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 増渕は我に返るとすぐに脱衣所に引き返す。不審者の男は未だ同じ場所で増渕の下着を漁っているようだった。

「すぐに警察を呼んでやるからな。……それから、いい加減に俺の下着を嗅ぐのをやめろ。気色悪い奴だな……」

 男はしぶしぶといった様子で、下着を手放すとズボンのポケットに両手を突っ込んだ。

「妙なことを考えるなよ。……両腕を上げて、おとなしくしろ」

 男は薄ら笑いを浮かべながら手を挙げる。

「馬鹿野郎。もっとだ。もっと高く伸ばせ」

「具体的にどのくらい手を高く上げたらいいんですかねえ。これでも精一杯上げてるつもりなんですがねえ」

 男のふざけた態度に増渕は苛立ちを隠さそうともせず、自分の両腕を高く掲げて見せた。

「こうだよ。肘を曲げずにピンと腕を高く掲げろと言ってるんだ」

 再び僕と男の目が合う。

「ああ、なるほど。よく分かりました」

 増渕が両腕を高く掲げたのを見ると、男は反対に両手を下げ、目を細めて太い腕をまっすぐに伸ばし、無力であることを強調し続ける増渕を観察する。増渕はそんな男の様子を見ても、特にこれ以上、問答を続けるつもりはないらしい。果たして彼は、両手をあげておとなしくさせられたのは自分のほうだと理解しているのだろうか。

「立派な腕ですねえ。何か運動をしているんですか?」

「お前に答える義理はない」

「そうですか。ところで、その両腋のシミはなんですか? まさか……腋汗じゃないですよね?」

 再び僕と男の目が合う。

 

「わ、腋汗なわけがないだろう!」

「本当ですか? それなら直接、調べさせてもらってもいいですか?」

 そういって男が増渕に近づこうとすると、増渕は分かりやすく狼狽えてみせる。男なのだから汗くらいかいて当然だ。何をそんなに慌てる必要があるのだろう。

「や、やめろ。いったい何の権利があって――」

 その言葉を待っていたように、男はじらすようにポケットの中から警察手帳を取り出す。

 

「け、警察……」

「そうです。そしてこちらが捜査令状です」

 

 同じポケットから四つ折りにされた紙を取り出し、綺麗に広げて見せる。

「所属を見てもらえますか? 公安課、同性愛者特別保護局、男脂臭検挙係」

「男脂臭……」

「ニュースなどでもご存知ですよね。同性愛者特別保護法」

「同性愛者に対して、誘惑するような言動を取った異性愛者は、罰せられるという、やつ……ですか?」

 

 男が警察だと判明した途端に、増渕の怒りは急速に萎んでゆく。

 

「そうです。そんな感じの法律です。で、私は男脂臭を専門に捜査する刑事です。だから、言ったでしょう。私にはあなたの下着を嗅ぐ正当な権利があると」

 その言葉に狼狽する増渕を見て、男は噴き出すのを必死でこらえている様子だった。

「し、しかし、お前……いや、あなたが本当に警察だという証拠は……」

 その瞬間、タイミングよく増渕の携帯が着信する。

 男にどうぞと促され、増渕は右手だけを下ろし、携帯を取り出すと右耳にあてた。

「良かった繋がって。今、警察の方と連絡が取れて、問い合わせてみたら、うちに公安課の刑事さんが令状をとって捜査しに来てるっていうのよ」

「……ああ、俺も今、それを直接聞いた」

「でも、あの人、どこか怪しい雰囲気だったから本当に警察なのか心配で……、それで名前を確認してみたの。名前は内田啓介。所属は同性愛者特別保護局、男脂臭検挙係っていうらしいんだけど、本人か確認できる?」

 増渕は携帯を耳にあてたまま、視線を男に移す。

「奥さんからですか? どうです、僕が警察だって信じてもらえましたか?」

「……その前に苗字と名前を聞かせてもらっていいですか?」

「内田啓介です。警察手帳も良く確認してください。間違いなく本人ですよ」

 

 増渕は警察手帳に書かれた文字と写真を確認すると、疲れたように頷くと、再び携帯電話に向かう。

 

「ああ、名前も間違いない。本人だと思う」

「良かった! 警察の捜査と不審者の侵入が同日に起こるなんてそんなことあるわけないし、普通に考えて、あの人は警察だったって考えるのが妥当よね? 私たち早とちりしちゃったみたいね。そうそう、捜査にはまだまだ時間がかかるっていうから、私は警察の方に用意してもらった宿泊施設で一晩過ごすことになったから。心配しなくても平気。なんだか気が抜けちゃって、急いで警察を呼びに行ったのに不審者だなんて勘違いして。まさか目の前に警察官がいたなんて馬鹿みたいな話よね。じゃあ、康之さん。すぐに身の潔白を証明して、刑事さんには帰ってもらってね。そうそう、洗濯もの溜まっちゃってるから洗濯機を回しておいてもらえると助かるわ。それじゃ」

 姉は捲し立てるようにそう言い終えると一方的に電話を切った。

 

 増渕は、ばつが悪そうにポケットに携帯をしまうと再び右腕を高く掲げる。

「どうやら、信じていただけたようですねえ」

「はい……。刑事さんだとは知らず、失礼な言動、申し訳ありませんでした……」

 先ほどまでとは打って変わって、申し訳なさそうに増渕は頭を下げた。

「いやいや、増渕さんは悪くないですよ。誤解される方が多いんですよねえ。僕が説明しようとする前に勘違いされちゃって、いやいや、困ったものです」

 

 『不審者』から、『刑事』としてその役割を変えた男は、余裕の表情で笑って見せる。不審者に対する怒りが、国家権力の名のもとに理不尽にももぎ取られる。まるで去勢するように、自分を変態扱いした男をこうして見下すことは、男にとって何にも代えがたい興奮を覚えさせる。

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