その糸を手繰り寄せていく。全てはイメージに過ぎない。
指先に捉えたそのイメージの糸は、実際に摘んでみるとかなり柔軟に伸び縮みする丈夫な素材でできているようだった。本気で力を込めれば、なんとか切ることができるかもしれない。しかし、軽く引っ張った程度では、とても切れそうになかった。
大倉は、それを伸ばして鎖に巻きつけた。
――塩化物イオン。
大倉の掌には、ローションがわりに使った精液がこびりついている。
勃起したままのペニスから大量に漏れている我慢汁も大倉は手に取った。
「最後に応力」
教師は言った。
「引張応力は、引張力が部材内部に生じる力。引張力というのは、文字通り部材を伸ばす力のことだ。物理学では――」
大倉は、精液と我慢汁に塗れた掌で鎖を掴んだ。呼吸を整える。
耳の奥ではまだ教師の声が、聞こえ続けている。
「いいか、材料、そして環境、応力。この3つの要素が揃った時、応力腐食割れは発生する。そして、よく聞け。逆にいえば、応力腐食割れは、部品に引張応力が加わり、特定の腐食環境に晒された時、その部品が割れる現象だ。そして引張強さの――、いや授業はもう十分だろう」
そうだ。もう十分だと大倉は思った。
理屈なんて関係がない。全てはイメージに過ぎない。こじつけでも構わない。
この忌々しい鎖を引きちぎる『道理』さえ、イメージに繋がれば。
"Don't think. Feel."
大倉の掴んだ部分から、鎖全体に腐食がみるみるうちに広がっていく。
大倉は思う。今まで散々、ありえないようなこじつけを植え付けられて、それを信じ込まされて生きてきたんだ。根拠のない理屈を受け入れる程度、自分にとっては難しいことでもなんでもないはずだ、と。
「精液と我慢汁に塩化物イオンは含まれる。鎖はそれによって腐食する」
「……大倉さん?」
「そして、俺の身体にはそれを引きちぎるだけの充分な筋力がある。これが俺の『常識』だ!」
大倉がそう叫んだ瞬間に、鎖に巻き付けておいた糸は、まるでピアノ線のような金属製の糸に姿を変えた。それは自らの意思を持つ蛇のように、際限なく伸び続けて鎖全体に巻きついていった。
そして大倉が力一杯に身体中の力を込めると、まず両手で掴んでいた部分が引きちぎれる。次に蛇のように絡みつく糸が一気に張力を増したかと思うと、鎖全体をバラバラに引き裂いていった。
全身の力が抜けていく。
大倉は、安藤の身体の上に折り重なるように倒れかけ、自分の体重が安藤を押しつぶす前に片手で自分の身体を支え、ギリギリの体勢でそれを凌いだ。息も絶え絶えになりながら、安藤の唇に自分の唇を重ねる。
「……もう、これで俺は玩具じゃないな。命令しても、止めても、無駄だからな」
「そこまでやっても、変わらないんですか? どうして」
「お前こそ、往生際が悪い。まだ信じないのか。それとも俺のことがそんなに嫌いか?」
安藤は首を振った。
そして返事をする代わりに、自分から唇を重ねた。
固く勃起した大倉のペニスが、安藤の肛門にあてがわれる。そしてそれはゆっくりと奥へと繋がっていった。ただ、満たされるという気持ち。自分の欠けた部分が補われていくような、そして相手の空いた部分に自分が埋まっていくような、そんな満ち足りた感覚。汗だくの身体同士を、二人は感じ合った。
大倉は安藤のペニスを握ると、腰を動かすリズムに合わせて、それを扱いていた。言葉はなくとも、身体の動きや、息遣い、体温。それらを感じるだけで、お互いの気持ちが手に取るように伝わった。大倉は、常に安藤を気遣う。どんなに自分が興奮と快感の波に押しつぶされそうになっても、決して独りよがりにはならなかった。
大倉は、愛してると何度も囁きながら、安藤の身体中に唇を寄せた。どう抱きしめられて、どうされることを望んでいるのか。それを探るように、ひとつひとつ試していった。
絶頂が近づいていることを、二人は感じていた。狭いソファの上で、ここは他人の家の中。さらには職場で、そばには上司もいる。異常で歪んでいるとしかいえない状況の中でも、信じられるものを見つけられたのかもしれない。そしてそれは、射精のように短く、一瞬の快楽が引き起こしたまやかしに過ぎず、すぐに失われてしまう何かなのかもしれない。そしてそれを掴む取るための権利を安藤は持っていないのかもしれない。それでもいいと思った。ただの人形遊びにすぎないのかもしれない。それでもいいと思った。
「ハァッ……ハァッ……そろそろ、出してもいいかな?」
「……ハァッ、そういうときは宣言する、もんでしょ。出すぞ、って」
「ハァッ……玩具生活が長かったことの、弊害かな……」
「……一緒に、射精したい」
「分かってるよ」
分かってる。ちゃんと分かってるから。
大倉はそう言いながら、安藤のペニスを扱く速度をゆっくりと早めていった。安藤もまた、大倉の身体中を弄り、改めてその弾力を独り占めできる喜びに震えていた。本当に欲しかったものを、安藤は身体中で感じていた。
カーテンの隙間から、陽射しが漏れている。
その眩しさに目を覚まし、きっとその隣には大倉が大きないびきをかいて眠っている。一日中セックスをして、沢山のコンドームを使って、汗だくのまま疲れ果てて眠りにつくのだ。そんな毎日が続いていく。そんな日常が続いていく。
そんな安藤の脳裏に浮かぶ白昼夢は、射精による強い快感とともにゆらゆらと心地よく揺らめいた。そして、安藤が射精するのと同時に大倉が腰を安藤の身体に強く押し付け、まるで痛みを堪えているかのように、身体を震わせているのが分かった。汗の滴が落ちる。
射精を終えたあと。それでも大倉は、強く強く両腕で安藤の身体を抱きしめ、決して離すことはなかった。もしその腕を離したとしても、きっと何も失うことはもうない。
了