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「マットマン、僕はとても悩んでいるのです。聞いてくれますか?」

 少年は、マットマンの顔を覗きこんだ。

 肌と肌とが触れ合うのではないかと思うほど、間近に少年の瞳がある。少年の少し生臭い吐息がすぐ近くに感じられる。

「マットマン。マットマンなら僕の苦しみを分かってくれますよね。ヒーローはいつも子供たちの味方だって、言ってくれましたよね。小さいときに握手してくれましたよね。憶えてます。今でもよく夢に見ます。昨日もマットマンの夢を見ました。中学に入ってから、僕はずっとマットマンのことばかり考えています。授業中も通学中も宿題をしているときもご飯を食べているときも。だから誰も僕に口を聞いてくれなくてもちっとも寂しくなかった。苦しいことや悲しいことがあっても頑張れたんです。マットマンのおかげです。ありがとう。ありがとう、マットマン。やっぱりマットマンは僕だけのヒーローです。大好きです。僕は昔からマットマンの大ファンなんですよ」

 うわごとのようにつぶやき続ける少年の瞳は虚ろで、ここではないどこかを見ているようだ。マットマンは彼の腕に残っている紫色の痕を見逃さなかった。

 注射痕だ。恐らく彼は何らかのドラッグを注射している。マットマンにはそのドラッグに心当たりがあった。最近、相次いでいる違法薬物の被害。このあたりの中高生に急速に流行しているドラッグだ。

 マットマンは、ちょうど今日もそのドラッグについて調査をしているところだったのだ。聞き込みをしている最中に、意識をなくし、気が付いたらここにいたのだ。

「この縄を解いてくれないか」

 マットマンは、少年を刺激しないようにできるだけ優しく言った。しかし、少年はその言葉に敏感に反応を示した。

「どうしてそんなことを言うんですか。僕のことが嫌いですか。僕のことが信じられないんですか?」

 マットマンを見つめる少年の目は血走っている。呼吸が荒く、ハアハアと吐息がマットマンの鼻先をくすぐる。

「君のことを信じている。だからこの縄を解いてほしい。お願いだ」

 なるべく気持ちを込めて、少年に切実にそう訴えかけるのだが、彼の耳にはその言葉は届かないようだった。

「僕はひょろひょろしてるから、押されただけですぐに転ばされちゃうんだ。マットマンみたいになりたくて、マットマンがCMしてるソーセージを小さい時からずっと食べてます。マットマンみたいに、筋肉もりもりになってみんなを見返してやるんだってずっと思ってた」

 少年は、ナイフをマットマンの腕に当てると、器用に身体に纏うスーツだけを切った。少年は近くにあったガムテープを乱暴に引きちぎると、マットマンの口に貼り付けた。

「嘘つきの言葉はもう聞きたくないよ。マットマンは嘘つきだよね。これを食べたら、『俺みたいに元気もりもりだ』って言ってたのに。『君もヒーローになれる』って言ってたのに。マットマンみたいに、マッチョになってみんなを見返してやれるって信じてたのに。嘘つきだよね」

 手首の部分が輪切りにされ、その切り口から、スーツを丁寧に捲りあげていく。露出した腕に熱のこもった目が向けられる。少年はうっとりとマットマンの腕を撫でた。

「僕の腕とは大違い。お父さんの腕よりも一回りも二回りも太い。本当にヒーローなんだね。すごいよマットマン。かっこいいよ」

 少年は脱脂綿をピンセットでつまみ、オキシドールを含ませた。

 マットマンは、少年の行動に身を固くした。彼の考えが、ようやくマットマンにも分かったのだ。

 少年は、マットマンの露出した腕の皮膚に、湿った脱脂綿を擦りつける。慣れた手つきで何度も何度も擦りつける。

 マットマンは首を振り、抵抗するのだが、手足は鉄製の椅子にがっしりと革のベルトで固定されており、動かすことはできない。それどころか、動かそうとするたびにギリギリとベルトが肉に食い込み、手足が千切れそうなほど痛む。

 少年はアンプルに注射器を差し込み、琥珀色の薬剤を吸い上げる。少年の目は爛々と輝いていて、まるで新しいおもちゃを前にした幼い子供のようだ。

 狂っている、とマットマンは思った。

 いくら鍛え上げた筋肉をこわばらせようと、皮膚に刺さろうとする注射針を阻むことはできない。腕に鋭い痛みが走る。やめろ、と訴えようと少年は止まらない。シリンダの中の液剤が、血管を伝い、マットマンの身体の中に取り込まれていく。マットマンは絶望した。

 効果は思っていたよりもすぐに現れた。

 ピリピリと電流が走るような刺激が、足先から背骨を貫く。目の焦点が定まらない。しかし、視界は異常なほどクリアに見える。

「なんだ、これは……」

 どうなってしまったのか。思考が途切れ途切れになる。集中していないと、意識が飛んでしまいそうだった。

 先ほどまで感じていたはずの、不安も絶望も、使命感すら、希薄に感じられるほどの濃密な幸福感。圧倒的な心地よさに、身体中の力が抜ける。それは、数秒ごとに波が打ち寄せるように連続して爆発する。

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