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 その放課後から、僕の放課後は少し変わった。

 時々、いや割と頻繁に。松原先生が僕の前に現れるようになった。

 

 図書館で本を読んでいると、不意に肩に手を置かれる。顔を上げると松原先生がいて、囁くように「頑張ってるな」と小さく声をかける。顧問である柔道部の部活の指導を抜け出してきたのだろう。少しだけ先生は汗をかいていて、いつもは感じない先生の匂いが鼻をくすぐる。そのうまく言えないけど、匂いは男の人の匂いって感じで、普段の僕ならきっと不快に感じただろうけどなぜだかその時は不快に感じなかったし、むしろなんだかもっと嗅いでいたいような、そんな不思議な匂いだった。

 嫌な気持ちにならなかったのは、先生がやることと言えばそうやって一言声をかけてくるくらいで、それ以上に何かを探ろうとしたりとか、何かを変えようとしたりとか、僕のやりたいことを邪魔しようとしたりとか、そういう気持ちが少しも感じられなかったというのもあると思う。

 

 それに先生と僕がそうやってほんの少しだけ、二人きりの関わりを持つのは放課後だけで、日中はいつもと変わらないままだったし、何か特別扱いをされるようなこともなく、僕が求めていた静かな学校生活を壊そうと先生はしなかった。

 

 最初はどうしてそんなことしてくるのかと思ったし、少しだけ、いや結構鬱陶しいなと感じることもあったけど、慣れてくるとそれが当たり前になってきて、松原先生が来るのはもうそろそろかななんて時計を見るようにもなった。

 それは自分でも少し意外な変化だった。

 

 教室の扉がガラガラと開き、おずおずと首を出した松原先生は、ひとり教室で勉強をしている僕を見つけると少し安心したような顔になった。

 

「今日はこっちだったか」

「木曜だから図書室、閉まってるし」

 つい、そう答えてしまってから、先生にはそんなこと分かり切ってるはずなのにわざわざそんな風に言ったのは僕に喋らせるためだったのだろうかとなんとなく思った。

 僕の学校では、毎週木曜日は原則図書室は施錠されている。

 だから週に一度は、必ず教室で過ごさなければいけない。

「隣、座ってもいいか?」

 別に嫌じゃなかった。だから少し席を外側にずらして、先生が座りやすいようにスペースをあけた。先生が学生用の椅子に腰を下ろすと、クラスメイトと比べてとても身体の大きいことがよくわかる。

 そんなことを考えていると、いきなり先生はぐったりと机に突っ伏した。

 

「先生がそんな行儀が良くないことしてもいいんですか?」

「じゃあ、今だけ先生を辞める。桝谷なら告げ口したりしないだろうし」

 桝谷なら。そう言われて、先生に僕の何が分かるんだろうと一瞬思ったけれど、実際のところ先生のことを誰かに悪く言うつもりはなかったから、間違ってはなかった。

 

 それから松原先生は、部活の指導がうまくいかないこととか、職員室で実は肩身が狭いとか、同僚の体育教師同士のノリがちょっと合わないんだよなあとか一方的に愚痴を話した。

 

 僕はちゃんと聞いてるのか聞いていないのか、分からないくらいの曖昧な相槌を打ちながら、視線は参考書とノートに向けたまま勉強を続ける。先生に対してする態度としては少し失礼かもしれないけど、先生が先生らしくない態度を取るほうのがいけないのだと僕は思っていたし、松原先生も僕に対して特に咎めるようなことを言うこともなかったから、ほとんど先生が一方的に話すのを聞いていた。

 

 いつからか、それは毎週木曜日の日課になっていた。たまに遅くまで教室にクラスメイトが残っているときにはそれは起こらなかったけど、そんな風に週に一度だけ先生と二人で過ごすことが段々当たり前になっていた。自分でも気づかないうちに、自分にしか見せない先生の先生らしくない姿を見るのが、少しずつなぜか楽しいものだと感じるようになっていた。それに松原先生自身のことを知れば知るほど、先生の話を聞けば聞くほど、どう言葉で言い表せばいいのか正確には分からないけど、先生のことをゆっくりと僕は好きになっていた。

 

 それはもしかすると尊敬や憧れの気持ちだったのかもしれないし、単純な親しみだったのかもしれないし、ほとんど友達がいたことがないから僕には分からないし、年齢も離れているから友情というのは少しおかしいけど、友情に近いものだったのかもしれないし、もしかしたら恋愛感情に近いものだったのかもしれない。

 でも一番近かったのは、幼いころほんの少しの間、感じたことのある記憶。

 父親に向けていた感情に、それは良く似ていたのかもしれない。

 そして、それから木曜日のある日に、松原先生の前で僕は初めて泣いた。

Comments

mtosak

完結するまで、感想はまだかかないでもらえるとうれしいです。 (いいねは大歓迎)