PT SideA 01 (Pixiv Fanbox)
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この日本では、ボディビルダーという存在は、入賞経験のある『プロ』であろうと、それだけで飯を食ってゆくというのは難しい。それ故に、プロアマ問わず、ボディビルダーたちは兼業することが一般的だ。
兼業として選ぶ職業は人それぞれだ。もともと職業を持っており、ボディビルダーを趣味で始めたものもいれば、普段は事務業をしながらホームトレーニーとして努力するものもいる。
そんなボディビルダーの中でも、ある程度の知名度を持っており、パーソナルトレーナーを職業として生計を立てることができている芦原義行は、周りのボディビルダーと比べて相対的に見れば、比較的恵まれた環境にいるといえた。
芦原はスポーツバッグを背負いなおすと、マンションを見上げた。
「ここか。なかなか立派なマンションだなあ」
オートロックの玄関を通り、エレベーターの前まで来ると、幸いエレベーターは1Fに止まっているようだった。エレベーターに乗り、階数を指定する。ゆっくりと昇り始めたエレベーターの壁にもたれかかりながら、スポーツバックの中からクライアントの資料を取り出して眺める。
永澤利幸。二十二歳。職業は大学生。
大学生でパーソナルトレーナーを雇うとはいい身分だと思うが、両親が資産家か何かなのだろうか。それならばこんな良いマンションに住んでいることも納得できる。ともかくクライアントのプライベートな事情に口を挟むつもりはなかった。トレーナーとしては、トレーニーがどんな事情の人物であろうと、一度請け負ったからにはそのサポートに徹するまでのことだ。
指定階に到着するとエレベーターの扉が開く。芦原は九〇三号室まで歩みを進めるとインターフォンを鳴らす。扉の向こうから人が歩いてくる気配がしたと思うと、部屋の扉はすぐに開いた。
部屋から顔を覗かせたのは、年相応の体格で、特に言及するような特徴のないどこにでもいそうな顔の男だった。彼が今回のクライアント、永澤利幸なのだろう。
「どうも、この度はパーソナルトレーナーとしてご依頼を受けて参りました、芦原と申します」
芦原は営業スマイルを浮かべて、決まり文句の挨拶を述べると頭を下げる。永澤は、おずおずと小声で「どうも」と囁くように言うと、どこか挙動不審というか緊張した様子で扉を大きく開き、芦原を部屋の中へと招いた。
この様子を見るに話し下手なタイプなのだろう。わざわざ出張のトレーナーを雇ったのは、それが理由だろうか。もしそうだとしたら、うまく信頼関係を築いてゆくのは少し骨が折れそうだな、と芦原は思った。
しかし、出張トレーナーとして、こういうタイプを相手にするのは珍しいことではない。いわゆる人見知りなタイプのクライアントであっても、大半は回数を重ねるごとに自然と少しずつ打ち解けてゆくものだ。芦原はそう楽観的に捉えた。
「一応、簡単なエクササイズができる程度のトレーニング器具は持ってきたんですが、確か永澤さんは自宅にトレーニング器具をお持ちとのことでしたよね。先に拝見させてもらえますか?」
そう尋ねると永澤は頷き、トレーニング用なのだという部屋まで案内してくれた。
「これは、……すごいですね」
部屋を見た芦原は思わず感嘆の声を上げた。部屋の中には、下手なジム顔負けの筋トレ用のトレーニング器具が一式揃っていた。それも1台数十万するようなものも平気で設置されている。
しかし、どの器具もほとんど使用された形跡がないらしく、新品らしい光沢を放っていた。
聞けば、形から入ろうと器具を揃えてみたものの効果的な使い方が分からず、困り果ててトレーナーを依頼したのだという話だった。
「いやあ、これだけの器具があれば十分な強度のトレーニングが可能ですよ。永澤さんは本格的な筋力増量用のトレーニングメニューがご希望でしたよね。今までスポーツの経験などはおありですか?」
予想以上の設備に驚きながらも、芦原は永澤に詳細なヒアリングを進めてゆくことにした。ここで立ち話もなんですからと、別室のソファに招かれ、上品な味の紅茶を片手に話を進めてゆく。時折、どもりながら質問に答える永澤を怯えさせぬように可能な限り優しい声色で、笑顔を絶やさぬよう芦原は心がけながら、トレーニングメニューの作成に必要な情報を集めていった。
「では、さっそくトレーニングを始めましょうか」
永澤はスポーツ経験が特になく、本格的なトレーニングも初めてということだったので、初日は初心者向けに組み上げた簡単なメニューをこなしてもらうことにした。
それにしても永澤の服装は、パーカーにスラックスと普通の部屋着に見える。汗をかくことになるがそのままでも良いのだろうか?
「トレーニングウェアか何かお持ちですか? 多分、汗をかくことになると思うので……?」
そう言っているそばから、芦原は自分が驚くほど妙なことを口にしていることに気付いた。トレーニングをするのはあくまでトレーナーである芦原自身で、トレーニーである永澤が運動をする必要はない。運動する必要がないのだから、着替える必要はないではないか。
むしろ着替えるべきなのは、芦原自身だ。何しろこれから全身汗だくになるまで本気でトレーニングに打ち込まなければならないのだから。永澤からそう指摘され、芦原は頭をかいた。今日の自分はどうかしているようだ。
「すみません、着替えるのは僕のほうですね」
そういって、スポーツバッグの中を探る。何だかバッグの中が散らかっているように見えるのは気のせいだろうか、と少し不思議に思いながら、普段着替えを入れているインナーバッグを弄る。中から出てきたのは愛用している迷彩のタンクトップと、練習用のビルダーパンツだ。
流石に人様のお宅でタンクトップとビルダーパンツ一枚で筋トレするというのも妙な話だ。
「すみません、俺、今日はこんなのしか持ってきてなくて……」
ハーフパンツか何か借りることができないか聞こうと思ったのだが、よく考えてみればできるだけ肌の露出が多い方がトレーナーとして、筋肉の動きを教えやすいのではないか? 普段から大会で晒すことの多い肉体だ。別に今更見せることを恥ずかしがるのもおかしいことだろう。
「この服装でトレーニングしようと思うんですが、構いませんか?」
少しばかり露出が多い恰好のため、嫌がれるかもしれないと懸念していたのだが、意外にも永澤は快く承諾してくれた。
それに少し話して緊張がほぐれてきたのか、永澤の表情が緩んできたように思える。初日からこの調子ならすぐに打ち解けることができるだろうと、芦原は胸を撫でおろした。
ポロシャツを脱ぐと、思ったよりも汗の籠った匂いが鼻について、芦原は顔をしかめた。デオドラントスプレーをしてきたはずなのだが、身体中がどこかべたついているように感じる。汗にしては少し粘り気があるような気がするが、あまり気にしないようにと心がけながら着替えを進める。
ビルダーパンツを履く際は、股下の生地が非常に短いため、万が一にでも性器が露出せぬように念入りにしっかりと中に納まるようにポジションを固定した。幸い、ムダ毛の処理は習慣として済ませてあったので、見苦しくは見えないだろう。
「では、さっそくトレーニングを始めましょうか」
しっかりとトレーニング用に着替えを済ませ、芦原は笑顔でそう言った。