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 何が起こっているのか正直よく理解できなかった。

 そこに居るのは僕の知っている松原先生で、それは誰かが化けた偽物でもなんでもなく本人であることは確かだった。僕の知っている通り、優しい性格で柔和に、少し困ったような笑みを浮かべながら、しかしどうしてクラスメイトである平瀬勝に『絶対服従』しているのか。

 この異常事態に、狭い体育教官室にいるほかの二人の教諭はどうして何も反応せずにスマホばかり眺めているのか。いろいろな疑問が頭の中に浮かんでいたけれど、一つだけはっきり分かるのは、僕も松原先生と同じように、ついさっきまで単なるクラスメイトと認識していた平瀬に逆らうことができないのだという事実。

 理由は分からないし、どうしてそういう結論になるのかその思考の過程すら、自分自身もよく分からないけれど、平瀬の言うとおりにすることが何よりも正しいことなのだと、不思議なことに僕は納得していた。

 だから、意地悪そうな目で僕を見ながら、直立不動の松原先生の顎をまるでペットみたいに撫でながら、その下唇を無遠慮に親指で弄る平瀬の行動に苛立ちを感じながらも、それを咎めることも、どうして先生がそんな物みたいに扱われて嫌がらないのかも、何もかも理解できないまま、ただ何が起きるのかを見ていることしかできなかった。

 

 *

 

 僕には父親がいない。

 死別したわけではなく、家に帰ってこないだけだ。もし帰ってきたら始まるのは耳をふさぎたくなるような家族の口論。それは物心ついてしばらくしたあとからずっと続いているような気がする。だから、僕には実質的に父親は居ないものだと思っている。

 そして、僕は家に帰ることが嫌いだった。

 

 部活に入部することは、母親が許さなかった。いろいろと綺麗事を並べて説得された。説得というほど僕は母親の決めたことに逆らう気持ちなどなかったから、ただ許されないなら仕方ないと頷いただけだ。結局のところ、理由は金銭的な問題だ。

 母親が僕に対して本当に言いたかったのは、生活も苦しいのにこれ以上、僕にお金をかけたくはないということ。はっきりは言わなかったけれど僕はそれを察していた。

 

「放課後に勉強を学校でしたい」

 部活を許されなかったその僕の要望は、母親から返事一つであっけなく許可が貰えた。自習する分にはお金もかからないし、僕ができるだけ家にいないほうが母親はたぶん喜んでいる。思春期の子供を相手にすることが母親にとってはストレスなのだろうと、僕は図書室の本を色々と読んでいるうちに、そういう気持ちを知識として理解することができたから。母親の気持ちについて考えるのは、もうそれ以上必要のないことだった。

 

 一年生のときからずっとそうやって過ごしてきたけれど、僕は友達も少なかったし、担任の先生はいわゆる『ことなかれ主義』というやつで、僕が相談したなら話くらいは聞いてくれただろうけど、基本的に僕の自習には干渉しなかった。干渉されるのも迷惑だと思っていたから、それはそれでちょうど良かった。

 

 環境が少し変わったのは二年生になった時だった。

 二年目の担任は、松原和之という名前の先生で、保健体育の教科を担当している先生だった。いわゆる体育教師にありがちな妙な厳格さとか、偉そうな感じとか、口うるさい感じとか、変に熱い感じもなくて、ユーモアのある穏やかな先生だった。

 

 その日はたまたま図書室が閉まっていて、教室の中で一人自習をしていた。そして同じくたまたま教室に忘れ物を取りにきた松原先生は、放課後遅くまで自習をしている僕の姿を見て、声をかけてくれた。

 

 帰宅部と言えば、授業が終わり次第、我先にと風のように家に帰って放課後に学校にいるのは珍しく感じたのだろう。一年目の時の担任とは違って、松原先生は『ことなかれ主義』ではなかった。

 声をかけられたとき、最初は内心すごく嫌な気持ちだった。僕はただ静かに穏やかに過ごしていたいだけだったのに、もし根掘り葉掘り聞かれて、家庭に干渉されたり、自分の心の中に波を立てられるのは嫌だったからだ。その時の僕は現状に満足していたから。

 

「桝谷。いつもこんな時間まで残って勉強してるのか?」

「最終下校時刻には帰っているので大丈夫です」

 学校に居座って問題を起こすような気はないから安心していいってば。

「家で勉強しないのか?」

「学校で勉強するほうが集中できるので」

 そんなの先生にはどうだっていいだろう。

 さっさと部活に戻って顧問の仕事をしてこいよ。

 

「家に帰りたくない理由でもあるのか?」

 胸がざわつき、少しずつ苛立ちを感じ始めるのが分かる。

「松原先生にとって、放課後に勉強することはそんなにおかしいことですか?」

 これ以上、何か聞かれるなら家に帰ろう。今日はたまたま図書室が閉まっていただけなのだから。明日からは図書室に行けばいいだけだ。

「いや、おかしくない」

 心配は杞憂だった。

 先生はポリポリと頭を掻きながら、時計を見た。

「ただ、夜道の一人歩きは危ないから、気を付けて帰れよ」

 そういって、言いたくなければ聞かないと言わんばかりに少し困ったような笑みを浮かべる。表情には出ていなかったはずだ。けれど、先生の顔を見ていると、そんなことあるはずないとは頭では分かっているけれど、まるで僕の気持ちが漏れ出して先生に伝わっているのではないかという幻想が頭に浮かび、少し心配になった。

 僕が先生の言葉に、そんな気持ちを悟られないようにできるだけ感情を殺しながら「気を付けます」と返事をすると、先生はさっき同じように困ったなあとでも言いたげなように少し笑って、害意がないとでも言いたげに両手をあげるジェスチャーをしてから、「また明日な」と言い残して、教室を出ていった。

 

 ボールのはねる音。硬球が鳴らすヒットの音。グラウンドの喧騒。空いた窓から流れる風が揺らす教室の白いカーテン。黒板に消え残ったチョークの跡。

 松原先生と初めて話した日のことだった。

Comments

mtosak

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