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 僕は義兄のことが嫌いだった。

 物心つく前に父親は失踪した。母と姉という女系家族の中で暮らしてきた僕にとって、姉の夫、つまり義理の兄は唯一の男兄弟であり――。

 ともかく苦手だった。

 

 姉が増淵姓となったのは、ちょうど僕が中学二年の頃だった。

 社会人になりたての姉は、以前から交際の続いていた増淵康之と結婚した。金銭的な問題もあったのか、僕に理由は分からないが結婚式はしなかった。

 

 姉と増淵は、とある居酒屋チェーン店で知り合った。

 増淵は店長で、姉が大学時代にその店でバイトを始めたことがきっかけで出会った。店長が従業員に手を出したというと人聞きが悪いかもしれないが、所詮、増淵も雇われ店長で、姉がバイトを始めてからすぐに別の店に異動することが決まった。

 異動する増淵のために簡単な送別会を開かれたそうだ。その日に酒の勢いもあってそういう関係となったらしい。詳しくは知らない。

 

 聞きたくないから聞いていない。

 増淵がその店を離れても、姉がバイトを辞めて就職しても、二人の交際関係は続いた。

 交際している間、増淵は何度もうちの家に遊びに来ていた。母からしてみれば、もう家族のようなような気持ちだったのだろう。だから、いざ結婚すると決まったときも母は喜んでいた。

 客商売をしているからか、増淵は、良く言えば社交的で大らかで明るくて、少しガサツなところがある。男兄弟の居ない僕にとっては、どう接していいか分からない存在だった。

 特に当時は、僕も思春期真っ只中で、彼に対しては複雑な気持ちでいた。そんな気持ちを察していたのかいなかったのか、増淵は僕に対して積極的にコミュニケーションを取ろうとしていた。一緒に風呂に入ろうだとか、山に登ろうだとか、海に行こうだとか。姉抜きで、僕を遊びに行こうと誘うのだ。

 

 僕と増淵は、一回り以上も年齢が離れている。

 僕にとって彼は、兄というよりも――。

 

 ともかく『家族』になろうと、積極的に接してくる増淵に対して、僕は言葉では言い表せない複雑な気持ちを感じていた。それを一言で言い表すならば、『嫌悪』だ。

 

 一度、姉に聞かれたことがある。

「康之のこと苦手なの?」

 僕はその質問に答えずに、無視して自室に籠った。増淵が帰るまで、一人でずっとゲームをしていた。薄い団地の壁越しから聞こえてくる家族の団欒。増淵の声。姉と母の笑い声。

 僕は、増淵も嫌いだが、姉も好きではないし、それに母のことも嫌いだった。

 

 みんな嫌いだった。

 

*

 

「入ってもいいか?」

 ドアの向こうから聞こえてきた声に僕が答えずにいると、「開けるぞ」と言ってから、ドアを開いて、増淵は僕の部屋に入ってきた。許可した覚えはないと意味を込めて、一度だけ視線を送る。そして、再び小さなテレビのスクリーンの中を動き回るキャラクターの動きに、僕は夢中になっている振りをした。

 

「面白そうだな、そのゲーム」

 そんなことを言いながら、増淵は立ったまま僕の部屋を見回していた。

 僕は自分の鼓動が早くなるのを感じながら、早く出て行ってくれと願っていた。だけど、そんな風に感情をぶつける方法も、冷たく接する手段も、僕には分からなくて、ただ黙り込むことでしか自分の意思を表示することができなかった。いや、意思なんて表示できていなかったのかもしれない。

 

「へえ、こんな本も読むんだな」

 

 本棚を覗いていた増淵が、僕の本に手をかけようとしているのを目の端で捉えた。

 

「――触るな!」

 自分でも驚くほど大きな声が出てしまって、僕は内心、しまったと思っていた。心臓の鼓動がどんどん高まって、顔が熱くなるのを感じる。

 増淵は少し戸惑った様子で、両手を挙げる。まるで冤罪を主張するように、そのポーズを取ったまま、少し困ったように微笑む。そして「すまん」と一言謝ってから本棚を離れる。

 

 廊下をどたばたと走るような音がしたかと思うと、姉が心配そうな顔をして、ドアを開けて顔を覗かせる。

「どうかした?」

「いや、なんでもないよ。俺がちょっと勝手に部屋のもの触ろうとしただけだから」

 穏やかな声色で、増淵は姉を安心させるように声をかける。

 

「……出ていってよ」

 僕には、そう言うことしかできなかった。これ以上、増淵が側に居られると僕はまた大声を上げてしまうかもしれないから、少しでも距離を置きたかった。

「悪かった」

 増淵はそう言って、部屋を出ていこうとする彼を僕はゲームをする振りをしながら、ずっと目の端で追っていた。増淵は僕の机にそっと何かを置いて、姉と僕の部屋を出ていった。

 

「合格おめでとう」

 部屋を出る前に、僕にそう一言言い残して。

 

 我に返ってテレビを見ると、ちょうど僕の操作していたキャラクターが廃墟の中でゾンビに噛み殺されて、画面が暗転したところだった。

 

 机に置かれていたのは、丁寧に包装された袋だった。

 袋を開けると中には、僕がずっと欲しかったヘッドフォンが入っていた。僕は袋ごとそれを胸に抱きしめる。微かに増淵の匂いがするような錯覚を感じながら、しばらくそうしていた。増淵は、きっと姉から僕の好みを聞いたのだろう。姉から聞いて、プレゼントを贈れば、僕と距離を縮められると思って。だって、そうすれば姉が喜ぶから。

 

 僕は義兄が嫌いだ。

 姉を気遣って、姉のために僕と仲良くしようとする義兄が嫌いだ。

 義兄を独り占めする姉が嫌いだ。

 義兄を気安く家族に迎え入れた母が嫌いだ。

 

 そして、一番嫌いなのは、増淵を好きだと認められない自分自身だ。

 

 本棚から本が落ちる。先ほど、増淵が戻し損ねたのだろう。

 それは、あるプロラグビー選手の自叙伝だった。スポーツになんて全く興味のない僕の本棚にひっそりと差し込まれていたその本は、僕にとって一番触れられたくないものだった。だから、触れられたとき、僕は思わず声を荒げてしまっていた。

 なぜなら僕は、その本を読みながら、差し込まれる写真を見ながら、何度も何度も僕は――。だから、そんな本を増淵に触れてほしくなかった。増淵まで穢してしまうような気がして嫌だった。穢れきった僕の性欲の象徴。増淵だけには触れさせたくなかった。

 

 しかし、学生時代、ラグビーをしていたという増淵がその本に興味を持つのも当然のことだろう。だけど、増淵と僕とでは『違う』のだ。

 何もかも違うんだ。

 

 姉夫婦を玄関から見送る母の声が、部屋のドア越しに聞こえていた。

 僕はベッドに横たわって、増淵の顔を思い浮かべる。初めて家に連れてきたときから、馴れ馴れしくて、少し苦手だった。図体は大きくて、姉と比べるとまるで子供と大人くらい体格が違って、僕よりも身長がずっと高くて、男手のいないうちに困りごとが起きるとすぐに来て、嫌な顔ひとつせずに何とかしてくれる。こんなのお安い御用ですよ、なんて言って笑って力仕事を引き受けてくれる。女性である姉や母と違って、すごく力が強くて、汗っかきで、男性特有の身体の匂いがして、決して不快なものじゃないんだけど、それは僕が知らない臭いで。

 

 昔は僕も増淵に対して、もっと素直に笑って話せていたような気がする。

 それが出来なくなったのは、僕がもう子供ではなくなってしまったからだ。

 

 携帯電話が震える。

 ベッドに顔を伏せたまま、液晶に視線を送る。増淵からだ。

 

 "さっきはごめんな。ナオくんもラグビー興味あるって知らなかったから思わず(^_^;)“

 既読。

 

 "進学祝い見てくれたかな?”

 既読。

 

 "一応俺なりに悩んで選んだつもり。気に入ってくれると嬉しい"

 既読。

 

 "多分、俺はナオくんに嫌われてるんだって分かってる"

 既読。

 

 "だけど、仲良くできたらと思って。つい馴れ馴れしくなって、いつも帰ってから反省してるんだけど、本当に学習能力ないよな。ごめん"

 既読。

 

 僕は、携帯を伏せる。

 ――増淵は悪くない。悪いのは僕だ。

 どうして僕は男に生まれてきたんだろう。

 

 いや、違う。そんな問題じゃない。

 増淵と出会って、彼に愛されたのは僕の姉なのだから。その愛を受ける権利を持っているのは、その力強い肉体の全てを独り占めできるのは、逞しい身体に抱かれることを許されるのは、姉一人だけなのだから。

 それは僕が女性として性を受けていようが、もっと社交的な性格に生まれていようが、どういう風に生まれようが何も『変わらないこと』だ。

 

 僕は、もう一度携帯を手に取る。

 "進学祝いありがとう。大切にします"

 既読。

 

 "それと、康之さんのこと嫌いじゃないから"

 既読。

 

 "ごめん"

 再び携帯を伏せる。

 心臓が脈打っているのが分かる。

 

 どんなに願っても叶わない願いはあるし、知られてはいけない思いもある。それを隠して増淵と触れ合うことは僕とって、とても苦しいことだった。だけどそろそろ認めなきゃいけない。そうやっていても『変わらないこと』はあるのだということを。

 

 それこそ、世界がひっくり返らない限り――。

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